前回の続きになります。
藤原道長が、摂政・関白の職にわずかな期間しか就任しなかった理由を考える、というものでした。
ここでは、「古瀬奈津子『摂関政治』シリーズ日本古代史⑥岩波新書2011年」を参考に、授業を考えていきます。
大学受験レベルをはるかに超えてしまうとなかなか難しいですので、ここでは高等学校で学ぶレベル内で思考力を高めていきたいと思います。
藤原道長は20年間の長きにわたって、2つの職を兼任していました。
これは高校生が使用する図説などにも記載があるものですが、読者の皆様は見当がつきますか❓
それは、
「❓」…それって一体何❓
内覧とは、
摂政・関白に準じる職で、太政官(だいじょうかん)から天皇に上奏する文書をあらかじめ内見することができる役職です。
太政官とは、国政を総括する最高の官庁のことを指します。
国政を総括するという権力の中枢にある太政官の政治方針を、天皇より先に知ることができる。
藤原道長としては、今後どのように動いていけばよいかをあらかじめ考えておくことができる、ということになります。
太政官には、藤原道長からすれば抵抗勢力になる貴族が多く存在するわけですから。
左大臣とは、
太政官の「実質的な」トップ、になります。
「実質的」と書いたのは、本来太政官のトップは、太政大臣が務めます。
しかし太政大臣は「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれ、適任者のいない場合は設置されませんでした。
つまり、
常に設置された官職の中で最高位だったのは、左大臣ということになるわけです。
この地位は一上(いちのかみ)と呼ばれ、太政官の「実質的な」トップとして君臨したのです。
左大臣は、欠員の太政大臣に代わり、国政を主導し、重要審議の最終責任を担っていました。
藤原道長は、この左大臣という地位を決して手放そうとはしませんでした。
太政官が持つ絶大な権力の中枢にいることが、自らの政権の安定に不可欠と判断したのです。
藤原道長以前は、摂政・関白になると天皇補佐に専念するため、一上の地位を手放すことになっていた、とされています。
藤原道長はこの先例に恐れをいだき、摂政・関白と実質的には同じ権限を持つ内覧と、太政官の実質的トップである左大臣の職に強いこだわりを持っていたのです。
天皇家との姻戚関係。
官吏の人事権の掌握。
これだけでは不十分でした。
この2つの職が、摂政・関白に就任することよりも重要なことでした。
天皇家とミウチになり、
国政を総括する最高官庁である太政官の実質的なトップになり、
太政官から天皇に上げられる方針を事前に把握する立場を確保し、
自らに対抗しうる貴族の人事権を掌握する。
ここまでして藤原道長は、ようやく自らの権力の安定をはかることができたのでした。
こう考えてくると、摂政・関白に就任することだけが、権力掌握の必須条件ではなかったことが理解できます。
平安の世を生きた藤原道長は、どこを抑えることが権力の安定に必須なのか、ということがよくわかっていました。
表面的な学習では、平安時代において権力を握るには、摂政・関白に就任することが何よりも重要❢ということになってしまいます。
しかし、
藤原道長は、摂政・関白の座にほとんど就いていない、
という事実を確認してはじめて、藤原道長の権力の源泉は何か❓を考えることができるようになります。
大学入試問題は、たかが入試問題では決してありません。
歴史を深めるためには、実に面白い教材なのです。
やはり、歴史は奥が深いものです。
読者の皆様は、どのような感想をお持ちになられましたか。