前回のお話の続きになります。
武士という軍事力が抱えた問題点を考えてみよう、ということでした。
ここでは、「川尻秋生『平安京遷都』シリーズ日本古代史⑤ 岩波新書 2011年」を参考にして、高校生に次のような説明をしております。
実は平将門は、反乱を起こしている最中の正月下旬に突然兵士を解散したのです。
えっ❕❔なぜですか❔❔ たいていの高校生は驚きます。
この時代は旧暦を使っていますので、正月下旬といっても現在の1月下旬ではありません。
今私たちが利用している新暦は、旧暦と比べてひと月程度のズレがありますので、現在の感覚で言えば、2月下旬~3月初旬といったところでしょうか。
つまり春なのです。春と言えば「農作業の準備」が始まる大切な季節です。
平将門が兵士をこの時期に解散させたのは、当時の兵士の性格に理由があります。
当時の一般的な兵士は、「農民」だったのです。
農民は春~秋の収穫時まで「農繁期」で忙しい日々を送ります。そして秋~冬が「農閑期」で比較的時間に余裕が出来ます。
この「農閑期」に農民は兵士となり従軍し、「農繁期」には兵士は農民に戻るのです。
ですから当時の戦争は、基本的に「秋~冬」に実施されていました。
平将門の乱は、「春」をまたいでいます。平将門もやむなく春には、兵士の軍役を解除して、農民に農作業の準備を行わせる必要がありました。そうなれば当然ですが、平将門の軍事力は大幅に削減されることになるわけです。
この状況を把握していたのが、同じ東国武士の平貞盛・藤原秀郷でした。彼らは軍事力が大幅に低下した平将門を襲撃し、この襲撃を受ける中で平将門は討ち取られてしまいました。
あれだけ強かった平将門があっさり負けた❢ように見えたのは、上記のような理由からでした。
今までみてきました兵士の性格(兵士は農民でもあること)は、長い間「戦争の長期継続」という点で武士を悩ませてきました。この問題点を解消するために、戦国時代の武将は、城下町を作り家臣である武士を集住させました。いつでも戦いに参加できる態勢を整えさせると同時に、武士を戦うことを職業とする戦士にしたのです。
一方、唯一の食糧生産者である農民は、村に住んで農作業に専属で従事することになります。戦う必要はありません。武士によって守られる存在です。ですから武器は不要になります。刀狩(かたながり)によって武器を没収されることになります。
豊臣秀吉によって完成された「兵農分離」によって、城下町に住む戦士と村に住む農民とが明確に区分されることになりました。秀吉の跡を継いだ徳川家康もこの方針を受け継ぎます。
つまり職業によって、居住地域が異なるわけです。
武士は戦う存在、農民は農作物をつくる存在。
このような区分は全て、戦争の長期継続の必要性から生み出されたものです。
職業分業制。これは「兵士=農民」という弊害をどのように乗り越えるのか、という難題に直面した戦国武将達が編み出した、合理的かつ現実的な方法論だった、と言えるのではないかと考えています。
やはり歴史は、実に面白く、奥が深いものだと感じます