第8回目は、「平将門の乱から考える武士という軍事力の問題点」について考えてみたいと思います。
突然ではありますが、
平将門(たいらのまさかど)という武士をご存知でしょうか。
まずは下記の系図をご覧ください❢
桓武天皇
↓子
葛原親王(かずらはらしんのう)
↓子
高見王(たかみおう)
↓子
平高望(たいらのたかもち:桓武平氏の祖)
↓子
平良将(たいらのよしまさ)
↓子
平将門
上記の系図を見てお分かりのように、桓武天皇(かんむてんのう:平安京への遷都を行った)の子孫で平姓を名乗る「桓武平氏(かんむへいし)」の一族です。
平将門は、下総国(しもうさのくに:現在の千葉県と茨城県)の猿島(さしま:現在の茨城県坂東市)を地盤としていました。
高等学校の教科書などには、平将門についてこのように記されています。
「平将門は下総を根拠地にして一族と争いを展開するうちに、国司とも対立するようになった。939(天慶2)年についに反乱を起こし、常陸(ひたち:現在の茨城県)・下野(しもつけ:現在の栃木県)・上野(こうずけ:現在の群馬県)の国府(こくふ:今の県庁にあたる)を攻め落とし、東国の大半を占領して自ら新皇(しんのう)と名乗った。」と。
以前、平将門が起こした反乱についての授業が終わった後、高校生から次のような質
問を受けました。
「先生‼ 教科書には、平将門が同じ東国の武士の平貞盛(たいらのさだもり)・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に討たれたと書かれてありますが、あれだけ強かった平将門はどうしてあっさり負けてしまったのですか❓❓」と。
これはいい質問だと思いました。
なぜなら、豊臣秀吉によって「兵農分離」が完成されるまで、武士が長い間抱えていた問題点を見事についた質問だったからでした。
正確に言えば、あっさり負けたように見えたのはなぜですか❓
ということなのでしょうが…。
武士が長い間抱えていた問題点(「悩み」とでもいいましょうか)とは一体何か❓
兵農分離によって、社会はどのように変化したのか…。
大学入試問題にも直結するこの質問に、私がどのように答えたのかは、次回にお話しさせていただきたいと思います。