前回のお話の続きになります。
遣隋使派遣に秘められた倭国の外交戦略についてです。
607年の第2次遣隋使では、小野妹子(おののいもこ)が派遣されたのですが、小野妹子が持参した倭国からの国書には、次のように書かれてありました。
「日出(い)づる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没する処の天子に致す。」と。
この一文には、隋の皇帝煬帝(ようだい)を怒らせるのに十分な「ある文字」が刻まれていました。お分かりになりますか❓
答えは、「天子」の文字です。天子とは、中国における君主の呼称です。その尊い呼称を、中国からすれば「東夷(とうい)」にあたる倭国の王が自称するなど、到底承認できないことでした。
ここで疑問に思われた方がいらっしゃると思います。「東夷」とは一体…❔
日本の歴史を学ぶ際に、大変重要になってくる「中国の世界観」についてご理解いただきたいと思います。私は、「大津透『日本古代史を学ぶ』岩波書店 2009年」を参考にして、高校生に説明しております。
中国の世界観、つまり中華思想において、中国は世界の中心に位置しています。その頂点に徳(とく:他に影響し、感化を及ぼす力のこと)を備えた皇帝がいます。
皇帝は、天帝という最高神の命令(これを天命といいます)を受けて、世界を統治しています。皇帝は、自らの徳を慕って人々が中国にやってきて、皇帝の支配下に入ることを大変に喜びます。
皇帝の徳が及ぶ地域を「化(け)」といいます。「化」の外の人々は「化外(けがい)の民」であり、この「化外の民」は東西南北にそれぞれ存在していたのです。
北(北狄:ほくてき)
(西戎:せいじゅう)西 中国 東(東夷)
南(南蛮:なんばん)
「化外の民」であった東夷の倭国の使者が、はるばる中国にやってきて、皇帝の「化」に入ることを望んでいる。皇帝の徳が、拡大していく。皇帝は喜んで、倭国の王を臣下にして称号を与えるのです。
時代はさかのぼりますが、卑弥呼は魏の皇帝(当時は明帝)から、「親魏倭王」の称号を与えられました。皇帝から授かった権威を背景に、国内統治を行ったのです。
卑弥呼に関するお話は、中国の歴史書『魏書』の「烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝」倭人の条に記載があります。やはり東夷の文字が使われています。
このように皇帝から称号を授けられて、皇帝と君臣関係(上下関係)を結んだ外交政策を「冊封(さくほう)体制」と呼びます。卑弥呼は自ら冊封されることを望んだのでした。
しかし❢
遣隋使が卑弥呼の時代などの倭国の外交と決定的に異なるのは、倭国の王が中国皇帝からの冊封を受けなかったことにあります。
これはどういうことを意味するのでしょうか❓
そもそも遣隋使は、どのような目的で派遣されたのでしょうか。前回お話いたしましたように、朝鮮半島南部における影響力の低下に対応したものでした。
遣隋使を派遣することが、なぜ朝鮮半島南部における影響力低下の防止に役立つのか…。
つまり、こういう考え方です。
朝鮮諸国は中国皇帝から冊封されています。中国皇帝の臣下として存在しています。
倭国の王は、中国皇帝の呼称である天子を自称し、そして中国皇帝からの冊封を意図的に受けませんでした。
厩戸王(聖徳太子)をはじめとする倭国の支配者層は、中国皇帝から冊封を受けない独立した王を有する国であることを隋から認めてもらうことで、中国皇帝から冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を示したかったのです。
冊封を受けていない国が上位で、冊封を受けている国が下位という考え方です。
これが遣隋使派遣に秘められた外交戦略だったのです❢
倭国は、大帝国である隋に対して極めて大胆とも思える外交戦略を展開したわけです。
倭国の支配者層の焦りが伝わってくるようです。