第7回目は、「厩戸王(聖徳太子)の外交戦略」について考えてみたいと思います。

 

いきなりですが、問題です

 

589年南北に分かれていた中国王朝を統一した新しい王朝の名前をご存知ですか

 

 

答えは「(ずい)」です。

 

隋は598年以降、陸続きであった朝鮮半島北部に位置していた高句麗(こうくり)に大軍を派遣し、圧力をかけ始めます。

 

こうして、東アジア世界は激動の時代を迎えたのです

 

ところで、6世紀ころの朝鮮半島は、以下のような国々によって構成されていました。

<朝鮮半島北部>

 

 

高句麗

 

百済

 

 

新羅

加耶

<朝鮮半島南部>

 

倭国(のちの日本)は4世紀ころから、鉄資源最先端技術を確保するために加耶(かや)と密接な関係を持っていたとされています。

 

しかし、562年までに加耶は百済(くだら)・新羅(しらぎ)の支配下に入ってしまい、倭国の朝鮮半島南部における拠点が失われてしまいました。

 

これは国家の一大事です

 

今まで長い間、朝鮮半島南部に対して影響力を持ってきたのに、それがすべてなくなってしまいます。

 

何とかして朝鮮半島諸国(高句麗・百済・新羅)に対して、倭国の優位性を知らしめる必要性が生まれたのです。

 

そこで倭国が選択した方法が、大帝国である隋への遣隋使派遣だったのです

 

中国の歴史書である『隋書』には、600年の遣隋使の様子が記載されています。

当時の隋の皇帝は文帝(ぶんてい)でしたが、倭国の遣隋使は文帝に厳しく非難されています。

 

それはなぜなのでしょう…。

 

当時の倭国には、隋に示すことのできる政治理念や統治制度が何も整っていなかったのです。巨大な帝国である隋に倭国を認めてもらうためには、最低限の政治制度などを整えておく必要がありました。そこで定められたのが、

 

冠位十二階(603年制定)と憲法十七条(604年制定)

 

だったわけです。特に「憲法十七条」には儒教と仏教の尊重が盛り込まれています。

 

それはなぜでしょうか。

 

隋という統一王朝の成立により、東アジア世界は激動の時代に突入しました。この激動の時代を生き抜くためにも、天皇を中心とした官僚制国家の建設が必要不可欠である、と考えられました。

 

中国で興った儒教は君臣道徳(身分の上下関係)を説きます。そして仏教は大帝国である隋においても取り入れられています。

 

つまり、儒教と仏教は大帝国である隋が採用している最先端かつ高度な文化だったと言えるのではないでしょうか。

 

儒教と仏教の尊重を「憲法十七条」に取り入れることは、国内の豪族に政治理念を説明し、豪族の官僚化を進めていく際に、そして次の遣隋使倭国の政治理念を皇帝に説明する際にも、とても有効であると考えられたのです。

 

こうして607年第2次遣隋使である小野妹子(おののいもこ)によって、倭国の新しい政治理念が皇帝に語られた、はずなのです。

 

しかし、遣隋使であった小野妹子が持参した国書(君主の間の外交文書)には、厩戸王(聖徳太子)をはじめとする権力者の外交戦略がちりばめられていたのでした。

 

その戦略とは一体何か❢❓

 

そもそも遣隋使派遣にはどのような意味があったのか❕❔

 

このお話は、次回にさせていただきたいと思います。