受験日本史 現役私立高校教師が教える歴史!新時代の入試を突破できる思考力・判断力・表現力・記述力を鍛える日本史
  • 06Jul
    • ブログ一時休止のお知らせ

      皆様、こんばんは。いつもご覧いただき、まことにありがとうございます。フォロワーの皆様方、そしていつも私のブログをお読みいただいている皆様方にお知らせです。新型コロナウィルス感染拡大防止の観点より、本校も休校措置がとられておりましたが、現在では休校措置も解除されほぼ通常通りの学校生活が開始されております。これまでのさまざまな面での遅れを取り戻すかのような行事日程になっておりまして、多忙な日々が続いております。このため大変恐縮ではございますが、ブログ掲載を一時休止させていただこうとの考えにいたりました。この多忙な日々がもうしばらく続きます。時間的にも精神的にも余裕ができましたら、再度皆様方に「日本史を深める」ブログを読んでいただきたいと存じます。必ずブログを再開致したいと存じます。何卒、宜しくお願い申し上げます。

  • 02Jul
    • 日本史の考え方130「なぜ大衆文化は誕生したのか」

      みなさんは、「円本(えんぽん)」を知っていますか❓円本とは、「1冊の定価が1円の全集本📖」という意味で名付けられました。1920年代の後半ごろ流行した出版界の現象で、同時期、東京市内の特定地域を1円均一の料金で走ったタクシー🚖を「円タク」と呼んだのと同種の略称です😊1926(大正15)年12月3日の改造社の『現代日本文学全集』全37巻に始まり、以後、新潮社の『世界文学全集』など、各社が競って従来の単行本数冊分を「全集」本の1冊に収めていることなどを広告し、数十に及ぶ文学全集を刊行しました。また岩波書店が小型の書籍である文庫本を刊行して、低価格・大量出版の先駆けとなり、大衆娯楽雑誌『キング』の発行部数も100万部をこえました。この時代は、新聞🗞や雑誌の発行部数が飛躍的に伸びた時代です。大正末期には、『大阪朝日新聞』と『東京朝日新聞』、『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』の系列のように発行部数100万部をこえる新聞が現れ、『中央公論』や『改造』などの総合雑誌も急激な発展をとげました。総合雑誌とは、論文や評論、それに随筆や小説などさまざまな記事を内容とする知識人向けの雑誌のことです。さらには『サンデー毎日』や『週刊朝日』などの週刊誌、『主婦之友』などの女性雑誌のほか、一般投資家向けの『経済雑誌ダイヤモンド』なども刊行されました😊このような読者層の拡大は、学歴の向上を前提条件としていると考えられます。文字を読める人が増え、そして何よりも知的水準を向上させようとする人々が増えないことには、出版物は売れていきません。どうしてこの時代、人々の学歴の向上がはかられたのでしょうか❓日本の教育史を概観すると、1886(明治19)年に出された『小学校令』は、尋常科・高等科・簡易科(1890年廃止)を置くとともに、尋常科への就学義務を課します。1900(明治33)年の『改正小学校令』は、尋常小学校の修業年限を4年に統一し、1907(明治40)年には尋常小学校は6年制、つまり義務教育が6年となり、第二次世界大戦前の制度が確立することになりました。1892(明治25)年の就学率は男子70%、女子36%でしたが、1900(明治33)年に義務教育期間の授業料が廃止されたため、就学率は1902(明治35)年には90%を、そして1907(明治40)年には97%をこえます😲こうしてほとんどの国民は、文字を読み、書けるようになるのです😊1899(明治32)年の中学校令改正によって、「中学校は男子に須要なる高等教育をなす」学校として、高等学校(旧制)および大学(旧制)への進学を主目的とするようになります。中学生の生徒数は、1920(大正9)年には約17万人でしたが、1930(昭和5)年には約34万人に倍増しています。さらに、1918(大正7)年に原敬内閣によって制定された高等学校令にもとづいて、高等学校の増設が進められていきます。同年には大学令も制定され、総合大学である帝国大学のほかに、公立・私立の大学🏫の設置が認められることになりました。大学生の数は、1918(大正7)年には約9000人でしたが、1930(昭和5)年には約7万人に増加するのです😲こうして日本には「インテリ」と称される、知識・学問・教養を持った階層が増えていきました。高学歴者であるインテリ層は、文字の読み書きだけでは飽き足らず、さらなる知的水準の向上をはかろうとします。こうした欲求を満たすべく、新聞・雑誌・ラジオ・映画などのマス=メディアが急速に発達し、第一次世界大戦後には、労働者やサラリーマンなどの一般勤労者を担い手とする大衆文化が誕生するのです。現在でもそうかも知れませんが、人々には学歴に対するあこがれがあります。原敬内閣は衆議院での選挙で勝利するため、日本国民が渇望する学歴を国民に提供することで票を獲得していきます。東大をはじめとする帝国大学しか「大学」ではなかった時代から、私立の学校が大学に昇格するなか、大学生になることができる国民が増え、彼らが日本文化の水準を向上させていったのです。勉強したい❢上級の学校に進学したい❢❢この切実な思いこそが、人々の大きな原動力だったのです😊

  • 28Jun
    • 日本史の考え方129「なぜアメリカはワシントン会議を開催したのか」

      ワシントン会議は、1921(大正10)年11月から翌年2月までワシントンで開催された国際会議です。この会議によって、次のような諸条約が締結されることになりました。①四カ国条約この条約は、日本・イギリス・アメリカ・フランスの間で結ばれた太平洋問題に関する条約です。発効は1923(大正12)年で、有効期間は10年。太平洋の島々における相互の権利尊重、現状維持をはかったもので、条約発効とともに日英同盟協約が廃棄されることになりました。②九カ国条約この条約は、日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ・ポルトガル・中国との間で結ばれた中国に関する条約です。中国の主権尊重・領土保全と門戸開放・機会均等などを規定しました。日本は第一次世界大戦中、欧米列強がヨーロッパでの戦争に全力を注ぎこんでいる間に、日露戦争での講和条約であるポーツマス条約でロシアから譲り受けた南満州の権益の期間を大幅に延長してその安定化をはかるとともに、第一次世界大戦開始後に日本が占領した山東省の旧ドイツ権益の利益を引き継いで、中国での勢力の拡大をはかろうとしていました。このため、日本の大隈重信内閣は「二十一カ条の要求」を中国の袁世凱(えんせいがい)政府につきつけて、その大部分を承認させるのです。これを契機として、中国国内には激しい反日気運が高まり、欧米列強は日本の中国進出に対して警戒心を強めました。ところでアメリカが日露戦争で日本に好意的立場をとり、日露間の講和を仲介したのはなぜでしょうか❔それは、ロシアが満州を独占的に支配することを警戒したためでした。ロシアによる満州独占を排除するべくロシアと戦争した日本に対して、アメリカは好意的姿勢を示しました。しかし日露戦争後、日本の南満州への進出が盛んになると、満州の鉄道・市場に強い関心を持っていたアメリカと対立することになってしまいました。「二十一カ条の要求」で南満州における権益強化をはかる日本に対して、アメリカは警戒心を強めることになります。こうした中、日本はアメリカと中国における利害の調整をはかる必要性に迫られることになるのです。1917(大正6)年に結ばれた「石井・ランシング協定」によって、アメリカは中国における日本の特殊権益を認め、また日米両国は中国の独立と領土保全・門戸開放・機会均等の原則を確認することになりました。この「石井・ランシング協定」が九カ国条約によって、廃棄されることになります。四カ国条約・九か国条約の締結の結果、日英同盟協約と石井・ランシング協定が廃棄されたことからわかる通り、アメリカは日本の孤立化をはかっていきました。アメリカは、第一次世界大戦中の東アジアにおける日本の膨張を抑制しようとしていました。日本は第一次世界大戦後の国際政治の主導権を掌握しつつあったアメリカと協調関係を確立して、国際的な孤立化の危機を回避する目的から積極的に条約調印を行っていきます。③ワシントン海軍軍縮条約この条約はアメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの5ヵ国間で調印され、主力艦の保有比率をアメリカ・イギリス各5、日本3、フランス・イタリア各1.67とし、今後10年間老朽化しても代艦を建造しないことを定めました。アメリカは、アメリカ・イギリス・日本の建艦競争を終わらせて自国の財政負担を軽減することを目的に海軍軍縮会議を開催したのですが、日本としても巨額な軍事費の支出の結果、国家財政の健全な運営が困難になりつつありました。日本としても軍事費を抑制する必要性に迫られていたため、海軍内では軍縮に対して不満が噴出することになりますが、この不満を抑えて条約の調印が行われました。ワシントン会議においてアメリカは、明確な意図を持ってこの会議を開催し、条約に調印していきました。明確な意図、それは軍艦建造を抑制することで財政負担の軽減をはかり、そして第一次世界大戦中に東アジアに膨張した日本の勢力を抑え込むことでした。アメリカが主導して締結された国際協定は、戦争再発の防止と列強間の協調を目指したもので、それらに基づくアジア・太平洋地域の新しい国際秩序は、ワシントン体制と呼ばれました。アメリカにとって日本は脅威な存在になりつつありました。ワシントン会議は、アメリカをはじめとした欧米諸国が、日本を危険な競争相手とみなし、警戒心を強めたからこそ開かれた会議だったのです。

  • 25Jun
    • 日本史の考え方128「明六社とは」

      みなさんは、「明六社」を知っていますか❓明六社は、アメリカから帰国した旧薩摩藩(現:鹿児島県)の藩士であった森有礼(もり ありのり)が、1873(明治6)年、欧米諸国の学会にならった学術・談話の会の設立を志し、西村茂樹らと相談して結成された結社です。西村茂樹は、下総国(現:千葉県)佐倉藩士の家に生まれています。幕末期、藩主であった堀田正睦(ほった まさよし)が老中外国事務専任になると、側近として活躍し、のちに貴族院議員として活躍しています。1874(明治7)年に決められた規則では、日本の教育の発展をはかり、会員相互の意見交換で知識の発達を目指すとされ、月2回の集会と『明六雑誌』の発刊を主な活動とし、西洋文明の摂取に多大の影響を及ぼしました。当初の会員は、森有礼と西村茂樹のほか、加藤弘之・津田真道・中村正直・西周(にし あまね)・福沢諭吉ら10人でした。加藤弘之はのちに帝国大学(現:東京大学)総長を歴任するなど、日本の政治学者・教育家として知られる人物です。西周は幕府留学生として津田真道らとオランダに留学し、法律・政治・経済・哲学などを学んで帰国し、開成所(江戸幕府の洋学研究教育機関で、のちの東京大学)の教授を務めます。そしてのちに「哲学」「理性」「主権」といった訳語を作り出し、近代哲学の基礎を築いた人物です。明六社の会員はそのほとんどが幕末に蘭学を学び、のち英語・フランス語・ドイツ語などを学ぶことで洋学研究を深めた人達ばかりです。そしてその卓越した洋学知識で幕府の開成所に仕え、幕府の使節団員や留学生として欧米経験を経た者で、明治維新後、福沢諭吉を除いては明治政府に仕えました。明六社の機関誌である『明六雑誌』は、会員の講演や論文を毎号掲載し、当時一流の啓蒙(けいもう:一般の人々の無知をきりひらき、正しい知識を与えること)雑誌として多大の影響を与えました。明六社は西洋文明を日本国民に広めた、当時先進的な学術集団ではありましたが、1874(明治7)年に板垣退助らによって提出された「民撰議院(=現:国会)設立の建白書」に対しては、誌上で一斉に批判して、時期尚早論を展開しています。ここからわかるように、明六社は政府の開化路線を基本的に支持する立場から啓蒙活動を展開していったのです。明六社会員であった福沢諭吉は、一身独立の文明精神を啓蒙するためには学者は官(国家)に仕えず、「私立」の手本となるべきだと主張しています。こうした考え方に対して、森有礼や加藤弘之らは「官」にあるも「私」にあるも学問に変わりはないとして反論しています。しかし、自由民権運動が展開される中、反政府的言論活動を抑制する必要から政府は1875(明治8)年に讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例を発布します。政府が発令した言論統制の法に抵触することを恐れた福沢諭吉の提案で、『明六雑誌』を同年11月に廃刊、明六社の啓蒙活動も終焉を迎えることになります。しかし学問を話し合う場としては1910(明治43)年頃まで続き、東京学士会院発足に大きな影響を与えました。東京学士会院は、1906(明治39)年に帝国学士院に改組され、帝国学士院も1947(昭和22)年には日本学士院に改称されています。日本学士院は、日本最高の学術栄誉機関です。1949(昭和24)年に日本学術会議の付置機関となりますが、1956(昭和31)年には「学術上功績顕著な科学者」を優遇する機関として日本学術会議から独立し、現在に至っています。この日本学士院の起源は、東京学士会院です。東京学士会院の初代会長に就任した福沢諭吉は、「官」ではなく「民」の中で啓蒙活動を展開し、慶應義塾を創設することで多くの人材を世に輩出したのでした。明六社から始まった近代的な「学問=新たなる知の獲得」という活動は、これまでも、そしてこれからも未来を目指して生き続ける人々によって営まれていくものなのだと思います😊

  • 22Jun
    • 日本史の考え方127「古代の土地政策とは②」

      前回の続きになります。墾田永年私財法発令にともなう、初期荘園の形成についてでした。高等学校で使用する日本史の教科書などには、次のように記述されています。墾田永年私財法の「墾田」とは、新たに開墾した田地のことで「治田(ちでん)」とも記されています。墾田の面積は身分に応じて制限されていましたが、開墾した田地の私有が政府によって永年にわたって保障されることになりました。この法は、政府の掌握する田地を増加させることにより土地支配の強化をはかる積極的な政策でしたが、その一方で貴族・寺院や地方豪族たちの私有地拡大を進めることになりました。とくに東大寺などの大寺院は、広大な原野を独占し、国司や郡司の協力のもとに、付近の農民や浮浪人らを使用して灌漑施設をつくり、大規模な原野の開墾を行いました。こうして初期荘園とよばれる荘園が誕生することになります。この初期荘園は、経営拠点の荘所を中心に、国司・郡司の地方統治に依存して営まれ、独自の荘民をもたず、郡司の弱体化にともない衰退していくのです😓これは一体どういうことでしょうか❓初期荘園とよばれた荘園の内部に存在したのは、既耕地である墾田と墾田予定地、および荘所に限定されていました。農民たちが住む集落は荘園の領域の外部に存在していたことから、初期荘園は集落を含まず、荘民も原則として存在していませんでした。このため、墾田の開発や耕作は、周辺の班田農民(口分田を班給され、税を負担した農民)による労働力に全面的に依存せざるをえず、耕作は賃租(ちんそ)という1年契約の小作によって行われたのです。賃租とは、古代における田地に対する1年間の賃貸借制度です。古代には、田地などの不動産売買に2つの種類がありました。1つは1年を限度とする売買で、律令用語で賃租といい、もう1つは、長期間にわたる永年の売買で永売(えいばい)といいました。賃租は、収穫の5分の1(つまり20%)を地子(じし:賃貸料のこと)として政府や持ち主に納めました。このように初期荘園は固有の労働力を持たなかったので、平安中期には衰退していくことになりました。初期荘園の基盤が脆弱(ぜいじゃく)であったのは、その開発が律令国家の耕地拡大政策の一環として導入されたもので、当時の技術水準では開発の困難な土地が多く含まれていたためでした。また労働力の徴発についても、旧国造(くにのみやつこ)に系譜を引く郡司に依存していたことによります。初期荘園は律令制下の班田収授制に矛盾せず、むしろこれを補完する役割が期待されたのですが、強制労働に対して班田農民たちは激しく抵抗します。さらには地方の実情をよく把握し、荘園を開発するために民衆を動員することに大きな役割を担った郡司の力が弱まることで、労働力となる農民を集めることが困難となる中、初期荘園は衰退していくことになったのです😓つまり!初期荘園は国家が主導して形成された荘園でした。政府が掌握することができる田地を増加させるため、農民の労働力を強制的に集めたのでした。ですから民衆統治に特に重要な役割を果たした郡司が弱体化するとともに、初期荘園も衰退していく道をたどったのです。ちなみに初期荘園には官省符荘(かんしょうふしょう)と、墾田集積荘園(こんでんしゅうせきしょうえん)とがあります。前者は政府から不輸租(ふゆそ:租を納めなくてよい)と永世所有を公認され、律令国家期では特定の神社と寺院だけが所有することができました。後者は租を納めなければならない輸租田で、領有者は荘園から賃租価直(ちんそかちょく:農民に1年間耕作させるかわりに徴収するもの)を得るだけでした。初期荘園は国家の思惑によって誕生し、国家体制の変質とともに消えていったのです。

  • 19Jun
    • 日本史の考え方127「古代の土地政策とは」

      古代律令国家では、民衆は戸主(こしゅ:家長のこと)を代表者とする戸に所属する形で、戸籍に登録されていました。戸籍は6年ごとに全国民を調査し、戸を単位として詳細に登録・集計した国民支配のための基本的な帳簿です。戸籍を作成する目的はいくつもありますが、その目的の1つが、民衆に口分田を班給し、そしてその死後に口分田を収公することにありました。日本で初めて作成された戸籍は、天智天皇の時代の「庚午年籍(こうごねんじゃく)」です。しかし、この庚午年籍より6年に1度戸籍が作られるようになったわけではなく、天智天皇の子で、天武天皇の皇后である持統天皇の時代の「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」から6年に1度戸籍が作られるようになりました。日本が手本とした唐の戸籍は3年に1度、正月から3月にかけて作成されましたが、日本の場合は6年に1度、11月から翌年の5月にかけて作成されていました。戸籍作成に果たす国司の役割は大きかったのですが、実際にはヤマト政権時代に国造(くにのみやつこ)として地方支配を行い、律令国家では地域の事情に精通し、高い民衆統治力を保有した郡司が中心となって、民衆の把握が行われていました。戸籍は3通作成され、1通は国府(こくふ:現在の県庁を中心とした地方支配のための役所)に保管、2通は太政官に送付されて民部省と中務(なかつかさ)省にそれぞれ保管されました。戸籍は30年間保管され、下級役人を採用する際にも「勘籍(かんじゃく)」として彼の属した過去5通30年分の戸籍が比較検査されている実例があります。古代律令国家は戸籍に基づいて口分田を班給することで、民衆の最低限度の生活を保障し、その対価として民衆に税負担を行わせていました。しかし、戸籍に登録された成年男性を中心に課税するシステムは、奈良時代の初期には大きな岐路に立たされてしまいます。奈良時代の歴史の基本史料である『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、奈良時代初期の民衆が重い税負担を逃れるために、四方に浮浪している状況が記載されています😨こうして耕作者がいなくなった口分田は荒廃していき、さらには人口増加のため、民衆に班給できる口分田が不足していくこととなりました。そこで律令国家は、水田の開墾を奨励する法令を発令するのです。その法令が、三世一身法(さんぜいっしんほう)です。未墾の耕地に、新しく池や溝の灌漑(かんがい)施設を設けて開墾した場合は3世(本人・子・孫の3代か、子・孫・ひ孫の3代のどちらを意味するか不詳)まで、旧来の灌漑施設を利用した場合は本人1代の所有を認めたのでした。しかし!この法令には大きな欠陥がありました😓土地所有の期間が、3世であろうと本人1代であろうと「期間が限定」されているというところが重要です。土地所有の期間が過ぎてしまえば、土地を国家に回収されてしまうということなのです😢この「期間の限定」に耕作意欲を失った農夫が耕作を怠り、田地が荒廃したという理由で、律令国家は新たな法令を発令します。その法令が、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)です。この法令によって、日本では初期荘園と呼ばれる荘園が誕生することとなりました。墾田永年私財法とは、一体どのような政策だったのでしょうか❓そして初期荘園とはどのような性格を持った荘園で、その後どのような運命をたどったのでしょうか❓❓この続きは次回にしたいと思います。みなさんも是非、調べてみて下さい😊にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村

  • 16Jun
    • 日本史の考え方126「井上馨の外交政策とは②」の画像

      日本史の考え方126「井上馨の外交政策とは②」

      前回の続きになります😊みなさんは、鹿鳴館と呼ばれた明治前期の洋風建築物を知っていますか❔鹿鳴館は外務省の計画で官設(かんせつ:政府が設置するということ)の「外国人接待所」として、東京府麹町区内山下町(現在の帝国ホテルの南側)に1881(明治14)年に着工、1883(明治16)年7月に落成し、11月28日に盛大な開館祝賀夜会が挙行されました。設計はイギリス人建築家のコンドルです。コンドルは、「日本建築界の父」もしくは「恩人」と称されるほどの偉人です😲主な設計作品に、上野博物館・鹿鳴館・三菱一号館・有栖川宮(ありすがわのみや)邸などがあります。日本文化に興味を持ち、日本文化の外国への紹介にも尽力しました。日本人を妻とし、日本で没しています。鹿鳴館は、煉瓦(れんが)造りの2階建、総建坪466坪の中に、大舞踏室を中心に客室・食堂・奏楽室・喫煙室・玉突場・婦人化粧室等があり、当時もっとも豪華な洋式建築でした。政府高官や外国使節等の舞踏会や音楽会・バザー等が開催されていました。上に掲げた絵を見たことがありますか❓この絵は、明治初期から中期にかけて、日本の社会・風俗を取材した風刺画を数多く描いたフランス人の画家であるビゴーによって制作されたものです。背の低い日本人が慣れない西洋の服を着て舞踏会に参加しているのですが、鏡には猿がうつっていることからわかる通り、外面だけ西洋化している、まさに「猿真似」している日本人を風刺しているのです。日本政府による必死な欧化政策もあって、日本国内を外国人に開放するかわりに、領事裁判権を原則として廃止する改正案が、欧米諸国によって了承されることになりました😊しかし!!領事裁判権の撤廃に関しては、欧米同様の法典を編纂し、外国人を被告とする裁判には半数以上の外国人判事を採用するという条件がついていたのです😨この条件については、政府部内でも国家主権の侵害であるという批判が起こり、井上馨が交渉促進のために採用したあまりに極端な欧化主義に対する反感もあいまって、改正交渉に反対する政府内外の声が強くなっていきました。1886(明治19)年には、ノルマントン号事件が発生し、日本人乗客を見殺しにし、イギリス領事による海事審判でノルマントン号の艦長の過失が問われない事実を知った世論は、不平等条約への反感を強めていくことになりました。政府内部では、明治政府の法律顧問として22年間日本に滞在し、近代日本の法体系形成に多大の貢献をしたフランス人法学者ボアソナードや、小村寿太郎をはじめとする政府高官、農商務相であった谷干城らが、井上馨外相の条約改正案を激しく非難しました。このような中で井上馨は交渉を中止し、外務大臣を辞任することになりました😓井上馨外相の条約改正交渉の失敗を受けて、1887(明治20)年、自由民権運動の最後をかざる反政府運動が起こります。三大事件建白運動です。三大事件とは、(1)言論・集会の自由、(2)地租・諸税の軽減、(3)外交失策の挽回(対等条約の締結)を主張し、世論を重んじない政府はただちに辞職すべきだ!と詰め寄ったのです。井上馨はその後、農商務大臣・内務大臣・大蔵大臣を歴任して、元老となっています。井上馨は財界との結合がとても強く、これを背景に政財界での黒幕の地位を保持し、強い影響を持ち続けた政治家でした。不平等条約下にある日本国の国際的地位の向上に尽力した井上馨は、第一次世界大戦中の1915(大正4)年に79歳でこの世を去りました。幕末に締結した不平等条約が完全に改正されたのは、井上馨がこの世を去る4年前のことだったのです。にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村

  • 14Jun
    • 日本史の考え方126「井上馨の外交政策とは」

      みなさんは、井上馨(いのうえ かおる)という人物を知っていますか❓井上馨は長州藩(現在の山口県)出身で、幕末に尊王攘夷運動に参加しています。1863(文久3)年、藩命により伊藤博文らとともにイギリスへ渡航し、開国の必要性を強く認識します。明治維新後、大久保利通大蔵卿(おおくらきょう:現在の財務大臣)が岩倉遣外使節団の副使として渡欧後は、大蔵卿代理として大蔵省の実権を握り、渋沢栄一らとともに新政府の政治的・財政的基盤の確立に努力しました。井上馨は1879(明治12)年に外務卿に就任し、内閣制度発足の1885(明治18)年第一次伊藤博文内閣の外務大臣に就任し、幕末以来の不平等条約の改正に尽力しましたが、鹿鳴館時代として知られる極端な欧化政策が激しい非難を浴び、辞職を余儀なくされました。今回は井上馨の条約改正交渉が、なぜ内外の厳しい批判にさらされたのかについて歴史を深めてみたいと思います😊日本にとって不平等条約の改正はまさに悲願でした。開国に際し国際法理解も不十分なまま、武力威嚇下に締結した1858(安政5)年の安政の五ヵ国条約(アメリカ・イギリス・ロシア・オランダ・フランス)などの条約は、在留外国人は日本の法律や行政規則を守らなくともよいと主張、それを俗に治外法権と称しました。また輸出入品の関税も協定関税率を強制されていたため、国家の主権を毀損(きそん)したうえに、関税障壁を高くして自国産業を保護するといった関税自主権もありませんでした😨さらにこういった不平等条約下の国家は、戦時国際法の適用外という理論があり、条約改正は国家の安全保障にかかわる重要な問題だったのです。戦時国際法とは、戦時における国家間の関係を規定する法のことです。この法は、戦闘方法や交戦国国民の財産・通商関係、中立国の権利義務などを規定していました。井上馨は1882(明治15)年、列国の代表を集めて行われた条約改正の予備会議で、日本国内を外国人に開放する(内地雑居)ことを発議しています。そして、その前提として外国人の日本裁判権への服従と領事裁判権の放棄を求めました。この内地雑居は、当時の日本人にとって重大な問題でした。安政の五ヵ国条約の規定では、外国人は居留地・開港場での居住およびその10里(40㎞:1里は4㎞)四方の遊歩のみが認められていましたが、明治維新以後、政府や諸藩によって招かれた教師・技術者また宣教師などが、内地雑居や国内旅行をし、土地を所有するなどの事態が生まれました。内地雑居の是非をめぐる議論は、文明開化期から展開されていましたが、日本国人の間では安政の五ヵ国条約の内容を励行させることで、外国人に不便を痛感させ、外国人に条約改正の必要性を強く認識させるべきだ❢❢との主張がなされることになりました。今では外国人が日本国内を自由に旅行したり、土地を購入して家屋を建設したりするのは、当たり前の状況で何ら不思議なことではありません。しかし当時は、外国人による土地購入が、外国人による日本占領・支配につながると考えられたり、外国人によって日本の伝統文化が破壊されるなどといったことが真剣に危惧されていたのです😓井上馨を代表とする日本政府は、条約改正交渉を円滑に進めるべく、欧化政策を推進することになります。日本の文化が西洋の文化に近づいていることをアピールすることで、条約改正交渉を進めやすくしたのです。このような欧化政策に基づいた外交を、鹿鳴館外交と呼びます。鹿鳴館外交の内実と日本政府の条約改正交渉とは、一体どのようなものだったのでしょうか❓この続きは次回にしたいと思います😊にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村

  • 10Jun
    • 日本史の考え方125「縄文人の漁法とは」の画像

      日本史の考え方125「縄文人の漁法とは」

      今回は縄文時代における「縄文人の漁法」についての歴史を深めてみたいと思います😊縄文時代は、地質時代区分では完新世にあたり、最終氷期が終わって気温が上昇した時代になります。温暖化によって氷河が溶け、海水面が上昇した結果、日本列島は大陸から孤立し、縄文文化が形成されることになりました。今から約6000年前に最近で最も暖かくなった時には、海水面は現在よりも数メートル高くなり、関東平野などでは海が内陸まで侵入していました😲このような現象を、縄文海進と呼んでいます。縄文海進によって今まで陸地だった場所に海水が入り込んだことで、漁労(ぎょろう)が発達することになります。縄文時代の前代である旧石器時代(=氷河時代)には行われていなかったと考えられている漁労は、縄文人に「魚🐡」という新たな食料源を提供することになりました。では縄文人は魚を獲得するために、どのような漁具や漁法を発明したのでしょうか❓漁労には骨角器(こっかくき)と呼ばれる、ほ乳類や鳥類などの角・骨・歯・牙などを加工した道具が使用されました。骨角器では、やす・釣り針・銛(もり)などの道具が作られ、魚が捕獲されていました。やすは、長い柄の先端に鋭くとがった加工物を装着して、柄を握ったまま獲物を突き刺す道具です。銛も獲物を突き刺して捕獲する道具ですが、銛には固定銛と獲物に突き刺さると先端部が柄から離れる離頭銛の2種類が存在します。この離頭銛は回転式離頭銛で、獲物に突き刺さると、銛先が柄からはずれる仕組みになっています。はずれた銛先は獲物の体内で回転し、抜けなくなる構造になっているのです。本当によく考えられています😲また、丸木舟⛵と呼ばれる舟が各地で発見されています。丸木舟は、切り倒した巨木の内部を削り出して作られた歴史上最初の形態の船です。日本最古の船の出土例は、約5500年前の縄文前期の鳥浜貝塚(福井県)から出土した丸木舟とされています。全長6m・最大幅60㎝、使用材は杉で、櫂(かい)を伴い、船首と船尾は先細に加工されていました。日本史の教科書にも記載されているように、伊豆大島や八丈島にまで縄文時代の遺跡がみられることは、縄文人が外洋航海術をもっていたことを物語っています。縄文人は生命を維持するための食料の獲得のため、高度な技術を身に着けていたことが証明されたわけです。では、漁法についてはどうでしょうか❓みなさんは、土錘(どすい)を知っていますか😊土錘は縄文時代の土製の錘(おもり)のことです。縄掛けのためと考えられる切込み、溝、貫通孔が彫られていることを特徴としています。土器破片を加工した土器片錘と、粘土による焼成によるものとの2種類が存在します。土製以外に石製のものがあり、これを石錘(せきすい)と呼んでいます。土錘・石錘が発見されたということはつまり、網を使用した漁法がさかんに行われていたことを示しているのです。一度に大量の魚を捕獲するには、網漁が適しています。縄文人は、骨角器・丸木舟・網漁を駆使することで、自分の生命を維持するための「魚」という食料を獲得していたのです。当時の人々の生活について知ることは、重要なことであり、また楽しいことであると思います。現在でも漁業はありますし、漁法においても網漁が行われています。当時に比べれば、現在はあらゆる面で進化していますが、それほど大きくは変わらない部分も多くあります。先人たちの知恵と勇気ある行動は、これからを未来に向かって生きていく現代人にとって、学ぶ価値のある歴史であると私は考えています😊時代は違っても、いつもこの地球上には、未来に向かって今を必死に生き抜こうとしている人々が存在しているのです。にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村

  • 07Jun
    • 日本史の考え方124「なぜ古代の銭貨は鋳造されたのか」の画像

      日本史の考え方124「なぜ古代の銭貨は鋳造されたのか」

      『日本書紀』の天武天皇十二年(683)年4月15日条に、「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ。」という一文があります。この銅銭こそが、日本最古の通貨として鋳造された「富本銭(ふほんせん)」です。1997(平成9)年より発掘が開始された、奈良県明日香村 飛鳥池工房遺跡から、確実に和同開珎(わどうかいちん)よりも古い年代をもつ富本銭が発見されたのです。この発見は、日本の貨幣史上の特筆すべき出来事でした😲今、上記に2つの貨幣を挙げました。富本銭と和同開珎です。ある国公立大学の入試問題で、この2つの貨幣はどのような目的で鋳造され、そして両貨幣ともに通貨として鋳造されたと考えられているにもかかわらず、どうしてそれほど流通しなかったのかを問う出題がありました。今回はこの点について考えてみたいと思います😊日本の古代律令国家は、全部で十二種類の銭貨を鋳造しています。これを本朝(ほんちょう)十二銭、あるいは皇朝(こうちょう)十二銭と呼んでいます。この本朝十二銭の最初の銭貨が、和同開珎になります。富本銭は本朝十二銭には含まれていません。富本銭・和同開珎ともに、実はある重要な国家事業に関連して鋳造されていました。まず富本銭ですが、この貨幣は天武天皇の時代に鋳造されたものです。古代史における最大の皇位継承戦争と称される壬申の乱に勝利した天武天皇は、どのような政策を実行していくのでしょうか❓畿内(現在の奈良県・大阪府・京都府)の有力豪族との連合政権であったヤマト政権の長である天皇は、豪族を自らに従属させる機会をうかがっていました。豪族の力は大変に強く、天皇に匹敵する経済力・軍事力を保有していたからです。この豪族を天皇の臣下とする絶好の機会がおとずれます。それが壬申の乱でした。この乱を通じて畿内の多くの有力豪族が没落する中、戦争に勝利した天武天皇の権威が著しく高揚していきます。そして天武天皇は豪族を自らの支配下におくべく、豪族の経済力を奪う方針を打ち出すのです。日本史の教科書にも書かれてある通り、豪族が私的に保有していた民を廃止し、豪族の官僚化を進めていきます。こうして新しい都(=藤原京)の造営が計画されます。豪族を天皇が造営した都の中に閉じ込めて監視し、豪族を官僚化して天皇が給料を与えることで豪族を天皇に従属させたのです。都の造営には莫大な費用がかかります。都は人の手によって作られますから、造営に関わった人々への給料として支払うべく銭貨が鋳造されました。これが富本銭です。つまり富本銭は、藤原京造営にかかる費用をまかなうために鋳造されたのです。和同開珎はどうでしょうか❓和同開珎は708(和銅元)年、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県)から銅が献上されたことで鋳造された貨幣です。中学校でも学ぶ通り、710(和銅3)年に藤原京から平城京への遷都が実施されるわけですから、和同開珎の鋳造も富本銭同様、都の造営と深く関係しています。つまり、和同開珎は平城京の造営に雇われた人々への支給など宮都造営費用の支払いに利用すべく鋳造されたのです。富本銭は通貨として鋳造されたのか否かについてはさまざまな説がありますが、和同開珎は明らかに通貨として鋳造された貨幣で、京・畿内では広く流通していました。しかし京・畿内を中心とした地域の外では、和同開珎は流通せず、稲や布などの物品による交易が広く実施されていました。なぜでしょうか❓授業ではこの点について生徒に質問しますが、生徒からは「貨幣に対する信用のなさ」という解答が返ってきます😊「貨幣の価値」に対する認識が都を中心とした地域以外には浸透していなかった、ということになるわけです。時代によって、何に価値を置くのかの基準が異なります。社会の変化を敏感に感じ取って、次世代には何が必要になるのかを考えていくための重要な道しるべとなるのが歴史です。歴史を深めることで、未来を志向する姿勢を身に着けることができるはずです😊にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村

  • 04Jun
    • 日本史の考え方123「なぜ徳川吉宗は元文小判を鋳造したのか」の画像

      日本史の考え方123「なぜ徳川吉宗は元文小判を鋳造したのか」

      上の表は高等学校の日本史の教科書に載せられている「金貨成分比の推移」についての図表です。1600(慶長5)年に鋳造された慶長小判は、小判に含まれる金の含有量が多く、大変良質な貨幣でした。しかし、1695(元禄8)年に鋳造された元禄小判は、慶長小判と重さこそ同じですが金の含有量が低く、大変に質の悪い貨幣が発行されたことになります。第5代将軍徳川綱吉の時代には、佐渡金山などに代表される幕府直轄の金山・銀山からの産出量が減少したことで、鉱山収入が大幅に減り、幕府財政は収入源となってしまいます。そこで当時勘定吟味役という役職に就いていた荻原重秀は、収入増の方策として貨幣の改鋳を上申し、第5代将軍の徳川綱吉はこれを採用しています。この改鋳で幕府は金の含有率を減らし、質の劣った小判を大量に発行します。慶長小判に比べて使用される金の量が減ったわけですが、使用されなくなった、いわゆる余った金はどうなるのでしょうか❓何と!!幕府が自分のものとしてしまうのです😲慶長小判と元禄小判は、金の含有量の相違から同然同じ価値ではありえないのですが、幕府は同じ1両として流通させます。私は授業で、かなり言い過ぎなのですが、この改鋳は国家的詐欺と説明しています😅この改鋳は、貨幣価値の下落と物価の騰貴(とうき)を引き起こし、庶民の生活を著しく圧迫することになりました。ここで是非、覚えておいて欲しいのが「貨幣改鋳は物価変動という効果をもたらす」ということです。では、元文小判を鋳造させた第8代将軍徳川吉宗の時代を見てみたいと思います。徳川吉宗はその治世において、2回の貨幣改鋳を実施しています。享保小判と元文小判をそれぞれ鋳造させているのです。享保小判は、徳川吉宗の前代に鋳造された正徳小判同様、質の高い小判です。小判は将軍の命によって鋳造されるものですから、貨幣発行は将軍の権威と深く関わっています。金の含有量が多い貨幣を発行することができるということは、将軍の権威の高さを物語っているというわけです。江戸幕府初代将軍の徳川家康への復古をスローガンに掲げて幕政改革に努めた徳川吉宗は、将軍権威の高揚に努めた将軍でした。第6代将軍徳川家宣・第7代将軍徳川家継が短命・幼児であったために、将軍権威が著しく低下したあとを受けて将軍に就任した徳川吉宗は、前代に発行された正徳小判同様の極めて質の高い小判を発行しました。小判の品質を変更することで経済の混乱を招かないよう前代の貨幣と同様の品質を維持するとともに、将軍権威の高揚をはかったのです。しかし!!将軍権威の維持・高揚をはかった徳川吉宗が、正徳小判の品位を半分に減らした元文小判を鋳造・発行したのです😲なぜでしょうか❓この謎を解くには、当時の経済に目をむける必要があります。当時は江戸幕府による積極的な新田開発奨励政策によって、幕府領の石高が増加し、多くの米が収穫されました。しかし、米の増収は米価の下落を引き起こし、米を給料として支給されている武士の財政を圧迫することになりました。武士は生活必需品を購入するために、支給された米を現金化しなければなりませんでした。米の収穫量が増大したことで米価が下落し、そのせいで武士の実質賃金が低下することになりました。幕臣である旗本・御家人らの財政を救わなければならない立場にある将軍は、何としても米価を調整しなければなりませんでした。そこで幕府は考えるのです。「貨幣改鋳は物価変動という効果をもたらす」正徳小判・享保小判という高品質の貨幣発行は、物価の下落つまり経済をデフレーションへと誘導していき、景気を後退させていきます。この状況を克服するため、質の悪い貨幣を鋳造・発行することで物価の上昇つまりインフレーションへと誘導していったのです。この貨幣改鋳によって米価は上昇し、景気は持ち直したので、元文小判はその後80年以上にわたって通用していました。質の悪い貨幣鋳造は将軍権威を揺るがしかねない重大事件であったと考えられますが、背に腹は代えられない幕府は、この改鋳によって武士の財政を守るとともに、景気回復をもはかったのです。貨幣改鋳にも実に深い意味があります。貨幣改鋳から歴史を深めることも十分可能なのです😊にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村

  • 01Jun
    • 日本史の考え方122「なぜ明治国家は太陽暦を採用したのか②」

      前回の続きになります😊『日本書紀』が伝える神武天皇即位の日を新暦に換算して紀元節(2月11日:現在の建国記念の日)、明治天皇の誕生日である11月3日を天長節(現在の文化の日)として祝日に設定した意図についてでした。私は次のような授業を展開しています。私が勤務する高等学校では、日本史の教科書に山川出版社『詳説日本史』を採用していますが、まず授業で生徒に教科書から江戸時代に存在した征夷大将軍を全て探させています。江戸時代の将軍は全部で15人(15代)いますが、この知識に関しては中学校程度のものです😅予め15人全てを知っている生徒もいますし、そうではない生徒もいますが、大切なのは15人の将軍の名前が全て教科書に書かれてある、ということなのです。教科書から15人の将軍探しが終わったあとで、今度は江戸時代における天皇を教科書から探させます。江戸時代には当然ですが京都に天皇がいて、朝廷の最高権威者として君臨していました。征夷大将軍という官職を武家に与えるのは天皇ですから、江戸時代における将軍名が教科書に全て記載されているということは、江戸時代に在位した全ての天皇名が記載されていてもおかしくはないからです。しかし、教科書には天皇家略系図が記載されてはいますが、教科書の本文(欄外を含め)からは江戸時代に在位した天皇の全てを見つけることができません。江戸時代、徳川幕府は天皇・朝廷がみずから権力をふるったり、他大名に利用されることのないよう、天皇や公家の生活・行動を規制する体制を採用しました。天皇は幕府が制定した法律に支配され、京都には天皇を監視するためのさまざまな機関・仕組みが構築されました。天皇はみずからの家臣である藤原摂関家や武家伝奏(天皇の家臣である公家から選出)によって朝廷内部から監視され、さらに幕府が設置した京都所司代によっても監視されるなど、幕府の厳重な監視下にあったのです。幕府は朝廷(天皇)を表面的には敬う姿勢を示しながら、陰では朝廷が目立つことのないよう、彼らの力を抑制する政策を行っていたわけです。しかし!1867(慶応3)年12月9日、王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府の260年以上にわたる歴史に終止符が打たれることになります。江戸幕府を倒した新政府は、将軍はもちろん、朝廷の摂政・関白も廃止して、「天皇のもとに」新たに総裁・議定・参与の三職を設置する決定を行うのです。ここでついに日本の支配者が将軍から、天皇に代わるわけです。天皇を中心とした中央集権国家体制の構築を推進した明治国家は、五箇条の誓文を公布するなど、諸外国に向けて天皇を首長とする新政権の存在を積極的にアピールしています。では国内に向けては、どのような政策を採用することで天皇の存在を浸透させようとしたのでしょうか❓「日本の統治者は将軍」という認識から、「日本の統治者は天皇」という認識への転換をはかるための方法…。その1つの政策が、天皇に深く関係する日を文明開化の象徴である太陽暦における祝日とすることで、天皇の存在を強く国民に認識させるというものでした。祝日があると、今日は何の日だろうかと思いませんか❓祝日は学校や仕事が休みになりますから、国民の多くにとって有り難い日ということになるはずです。この有り難い休日を与えてくれたのが天皇であるということになるのです。こうして国民は、天皇という存在に対する認識を深めていくことになります。江戸時代においては、その存在が目立たなかった天皇。この天皇を擁立した薩摩・長州を中心とする明治新政府は、天皇という存在を国民に深く認識させるべく、天皇に関係する日を祝日としました。明治国家は実に巧妙な手段を使って、国民に「天皇」を根付かせていったのです。こうした歴史を学ぶことは、現代を生きていく上でとても役に立ちます。権力者は何を実現させるべく、どのような政策を推進していくのか。私たち国民は、常に国の政策に関心を持っていなければなりません。為政者の真意を探ることは、国民生活を送る上で重要なことだからです。みなさんは、どう思いますか❓にほんブログ村 にほんブログ村

  • 28May
    • 日本史の考え方122「なぜ明治国家は太陽暦を採用したのか」

      明治政府は旧暦の1872(明治5)年12月3日を、新暦による1873(明治6)年1月1日に改めます。新暦採用によって、1日を24時間とし、のちには日曜日を休日とするなど、長い間の行事や慣習が改められることになりました。また同じ頃祝祭日が設けられ、『日本書紀』が伝える神武天皇即位の日を新暦に換算して紀元節(2月11日:現在の建国記念の日)、明治天皇の誕生日である11月3日を天長節(現在の文化の日)として祝日としました。なぜ明治政府は、旧暦を新暦に改め、さらに天皇と深く関係する日を祝日と定める決定を行ったのでしょうか❓ある国公立大学で出題された入試問題から、歴史を深めていきたいと思います😊旧暦は太陰太陽暦といい、月(太陰)の満ち欠けの12倍で1年を区分しながら、1太陽年に約11日不足することによる季節とのずれを、19年間に7回の閏(うるう)月を挿入することで調整しています。つまり、ある年の月は「1月→2月→3月→4月→閏4月→5月…」となり、この年は13か月あるということになるのです😲この点をよく覚えておいてください。新暦とは太陽暦のことで、1年を365日とし、4年ごとに1閏日を設定しています。日本では江戸時代後期、蘭学の勃興により太陽暦への関心が高まり、蘭学者の間では太陽暦の新年を「オランダ正月」として祝う催しがありました。江戸幕府を倒し、近代国家として新しい政権であることを表明した明治政府の誕生によって、人々はしだいに西洋文明を進歩の頂点にあるもの、日本が追いつき追い越すべき目標として意識するようになっていきます。明治政府は強制的に開化を進めようとするのですが、太陽暦の採用も重要な開化政策の1つでした。日本史の教科書には、太陽暦の採用によって長い間の行事や慣習が改められたと記載されていますが、江戸時代に行われていた長い伝統を持つ行事が、太陽暦の採用で一新されるわけはありません。西洋の風俗や習慣が広まったのは、主として帝都とされた東京や開港場の横浜などであり、農村部にはあまり広まっておらず、農村部では江戸時代同様、旧暦による伝統的な生活習慣が続いていたのです。現代ではそれほど感じないかも知れませんが、当時は都会と地方農村には大きな隔たりがあったわけです😅欧米列強を模範とした明治政府によって、欧米の慣習を取り入れることは自然の流れであったことは言うまでもありません。こうした中、明治政府内で欧米と同じ太陽暦を採用すべしとの意見が現れたのは、何ら不思議なことではなかったと思います。しかし❢❢じつは太陽暦採用には、明治政府が抱えた大きな問題を少しでも解決しようとする切実な事情が見え隠れしていたのです😲さきほどの説明で、旧暦である太陰太陽暦は、19年間に7回の閏月を挿入する必要があると述べました。太陰太陽暦では、1873(明治6)年に閏6月がありました。つまり1873(明治6)年は、13か月あるということになります。しかし太陽暦では閏月がなく、役人(いわゆる公務員)に支払う給与を1か月分支払わなくて済むということになるのです❢太陽暦を採用すれば、財政的に困窮していた明治政府の国家財政を救済することができる❢❢という極めて現実的な立場から、旧肥前藩(現在の佐賀県・長崎県)出身の大隈重信を中心に太陽暦(新暦)への改暦が断行されることとなります。大隈重信はのちに東京専門学校(のちの早稲田大学)を設立したことで知られますが、1873(明治6)年に大蔵卿(現在の財務大臣)に就任し、1881(明治14)年まで大隈財政と呼ばれる財政政策を展開しています。つまり、大隈重信は財政のエキスパートとして当時の国家財政の状況を熟知しており、窮地に追い込まれている国家財政を少しでも好転させる必要から、太陽暦の採用を訴えたということになるわけです。歴史は実に深いですね😓では、天皇と深く関係する日を祝日に設定した意図とは…❓❓この続きは次回にしたいと思います。みなさんも是非、考えてみて下さい😊にほんブログ村 にほんブログ村

  • 25May
    • 日本史の考え方121「なぜ日比谷焼打ち事件は起こったのか」

      みなさんは、日比谷公園を知っていますか❓東京都千代田区にある近代の洋式公園で、江戸時代末期は薩摩藩(現在の鹿児島県)・長州藩(現在の山口県)の上屋敷(かみやしき:大名自身が居住する邸宅)が置かれていたことでも知られています。この日比谷公園は、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約の内容に不満を持った民衆運動の地となっています。この民衆運動は、日比谷焼打ち事件と呼ばれます。今回は、この日比谷焼打ち事件についての歴史を深めてみたいと思います😊ここでかなり古いですが、「海野福寿著 日本の歴史⑱『日清・日露戦争』1992年 集英社」を参考にしながら考えてみることにします。ポーツマス条約が調印された1905(明治38)年9月5日、東京日比谷公園は3万人ともいわれる群衆であふれました。彼らの主張は、賠償金30億円、ロシア勢力の東アジアからの完全撤退などの要求でした。ポーツマス条約では、よく知られているようにロシアから賠償金がまったく取れませんでした。日本史の教科書などには、賠償金を獲得できなかったことに不満を爆発させ、講和条約反対国民大会に集まった民衆が暴徒化した、と書かれてあるのですが、なぜ民衆は賠償金にこだわったのでしょうか❓それには日露戦争中の国民の生活が深く関わっていると考えられます。日露戦争は働きざかりの若者の労働力を奪ったばかりでなく、膨大な戦費が民衆の肩に、背負いきれない重税を課していました。酒税は大幅に増税され、さらには新たに営業税・砂糖消費税・毛織物消費税・通行税・相続税・鉱業税などが設けられ、庶民の生活を著しく圧迫することになりました。『平民新聞』(社会主義の結社である平民社から発行された新聞)は一面に「鳴呼(ああ)増税!」と題した論説を掲げ、戦争のための大増税を厳しく批判しました。本来、国民の平和と幸福と進歩を保障するためにつくられたはずの国家の存在の必要は認められない、との主張を展開しました。戦争に労働力を奪われたばかりか、増税によって生活の崩壊にまで追い込まれた国民感情は、「賠償金なし」の条件をのんだ明治政府を許すことができなかったのです😡地理的に近いロシアという国は江戸後期以来日本近海に姿を見せ、明治時代に入ってからも日本にとって脅威となる存在であり続けました。ところで日本は朝鮮半島の存在を大変に重視していました。なぜなら朝鮮半島が第3国の手に渡ったら、次に侵略の対象となるのが日本であると考えていたためです。この第3国とは地理的に日本と近いロシアが想定されており、ロシアが満州(現在の中国東北部)にまでその勢力を伸ばしたとき、満州と陸続きである朝鮮半島がロシアの手中に入る可能性が危惧されました。そのような中でイギリスと同盟してロシアから実力で朝鮮半島での権益を守ることを決意した日本は、1902(明治35)年日英同盟協約を結び、ロシアと戦火を交えます。この戦争にかろうじて勝利した日本は、ロシアに対して賠償金・領土割譲の要求を行ったのですが、ロシアは日本の要求を拒否します。最終的にはロシアが樺太(からふと:サハリン)南部の割譲を認めて、妥協が成立します。さらに日本はロシアに対して、朝鮮半島に対する日本の指導・保護・監理権の承認、鉄道権益(のちの南満州鉄道)の日本への譲渡などを認めさせます。しかしロシアの脅威を東アジアから完全に排除できたわけではなく、日本国民のロシアに対する恐怖は残り続けたのです。戦争継続によって生活を奪われた日本国民は、賠償金が取れない、ロシアの脅威がいまだ東アジアから排除できないまま、講和条約に調印した明治政府を許すことができなかったわけです。日本は兵器・弾薬・兵士などの補給面で軍事的限界を迎えていたばかりか、経済面でも限界に達していました。日本はこうした中、大国ロシアとギリギリの外交交渉を展開したのですが、この状況を知る由もない日本国民は感情を爆発させたのです。日本政府の思惑と国民感情とのズレが日比谷焼打ち事件を引き起こし、政府はこの暴動に対して軍隊を動員して鎮圧にあたる一方、戒厳令が発令されました。つまり明治政府は、民衆の反政府運動を軍隊の力でねじ伏せたのです。自らも被害者であると考える民衆たちによる政府への涙の訴えを上から押さえつけました。日比谷焼打ち事件とは、単に賠償金が取れないことに反発した事件だったのではなく、自らも苦みもだえた民衆が政府に不満をぶつけた暴動だったのです。教科書にはほんのわずかな説明しかなされていない歴史的事項ですが、深めてみると民衆の息遣いが見えてきます。歴史を深めてみることは、大切なことであると強く思います。にほんブログ村 にほんブログ村

  • 22May
    • 日本史の考え方120「なぜ弥生人は縄文人より背が高いのか」

      日本における男性の平均推定身長は、時代によって大きく異なっています。この男性の平均推定身長の推移に関連した大学入試問題がありました。この入試問題には、縄文時代の男性の平均推定身長は「157㎝」、弥生時代の男性の平均推定身長が「163㎝」と書かれてあり、弥生時代に平均身長が飛躍的に高くなっている理由を考えさせるものでした。縄文時代と弥生時代の異なった特徴を考えさせるには、とても良い問題だと感じました😊今回は、なぜ弥生人男性は縄文人男性より背が高いのかについて考えを深めてみたいと思います。身長が伸びる理由としては、やはり栄養が大変深く関わっていると考えられます。縄文時代の人々の生活は、狩猟・漁労・採取によって支えられていました。狩猟のおもな対象は二ホンシカ🦌とイノシシ🐗であり、動きの素早いこれらの動物を捕獲するために弓矢が発明されました。また、海面が上昇する海進の結果、日本列島は入江の多い島国になり、漁労の発達が促されます。丸木舟⛵が各地で発見されており、伊豆大島や八丈島にまで縄文人は漁に出ていたことが確認されています。さらに植物性食料への重要性が高まる中、クリ・クルミ・トチ・ドングリなどが採取されるとともに、クリ林の管理・増殖、マメ類・エゴマ・ヒョウタンの栽培や、一部で農耕につながる取り組みもなされていたと考えられています。縄文時代の前の時代である旧石器時代では、漁労が行われていた痕跡が見つかっておらず、さらに現在よりも低気温だったため食用に値する植物性食料も乏しかったと考えられますので、縄文時代は前代と比べてはるかに豊かな食生活であったはずです。弥生時代はどうであったでしょうか❓弥生時代は水稲耕作を基礎とする時代です。狩猟・漁労・採取・栽培の他に食料生産が行われたわけですから、縄文時代に比べて一層安定した食生活を送ることができたと考えられます。狩猟・漁労・採取は気象条件に大きく左右されます。動物・魚・木の実がいつも豊富に獲得できるわけでは決してありません。十分な栄養を安定的に摂取することが相当に難しかったのです。縄文時代晩期に日本に伝来した農耕文化は、人々の定住化を進めるとともに、口にすることのできる食物の種類を増やすことに大きく貢献しました。弥生時代の人々は、縄文時代の人々よりも安定的に栄養価の高い食物を摂取することができたのです。では、栄養の面以外ではどうでしょうか❓高等学校で使用する日本史の教科書には、次のような記述がなされています。「弥生人骨の中には、縄文人骨に比べて背が高く、顔は面長で起伏の少ないものがみられる。」日本人を含むモンゴロイド(アジア人種)は、古モンゴロイドと新モンゴロイドにわけることができます。低身長で、顔が幅広く高さが低く、凹凸に富むという古モンゴロイドの特徴は縄文人にみられます。日本に弥生文化(農耕・金属器などを伴う文化)を持ち込んだ弥生人は、朝鮮半島から日本へ渡ってきた渡来人(とらいじん)たちであり、彼らは新モンゴロイドの特徴を持っていました。縄文人が弥生人になったのではありません。縄文人と弥生人は、同じモンゴロイドでも「新・古」の違いがあるのです。新モンゴロイドである弥生人は、古モンゴロイドである縄文人に比べて高身長で面長という特徴を持っています。ですから、そもそも弥生人は縄文人より背が高いのです。縄文人より背の高い弥生人が、縄文時代より安定した食生活を営んだわけですから、一層成長が促進されたということになります。なぜ弥生人は縄文人より背が高いのかという問いは、結局のところ縄文時代と弥生時代の特徴の差異、古モンゴロイド(縄文人)と新モンゴロイド(弥生人)の特徴の差異について、しっかり学習がなされているのかを問うているということになります😊こういう問いは、教科書の太字をただ暗記するだけの学習では絶対に解くことができません。時代の特徴と構造、その時代に生きた人々の営みがその後にどのような影響を与えたのか、など歴史を多角的に見る努力をする必要があります。その際に必要とされるものが、「なぜ」という疑問です。歴史における「なぜ」が大学入試問題で問われているのです。歴史用語の暗記で終始する勉強はやめて、歴史の「なぜ」を考える勉強をして欲しいと強く思っています。

  • 19May
    • 日本史の考え方119「武士という存在②」

      11世紀後半、時の摂政・関白を外戚としない後三条天皇が即位し、天皇の代理者として地方を支配させるために派遣された国司からの訴えに応える形で、延久の荘園整理令という法令を発令します。この荘園整理令によって、貴族や寺社の支配する荘園と、国司の支配する公領{国衙(こくが)領とも呼ばれます}とが明確になり、貴族や寺社は支配する荘園を整備していくことになります。私は11世紀後半に延久の荘園整理令が発令され、日本に公領と荘園という二種類の土地が存在することが明確になったという歴史を学ぶ際に、生徒に次の問いかけをします。そもそも日本の土地って誰のものなのですか❓多くの生徒は「天皇のもの❢」と答えてくれますが、私は以下のように説明していきます😊日本の統治権者である天皇は、天皇が持つ軍事力などを背景に支配領域を拡大していきます。そして天皇の支配下にある領地を口分田として農民に班給し、口分田を班給することで農民の最低限度の生活を保障する代わりに租税を国家に納入させるのです。土地税としての租は負担の軽いものでしたが、成人男性を中心に課税される庸・調は大変に重い税であり、この税負担を逃れるため多くの農民が本籍地を離れて、浮浪・逃亡していくことになりました。庸・調は人頭税、つまり農民個人に課税されていますので、農民が逃げてしまっては税を徴収することができなくなってしまいます😨そこで天皇は国司の権限を強めて、一国の支配を全て任せる代わりに一定額の税を納めさせる体制に変更してしまいます❢天皇の命令によって地方に派遣された国司は、地方にいる有力農民と契約を結ぶことで官物(かんもつ)・臨時雑役(りんじぞうやく)と呼ばれる税を納税させるようになります。国司と契約を結ぶことで土地の耕作を請け負った有力農民は田堵(たと)と呼ばれ、抜群の農業技術で荒廃地であった場所を農作物を生産できる地へと変えていったのです😲この田堵はさらに土地の開発を進め、11世紀になると田堵の子孫らは開発領主と呼ばれるようになります。開発領主の中には国司への納税を拒否して、所領を中央の権力者に寄進(寄付する)し、権力者を領主として仰ぐ荘園として、自らは預所(あずかりどころ)に仕える下司(げし)などの荘官(しょうかん:荘園の現地管理者)となる者が現れるようになります。開発領主は荘園においては、中央の権力者である荘園領主に税を納入することになるわけです。では荘園にならない地では、開発領主はどのような立場で何を行っているのでしょうか❓荘園以外は公領です。原則、天皇権力が及ぶ日本の国土は全て天皇の所有地なのですが、この中に天皇権力の及ばない地である荘園と呼ばれる地が出現することになるのです。公領は天皇の代理者である国司によって支配され、地方の事情に精通した開発領主は国司が政務を行う国衙(現在の県庁のあたる)で働く役人に採用されることになります。開発領主などの現地採用の有力者を在庁官人(ざいちょうかんじん)といいます。開発領主は在庁官人として国司のもとで政治に携わりながら、国司に税を納めているのです。開発領主は荘園では荘官、公領では在庁官人として存在し、荘園・公領の支配者に税を納めていたのです。生徒に「開発領主は農民ですか❓」と質問されることがあるのですが、開発領主は農民ではなく武士でした。鎌倉時代には開発領主が御家人の属性とみなされていたことからもわかる通り、開発領主は武士なのです。武士は配下にある農民たちを農作業に従事させ、獲得される生産物を集めることで荘園であれば荘園領主に、公領であれば国司に納税する役目を負っていました。以上の説明から、平安末期の武士が当時の土地制度でどのような立場に置かれていたのかがわかるのではないでしょうか😊❓武士は荘園・公領のいずれに存在したとしても、地域の治安維持を行うとともに、配下の農民に勧農し、彼らから確実に徴税することで権力者に納税する存在だったのです。武士は荘園領主、あるいは国司に納税することが重要な仕事でしたので、この仕事を滞りなく行うことに神経をとがらせていたというわけです。平安末期の武士は、配下の農民から税を集め、上司である領主に税を納めなければならない、中間管理職のような立場に置かれていました。「徴税と納税」これが当時の武士に課せられた重大な任務だったのです。なかなか大変な立場にいたのですね😅にほんブログ村 にほんブログ村

  • 16May
    • 日本史の考え方119「武士という存在」

      大学入試問題✍とは、受験生を選抜し、その大学🏫へ入学するにふさわしい人材がどうかをはかるために実施されるものです。レベルの高い受験生をふるいにかける必要性から、一見些末(さまつ)とも思えるような問題が見かけられるのも事実です。ですが、研究者である大学教員が作成した問題には、高等学校で学んだ歴史を「本当の意味」で理解しているのかを問う、優れた問題も数多く存在しています😊今回もこうした優れた入試問題を参考にしながら、平安時代末期の武士が当時の土地制度のなかでどのような存在であったのかを考えてみたいと思います。みなさんは、「治承・寿永の内乱」という全国的に展開された内乱を知っていますか❓1180(治承4)年の以仁王(もちひとおう)・源頼政(よりまさ)の挙兵から、1189(文治5)年の奥州合戦(奥州藤原氏の滅亡)に至るまでの、約10年間にわたる戦争のことです。1177(治承元)年、後白河法皇の近臣であった藤原成親や僧の俊寛らは、京都郊外の鹿ヶ谷で平氏打倒をはかって失敗する事件が起こります。さらに1179(治承3)年頃になると、後白河法皇を中心に反平氏の動きが表面化したことから、平清盛は後白河法皇を鳥羽殿(とばどの:白河・鳥羽両上皇の離宮)に幽閉して、平氏政権を樹立します。武士による初めての政権が誕生した瞬間でした。これに対して、後白河法皇の子である以仁王に源頼政が平氏打倒の挙兵を勧めます。そして以仁王は源頼政とともに平氏打倒の兵を挙げ、同時に全国に平氏討伐の令旨(りょうじ)と呼ばれる文書を発します。しかしこの挙兵は事前に漏れて、以仁王は戦死してしまうのですが、以仁王が発した令旨は大いに広まり、その後の内乱を引き起こすきっかけを作りました。源頼政は平等院の合戦で自害したと伝えられ、平等院には源頼政の墓が建てられています。余談ですが、茨城県龍ヶ崎市に源頼政を祀った頼政神社と呼ばれる神社が存在しています。伝説では、源頼政が自害する前に2人の家臣に自分の首を持って東国に行くよう指示しています。そして持っている首が重くなった所に埋めるよう言われていた家臣らは、重さを感じた地に首を埋めます。それが、茨城県龍ヶ崎市という場所だったとされています。茨城県内には龍ヶ崎市の他に、古河市にも源頼政を祀る頼政神社が存在しています。茨城県内には複数の場所に、源頼政を祀った地があるということになります😊話を元に戻すことにします。『平家物語』には、源頼政が以仁王に挙兵を勧めた際、諸国に散在している源氏のことを述べている部分があります。「諸国の源氏は、国には目代に従い、庄には預所に仕え、公事雑役にかり立てられ、夜も昼も安心することができない。こういった状況下において令旨が発令されれば、皆喜んで馳せ参じるであろう。」この上記の文章に焦点をあてた入試問題が出題されています。平安時代の武士が、当時の土地制度の中においてどのような状況下におかれていたのかを論述させる問題です。この問いに答えるためには、まず平安時代末期における土地制度について考える必要があります。もちろんここでは、荘園公領制という概念を知っていなければならないということになります❢❢荘園公領制とは、荘園と公領{国衙(こくが)領ともいいます}という日本中世の2つの土地制度を総合的にとらえた概念です。いきなり難しい解説になってしまいましたが、もっと分かりやすく、そして武士とはそもそもどのような存在として当時の社会を生きていたのか、ということについての歴史を深めてみたいと思います。この続きは次回にいたします。皆さんも中世という時代を生きた武士について、是非考えてみて下さい😊

  • 13May
    • 日本史の考え方118「ジャパン=バッシングから見えるものとは」の画像

      日本史の考え方118「ジャパン=バッシングから見えるものとは」

      みなさんは、「貿易摩擦」という言葉を知っていますか❓「貿易摩擦」とは、自由貿易による国際間貿易競争が過度に激しくなった結果生じる経済・社会問題のことです。第2次世界大戦後は自由貿易が世界的に推進されていくのですが、この自由貿易が徹底するに及んで、競争力の強い国と弱い国との間に摩擦が生じ、競争力の弱い国における産業の停滞や失業者の増加という問題を引き起こすことになります。日本史の教科書などには、第1次石油危機以降の日本経済に関して以下のような記述がなされています。世界経済が停滞する中で、省エネ型の産業、省エネ製品の開発、省エネ型のライフスタイルを追求して5%前後の成長率を維持し、第2次石油危機をも乗り切ることに成功します。そして企業は、省エネルギーや人員削減、パート労働への切り替えなどの減量経営につとめ、工場やオフィスの自動化を進めていきます。産業部門別にみると、鉄鋼・石油化学・造船などの資源多消費型産業は停滞し、省エネ型の自動車・電気機械や、半導体・IC(集積回路)・コンピュータなどのハイテク産業が輸出を中心に生産を伸ばします。日本の貿易黒字は大幅に拡大し、欧米諸国との間に貿易摩擦が起こることになるのです😲教科書の記述にもある通り、日本の自動車🚙は海外に多く輸出され、日本の貿易黒字に大きく貢献することになるのです。しかし、ここで大きな問題が発生することになります😨世界貿易の基本は自由貿易ですから、高品質で低価格の製品を作った企業が勝つのです。そして世界で売れる製品を作ることのできる企業を多く抱えた国が、貿易競争で勝利することになるはずです。日本の場合は、特に自動車が優秀な輸出品として海外で大きく売り上げを伸ばしたのですが、輸出先では大きな反発が生じることになりました😓上記にかかげた写真は、日本製自動車を叩き壊すことで、日本の自動車の対米輸出急増を激しく非難している様子です。いわゆる、「ジャパン=バッシング」といわれるものです。教科書などにも載せられているこの写真には、あるメッセージが書かれています。日本語訳してみます。全米自動車労働組合は言っている。「売りたきゃ、アメリカで作れ!」授業で生徒に、このメッセージはどのようなことを主張していますか❓と問いかけるのですが、生徒にはなかなか難しいようです😅つまり、こう考えなければならないのです。日本にある工場で作られた自動車がアメリカに輸出され、日本の貿易黒字に大いに貢献したのですが、この結果アメリカの自動車産業に従事するアメリカ人労働者の雇用が脅かされることになってしまいました。アメリカ人によって作られた自動車が、日本車が輸入されたために自国のアメリカで売れなくなってしまったからです。当然ですが、売り上げが落ちれば、その産業に従事する労働者へ支払われる給与は下げられ、売り上げがさらに落ち込んでいけば解雇ということにもつながっていきます。自動車産業に関わっているアメリカ人は、是が非でもこうした状況を改善する必要がありました。このため、アメリカ人労働者はアメリカ国内に日本の自動車工場を作れ!と訴えます。こうすることで、自動車を作る際にはアメリカ人労働者が雇用され、部品はアメリカ製の製品が使われることになります。写真にあるように、日本車をアメリカで売るのであれば、アメリカ国内に日本車工場を作り、アメリカ人を雇うことで雇用を守ることが訴えられたというわけです。自由貿易だから、競争力のある企業が勝つ。当たり前のことなのかも知れませんが、貿易競争で劣勢な側にとっては大変なダメージです。授業では、ただ単に歴史を解説するだけではいけないと私は考えています。さまざまな立場に立つことで歴史を考えさせることが大切だと思います。これからの時代を生きていくために必要とされる、「物事を多角的に分析することができる力」を養成することのできる授業ができたら最高なのだと思います。私の授業はそのレベルに全く到達していませんが、目指していきたい理想の授業です😊

  • 10May
    • 日本史の考え方117「なぜ足高の制は導入されたのか②」

      前回の続きになります。足高の制が採用された際の、武士の社会についてでした😊まず、足高の制とは具体的にどのような制度なのかについて見てみたいと思います。ここで、日本史の学習には欠かすことのできない参考書である『詳説 日本史研究』(山川出版社)の記述を引用させていただきたいと思います。1723(享保8)年、幕府は役職に就任する者の家禄がその役職の役高に達しない場合、その不足額を支給する制度を採用します。例えば町奉行という役職は役高3000石と定められているので、禄高1000石の武士が就任すると、この武士には役高と禄高の差額2000石が「在職中に限って」支給されるという仕組みになっています。この制度により、禄高が低くても有能な人材を町奉行に登用する途が開けるとともに、この武士の家禄を3000石に引き上げなくても済みます(家禄を引き上げれば、その役職を離れても代々支給されることになる)ために、幕府の財政支出の増大を抑制できるという利点もありました。以上のような説明がなされているように、足高の制は、有能な人材登用をなるべく費用をかけないで実施するとした、財政再建策の一環という説明を私は授業で生徒にしてきました。しかし!!儒学者である荻生徂徠によって著された『政談』には、つぎのように当時の武士の社会の現状が説明されています。近年は、太平が久しくつづいて、世の中に変化がないので、世の風習が一定して、家柄というものが定まり、幕臣の家でも上級から中級・下級にいたるまで、それぞれ大体の立身の限度も定まっているので、人々の心に励みがなくなって、立身しようとするよりも、失敗して家を潰したりしないように考えた方がよいということで、何事につけてもいい加減にして世渡りするという気持ちになり、人々の心が非常に横着(できるだけ楽をしてすまそうとすること)になっている。江戸時代における支配者層であったこの頃の武士の社会では、上へ出世しようとする気力が恐ろしいほどに衰えていたことがわかりますね😓つまり、例えいくら能力があろうとも、そしていくら努力しようとも、出世できる限度も定まっているため、それほど頑張ったところで先が見えている…。今の武士としての自分の身分は、自分の代だけではなく、子供・孫・ひ孫…へと引き継がれていく、つまり「家」に与えられているものであるから、自分の代で大失敗して家を潰してしまったら、家名に傷をつけてしまうことになる。だからとにかく平穏に生きていこう、とする考え方にとらわれてしまっていたわけです😅こうした弊害をなくすために採用された人材登用策が、足高の制でした。武士の仕事に対するモチベーションをあげようとしたのです。私は足高の制について、次のように生徒に説明しています。例えば私が年収500万円だとします。校長先生から、君は大変に優秀だから副校長の職について欲しいと言われます😊副校長の職に就くには、年収3000万円が必要とされるのだが、君の年収では2500万円足りない。君には5年間副校長の職に就いて学校改革を行ってもらいたいと考えているので、副校長の職にある5年間限定で、不足分の2500万円を追加で支給しましょう。しかし5年間の在職期間が終わったら、また年収は500万円に戻るのでよろしく!という感じで説明しています😅5年間限定とはいえ年収が3000万円にまで跳ね上がり、高いレベルで緊張感を持って仕事ができるようになります。ただこうした緊張は大きなストレスになる可能性もありますが…。かりに5年間の在職期間とした場合、最後の年は憂鬱だったのではないだろうか、とも推測されます😓また元の生活に戻るわけですから。いつの時代でも、上位にある人間は部下のやる気を引き出すために苦労するのですね。給料もほぼ定額で、努力しても出世することができないのであれば、それほど頑張る必要はないと感じる人がいても不思議ではないですよね。安定は怠惰へとつながっていきます。歴史とはさまざまな場面で繰り返されていきます。歴史の反省をどう活かすか。今を生きる私たちに問われているのかも知れません。にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村

  • 07May
    • 日本史の考え方117「なぜ足高の制は導入されたのか」

      時代劇の好きな人であれば、「暴れん坊将軍🐎」の名で知られた将軍の名前を知っているのではないかと思います😊そうです、江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗です。徳川家康  ┃子徳川頼宣(よりのぶ:初代紀伊藩主)  ┃子徳川光貞(みつさだ:二代紀伊藩主)  ┃子徳川吉宗上記の家系図からわかる通り、徳川吉宗は徳川家康のひ孫にあたります。徳川吉宗は、「諸事権現様(徳川家康のこと)御掟の通り」と家康の時代への復古をスローガンに掲げて幕政の改革に尽力することとなります。権現(ごんげん)とは、仏が日本の神に姿を変えて現れたものです。これは本来、仏ながら権(かり)に神の姿で民衆を救済するために現れたという本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に基づいた考え方です。ちなみに、家康は死後神として祀られることになりましたが、家康の神号には「権現」号を使用するか、「明神(みょうじん)」号を使用するかで意見が分かれたことがありました。徳川吉宗よる幕政改革は享保の改革と呼ばれますが、高等学校で使用する日本史の教科書にも記載されているように、改革の中心は「財政の再建」にありました。江戸幕府の財政に関する説明は、以前の「日本史の考え方」でも触れていますが、第5代将軍徳川綱吉の時代に幕府財政は大きな転換期を迎えています。比較的豊かであった鉱山🏔収入は佐渡金山などの金銀の産出量が減少し、財政は大幅な収入減となっていきました。そのような中で将軍に就任した徳川吉宗は、まず厳しい倹約令を出して支出の抑制をはかります。倹約令は江戸時代を通して出されていますが、享保の改革の場合、贈答・婚礼・衣服・夜着・布団などの限度を示し、器物・織物・菓子などの新製品の製作を禁止し、さらには書籍などの出版を許可制にするなどの対策がとられています。贅沢(ぜいたく)は禁止❢❢というわけです😅また収入増となる年貢増徴策として、検見(けみ)法を改め定免(じょうめん)法を採用しています。検見法とは、現地に役人が出向き、作柄(農作物のでき具合)の良し悪しや農民の生活状態を検査し、その年の年貢率を決める方法です。この方法は検査の手間や費用がかかり、また役人の不正や賄賂などが行われやすかったという負の特徴を持っていました。これに対して定免法は、役人の不正などを避けるため、過去数年ないし十数年の米の収穫量で年貢率を定め、一定期間豊凶の別なく、定率で年貢を納めさせる方法でした。以上のようなさまざまな政策を実行に移しながら、財政支出を抑え、収入を増やす努力が行われてきました。しかしやはり支出は増えていくものです。現在でもそうですが、人件費はなかなかやっかいな支出でした。人件費とは、給与をはじめ、雇用によって発生するさまざまな費用のことです。特に給与は重要で、給与は仕事に携わる人のモチベーションにも深く関わってきます。いつの時代でもそうですが、人材の登用は会社・企業など組織の活性化に欠かせない重要な要因となります。享保の改革においても、積極的に有能な人材の登用がなされました。しかし、人材の登用には雇用主(ここでは幕府)に多大なる財政負担が強いられます。この財政負担を抑え、有能な人材発掘のために行われた政策が「足高(たしだか)の制」と呼ばれるシステムでした。文字通り、石高を足す(プラスするということ)のです。給料UPということです💸しかし、この人材登用策である足高の制には、当時の江戸幕府が抱えた実に困った事情というものが反映されていました。この困った事情については、荻生徂徠(おぎゅう そらい)という人が徳川吉宗に提出した、政治に関する意見書である『政談』の中にあらわされています。当時の困った事情とは一体どのようなものだったのでしょうか。この続きは次回にしたいと思います。当時の「武士の社会」は、どのような状況になっていたのでしょうか❓にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村