現役高校教師が教える歴史!新時代の入試を突破できる判断力・記述力・思考力を鍛える日本史
  • 19Jun
    • 日本史の考え方66「軍部大臣現役武官制の影響力とは③」

      前回の続きになります。山本権兵衛内閣によって「軍部大臣武官制」へと改正されたのですが、ある大事件後に組織された内閣の手によって「軍部大臣現役武官制」の元の制度に戻されてしまう。その大事件と内閣とは…❓についてでした😊「大事件」とは、二・二六事件です。二・二六事件とは、1936(昭和11)年2月26日早朝、東京で起こった陸軍の反乱事件のことです。陸軍第1師団管下の歩兵第1・第3連隊を主力とした皇道派の将校20名、下士官88名、兵1357名などが内閣総理大臣岡田啓介、内大臣斎藤実(さいとう まこと)、大蔵大臣高橋是清(たかはし これきよ)、教育総監渡辺錠太郎(わたなべ じょうたろう)、侍従長鈴木貫太郎らを急襲、さらに別動隊は神奈川県湯河原町で前内大臣牧野伸顕(まきの のぶあき)を襲撃しました😲重臣の殺害に激怒し、自ら近衛師団を率いて討伐する、との言葉を発した昭和天皇の強い意志によって、事態は収拾に向かいます。この事件の背後には、陸軍省や参謀本部の中堅幕僚官僚を中心に、革新官僚(岸信介ら)や財閥と結んだ軍部の強力な統制のもとで総力戦体制樹立を目指す統制派と、直接行動による既成支配層の打倒、天皇親政の実現(→昭和維新)を目指す皇道派との、国家構想をめぐる対立が含まれていました。この事件を引き起こした皇道派は反乱軍として鎮圧され、陸軍軍法会議によって反乱の首謀者たちは処刑されます。事件後、統制派が皇道派を排除して陸軍内での主導権を確立し、陸軍の政治的発言力はいっそう強まることになります。「坂野潤治『近代日本政治史』岩波書店 2006年」上記の書籍には、皇道派なき後の軍部の高圧的な姿勢について、次のように書かれています。「まず陸軍は組閣に当たって広田首相に圧力をかけ、政(立憲政友会)・民(立憲民政党)両党から二名ずつの入閣者を一名ずつに減らすことを要求し、それが容れられないと政党関係者のポストを経済関係閣僚に限定することを強要した。…次いで陸軍は、対中国強硬外交と対ソ戦を意識しての軍備の飛躍的充実を内容とする国策の樹立を新内閣に迫り、さらには軍部大臣を現役の将校に限るという改革を要求した。」二・二六事件後に成立したのが、広田弘毅(ひろた こうき)内閣でしたが、広田内閣は閣僚の人事や軍備拡張・財政改革などについて軍の要求を入れて「かろうじて」成立した内閣でした。広田弘毅は、第2次世界大戦後にA級戦犯として訴追され、文官ではただ一人絞首刑宣告を受けて処刑された人物です。首相としての広田弘毅は、政治的統率力を発揮することなく、軍部の独走をとめることができませんでした。この広田弘毅内閣において、軍部大臣現役武官制が復活されます。そして陸軍は現役武官制を悪用して、陸軍の宇垣一茂(うがき かずしげ)の組閣を陸軍大臣を推挙しないことで断念させ、さらに海軍の米内光政(よない みつまさ)内閣の陸軍大臣であった畑俊六(はた しゅんろく)が米内内閣に反発し単独辞職し、内閣を退陣に追い込んでいます😓軍部大臣現役武官制は、政党の影響力が軍部に及ばないようにするために作られたシステムでした。しかしこのシステムはのちに悪用されるようになり、軍部(特に陸軍)の意向に沿わない内閣を倒閣させる道具として使われることになります。こうして軍部の専制支配体制が確立され、日本の政治に軍部の意向が色濃く反映され、日本は戦争への道を歩むことになるのです。私は歴史は繰り返されるものである、と生徒に話しています。しかし、繰り返されるといっても以前と全く同じ形ではなく、姿かたちを変えて繰り返されようとします。繰り返されようとした時に、「気づけるか」が重要になってきます。歴史という教科は単なる暗記科目なのではなく、自分たちの未来を守るために学ぶ学問なのだと私は考えています。

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  • 16Jun
    • 日本史の考え方66「軍部大臣現役武官制の影響力とは②」

      前回の続きになります。軍部大臣現役武官制は、第2次山県有朋内閣によって定められた制度ですが、山県有朋内閣は議会運営の円滑化のため、ある政党と提携関係を結んでいました。その政党が憲政党です。自由党(党首:板垣退助)と進歩党(旧立憲改進党。党首:大隈重信)が合同して憲政党が結成され、日本初の政党内閣が誕生します。しかし旧自由・進歩両党の対立が深刻化し、日本初の政党内閣はわずか4か月で瓦解してしまいます😓そして、憲政党は憲政党(旧自由党系)と憲政本党(旧進歩党系)とに分裂します。大学入試問題や歴史能力検定(日本史1級)にも出題される分野になります😊そして、第2次山県有朋内閣を公然と支持したのが、この憲政党(旧自由党系)でした。なぜ憲政党は第2次山県有朋内閣を支持したのでしょうか❓現在でもそうなのかも知れませんが、政権に協力して予算を獲得することが重要です。獲得した予算を政党の支持基盤である人々や地域に還元することで、次の選挙における票田とすることができるからです。しかし!第2次山県有朋内閣の与党となって党勢の拡張に専念していた憲政党が、政党内閣に対する強烈なまでの予防措置である軍部大臣現役武官制を本気で阻止しようとしなかったことは、その後の政党政治に大きな影響を及ぼすことになってしまうのです😨歴史は実に勉強になります😓目先の利益ばかりを追い求めて、今の状況が今後どのように推移していくのか、ということを分析できないでいると、後々大変な事態が起こることになってしまう…。教訓にしておきたい歴史です。。話を元に戻しますが、陸軍大臣であった上原勇作の単独辞表によって第2次西園寺公望内閣が倒されたのちに成立した内閣が、第3次桂太郎内閣でした。この第3次桂太郎内閣に対して、政党・言論界・都市民衆は激しく反発するのです😠その理由は、桂太郎内閣が「宮中と府中(行政=政治)の別」を無視して組閣されたからでした。当時は宮中と府中(行政=政治)の別を明らかにし、宮中を政治から切り離す体制が採用されていました。政治的影響が宮中に及ばないようにしたのです。宮中の事務に当たる宮内省(現在の宮内庁)は内閣の外に設置され、御璽(ぎょじ:天皇の印)・日本国璽(にほんこくじ:日本国の印)の保管者で、天皇の側近にあって相談相手の任務にあたる内大臣(ないだいじん)が宮中に設置されました。この内大臣と侍従長(天皇の側近官)を兼務していた桂太郎が内閣を組織したことは、宮中と府中の別を乱すものであり、さらに大正天皇が新しい天皇になったばかりで、国民の間に新しい政治への期待が高まっていたこともあり、桂太郎に反発する勢力は日に日に拡大していったのです😤こうして組閣以来2か月足らずで退陣に追い込まれた桂太郎内閣の後継となったのが、海軍出身の山本権兵衛(やまもと ごんべい)内閣でした。山本権兵衛内閣は立憲政友会を与党とし、政党の意向を取り入れた政策を実行します。その民主化政策の1つが、軍部大臣現役武官制の改正でした。現役の大将・中将でなくとも、現役を退いた予備役・後備役の大将・中将でも陸軍大臣・海軍大臣となれるように改正され、内閣に対する軍の影響力行使を制限しようとしたのです。軍部に対する政党の影響力が格段に強まることになったのです。こうして「現役」ではなく、「軍部大臣武官制」になったものの、予備役・後備役の将官からの就任例はなく、実際には現役武官の就任が継続されることになりました。やはり「現役」以外では、軍部に対する影響力という点で難があったのだと考えられます。それでも、民意が反映された政党の力が強まったことに変わりはありませんでした。しかしこの「軍部大臣武官制」への改正が、ある大事件後に組織された内閣の手によって「軍部大臣現役武官制」のもとの制度に戻ってしまうことになってしまいます😲この大事件とは一体何か…❓そしてなぜ大事件後の内閣は、「現役」規定を復活させてしまったのか…❓この続きは次回にしたいと思います。

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  • 13Jun
    • 日本史の考え方66「軍部大臣現役武官制の影響力とは」

      「軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)」みなさんは、上記の制度を知っていますか❓戦前の内閣制度において、陸軍大臣・海軍大臣の任用資格を現役の大将・中将のみに限定するとした制度のことです。大学入試でもよく出題されるテーマになります☻この制度は明治時代に作られ、大正時代に変更がなされ、昭和時代に明治時代のもとの制度に戻された、という歴史を持っています。この制度の歴史的変遷について論述させることがあるのです。1894(明治27)年~1895(明治28)年にかけて、日本と中国(清国)が朝鮮支配をめぐって戦った戦争である日清戦争後、日本政府と政党の関係は大きく変化することになります。日本政府と政党は衆議院において激しく対立していたのですが、日清戦争後、政府と衆議院の第一党である自由党は、戦後経営をめぐって共同歩調をとるようになり、公然と提携を宣言します。これにより、自由党党首であった板垣退助が内務大臣として第2次伊藤博文内閣への入閣を果たします😲また伊藤博文内閣のあとを受けて成立した第2次松方正義内閣は、立憲改進党の後進である進歩党と提携し、進歩党党首であった大隈重信が外務大臣として入閣します。そして、のちにこの2つの政党は合同して憲政党を結成し、伊藤博文をはじめ元老の推薦を受けた大隈重信と板垣退助が組閣を命じられ、大隈重信を首相とし憲政党を与党とする日本で最初の政党内閣が誕生することになります😊しかし、このような政党内閣の出現に危機感を抱いた人物がいました。その人物こそ、徴兵制度を確立し、近代軍制の基礎を築いた山県有朋(やまがた ありとも)でした。日本初の政党内閣が倒れた後に組閣された第2次山県有朋内閣は、「政党の影響が軍部に及ぶのを防ぐため」に、陸軍・海軍両大臣は現役の大将か中将でなければならないとする制度を設けたのです😲この制度は政党内閣に対する予防措置であり、政党内閣に対する軍部の独立性が強まることになります。軍に対する文民統制が不可能になったばかりか、軍部は軍の代表を必ず内閣に送り込むことで、大きな発言権を確保することになりました。つまり、政党員の陸海軍大臣就任が不可能となり、軍部が大臣を出さない限り内閣が不成立になるため、軍部の発言力の強大化・政治介入の契機になってしまったのです。上記からわかるように、「現役武官制」は使い方次第によっては、軍部に内閣の死命を制し得る力を与えてしまうのです。要するに、軍部が気に入らない内閣が組閣された場合、軍部は大臣を辞めさせて後任の人事を行わず、内閣不成立によって総辞職させてしまうのです。この軍部大臣現役武官制の悪用によって、倒閣の憂き目にあった内閣が存在します😢1911(明治44)年に成立した、第2次西園寺公望(さいおんじ きんもち)内閣です。日露戦争に勝利し、東アジアの強国となった日本は、さらなる軍備拡張計画を立案します。しかし、日露戦争の戦費を内外の国債(約13億円)と増税(約3.2億円)によって賄ったばかりか、賠償金を得ることができなかった日本の財政事情は、大変に苦しいものがありました。陸軍は将来のロシアの復讐戦に備えて軍拡案が考案され、19~20師団整備を目標とした大軍拡を目論んでいました。そのような中で、まずは2師団の増設が第2次西園寺公望内閣に強く要求されることになります。第2次西園寺公望内閣は、財政難を理由に師団増設を拒否しますが、これに抗議した陸軍大臣の上原勇作(うえはら ゆうさく)は、単独で天皇に辞表を提出します。その後、陸軍が後任の大臣を出さなかったため、西園寺公望内閣は総辞職に追い込まれてしまったのです😲こうして「軍部大臣現役武官制」は、政党内閣からの独立性を保つどころか、政党内閣にとって非常に危険な制度として、大きな影響力を持つことになるのです😖この制度はこれからどのような変遷を遂げるのでしょうか❓この続きは次回にしたいと思います。

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  • 10Jun
    • 日本史の考え方65「なぜ建武の新政で謀綸旨が横行したのか」

      「此比(このごろ)都ニハヤル物。夜討 強盗 謀綸旨(にせりんじ)。召人(めしうど) 早馬(はやうま) 虚騒動(そらそうどう)。生頸(なまくび) 還俗(げんぞく) 自由出家。俄(にわか)大名 迷者(まよいもの)。…」上記の史料は、1334(建武元)年、後醍醐天皇の御所がある二条富小路に近い鴨川の河原に掲げられた「落書(らくしょ)」と言われています。「落書」とは、時の権力者に対する批判、社会の風潮に対する風刺を含んだ匿名(とくめい)の文書のことです。この「落書」は、掲げられていた場所にちなんで、「二条河原落書」と呼ばれています。以前ある大学の入試問題で、史料「二条河原落書」中にある「謀綸旨」が、なぜ都で流行したのかを問う出題がありました😊今回は、この出題を扱ってみたいと思います。そもそも「綸旨(りんじ)」とは一体何でしょうか❓❓「綸旨」とは、天皇の意志を伝えるための文書の一形式です。「綸旨」の効力は他の文書より優先され、天皇の政治権力が強大である時代ほど、その効力が重んじられていました。この「綸旨」の絶対性を主張したのが、「二条河原落書」で批判の対象となった後醍醐天皇でした。後醍醐天皇は、天皇政治の理想的時代といわれた醍醐・村上天皇の治世を模範とし、平安時代の醍醐天皇を理想としていた後醍醐天皇は、醍醐天皇にあやかって、自ら後醍醐という諡号(しごう:天皇の死後に贈られる名のこと)を定めた天皇でした😅後醍醐天皇は鎌倉幕府滅亡後、幕府に代わる新しいリーダーとして期待され、幕府・院政・摂政・関白の全てを否定し、天皇への権限の集中をはかったのです。そして並々ならぬ決意を持って新しい政治(=「建武の新政」という)を開始し、全ての土地所有権の確認は、「綸旨」を唯一の根拠にする、という方針を打ち出したのです❢❢「土地所有」に関しては、貴族・武士ともに非常に関心の高い案件でした。なぜなら、「土地」は極めて重要な財産であったからです。このような後醍醐天皇の新しい政策は、それまで武士の社会に作られていた慣習を著しく無視したものでした😨鎌倉幕府第3代執権北条泰時によって制定された御成敗式目の第8条には、次のような文が書かれています。「現在の持ち主が、その土地の事実的支配を20年間以上継続している場合、その土地の所有権は変更することができない」上記の内容は、武士の社会では不変の法とされていたのですが、この不変の法があっさり変更されたことで、多くの人々が都へ上京し、綸旨の発給を求めることになったのです。新しい政治が始まったことによる社会の混乱状態を利用して、領地を不当に入手した人々がいたと言われています😨謀綸旨が横行している理由の全てがここにあるです!つまり!!社会的混乱に紛れて数多くの偽りの綸旨が作成され、本来自分のものではない土地の所有権を主張して、新しい領地を獲得する人々が大勢いました😨後醍醐天皇が開始した「建武の新政」と呼ばれた新政治を支えたのは、貴族のほかに、北条氏の家督であった得宗とその家臣である御内人(みうちびと)の勢力を滅亡させた武士たちでした。多くの武士に支えられていたはずの後醍醐天皇は、天皇権力の高揚に意を注ぐあまり、武家社会の慣習を無視する政策を実施してしまいました😞この結果、土地を失うことになった武士層の信頼を一挙に失い、新政への不満は、地方武士の反乱という形で噴出していくのでした。1335(建武2)年、北条氏最後の得宗(とくそう:北条氏の家督者)北条高時の子であった北条時行が、建武政権に対抗して東国の鎌倉を占拠する反乱を起こします。この反乱は、「中先代(なかせんだい)の乱」と呼ばれています。乱の名称は北条氏を先代、足利氏を後代、北条時行を中先代と称したことによります。建武政権を支えた足利尊氏が、反乱鎮圧のため京都から下り鎌倉を奪還、北条時行は鎌倉を脱出します。その後、足利尊氏は御醍醐天皇の帰京命令を無視して鎌倉に邸宅を作り、建武政権に反旗を翻(ひるがえ)したのです😡建武政権はわずか2年余りで崩壊し、その後50年余りに及ぶ南北朝の動乱が始まることになります。現代にも通じるものがあると思います。権力を独占したり、それまで存在した慣習を無視したりすることは、大きなリスクを伴うものだということです。組織の構成員による合議を大切にし、その組織にあるルールを尊重することが重要なのではないか、と考えさせられます。歴史は、現代を生きる私たちに多くのことを教えてくれる学問なのだと思います。

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  • 07Jun
    • 日本史の考え方64「氏姓制度とは何か」

      今回は「氏姓制度(しせいせいど)」を扱ってみたいと思います☻「うじかばねせいど」とも称されるこのシステムは、ヤマト政権が作り上げた政治制度です。では、そもそもヤマト政権とは一体どのような政治権力なのでしょうか❓ヤマト政権とは、古代統一国家が成立する以前の大和(やまと:現在の奈良県)を中心とした政治権力のことです。大王(おおきみ:のちの天皇)を中心として、大和・河内(かわち:現在の大阪府)やその周辺を基盤とする豪族の連合体が、ヤマト政権の中枢を担っていました。そして豪族は、「氏(うじ)」という政治・社会組織に編成されます。氏は多くの家によって構成され、氏の代表者である氏上(うじのかみ)を中心として、血縁やその他の政治的関係をもとに氏族としての結束を固めていました。氏上は氏の代表として、ヤマト政権の構成員となって政治に参加する議政官でした。ヤマト政権は、それぞれの氏の政治的地位や性格に応じて、「姓(かばね)」を授けることで氏を統制していました。氏の名は、葛城(かずらき:奈良県にある地名)・平群(へぐり:奈良県にある地名)・巨勢(こせ:奈良県にある地名)・蘇我(そが:奈良県にある地名)など本拠地の地名を冠したものと、大伴(おおとも:軍事担当)・物部(もののべ:軍事担当)・中臣(なかとみ:祭祀担当)など職掌(しょくしょう:ヤマト政権内における職務)に基づくものとがあります。姓には、臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・直(あたえ)・造(みやつこ)・首(おびと)・史(ふひと)などがあります。「臣」は、葛城・蘇我・吉備(きび)・出雲(いずも)などヤマト政権を構成する中央の有力豪族や地方の有力豪族に、「連」は、大伴・物部・中臣など特定の職掌をもってヤマト政権に仕える有力豪族に対して与えられました。「君」は、筑紫(つくし:九州地方)・毛野(けの:現在の群馬県・栃木県)など地方の大豪族に、「直」は、ヤマト政権における地方官である国造(くにのみやつこ)に任命された豪族や、東漢(やまとのあや)などと呼ばれた朝鮮半島からの渡来人に対して与えられました。地方豪族が国造に任じられるということは、地方豪族がヤマト政権の大王の支配下に入ることを意味します😓しかしこのことにより、ヤマト政権(大王)から地方官としての肩書を与えられることになり、地方支配を強力に推進できる正当性を得ることになるのです😊これらの姓のうち、「臣」・「連」の2つの姓を大王から賜った豪族が、ヤマト政権の中枢を形成します。臣の姓を持った蘇我氏が大臣(おおおみ)に、連の姓を持った物部氏・大伴氏が大連(おおむらじ)にそれぞれ任命されています。大臣(おおおみ)の名称は、現在でも各省の長官を意味する「〇〇大臣(だいじん)」として使用されています😊ヤマト政権は大王を頂点として、大臣・大連が中心となって国政を担当していました。そして各氏の代表である氏上が、議政官として政治方針を話し合うこと(合議制)で政治運営がなされていました。大和を中心とする政治連合であるヤマト政権が存在した時代は、古墳時代です。6世紀末~7世紀初めになると、各地の有力な首長たちが営んでいた前方後円墳の造営が終了します。つまり、ヤマト政権が日本全国における唯一の統治権者として、古墳造営を強力に規制したことを示しています。地方豪族を完全にその支配下におさめ、大和地方を中心とした中央豪族による国内統治が行われていくことになります。中央豪族の各氏から代表者が1人ずつ出て、政治運営に参加するシステムが出来上がっていくのです。しかし、このようなヤマト政権時代の政治システムを壊していく氏族がのちに出現します😲それが藤原氏でした。藤原氏は中臣鎌足を始祖とする氏族ですが、藤原氏はヤマト政権以来の伝統を破って、1度に複数の人間を議政官として政治に参加させた、新しいタイプの政治家集団でした。先例は常に変えられるために存在するのかも知れません。歴史はこれからも様々な人々によって作られ、そして塗り替えられていくものなのだと思います。やはり歴史は、極めて奥が深い学問だと思います😊

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  • 04Jun
    • 日本史の考え方63「古墳の被葬者が持つ性格とは」

      突然ですが、上記の写真だけで、この古墳名を言い当てることができたらスゴイ😲です❢❢この古墳は箸墓(はしはか)古墳といい、古墳時代前期の早い段階である出現期の古墳の中で最大の規模を持つ古墳です。箸墓古墳は、奈良県桜井市に所在する纏向(まきむく)遺跡に含まれる古墳の中で盟主的な存在感を示しています。そしてこの纏向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建築物が発見され、何と!!邪馬台国(やまたいこく)との関係で注目されている遺跡なのです😲「纏向遺跡が邪馬台国」であるならば、「箸墓古墳は卑弥呼(ひみこ)の墓」である可能性が高い、ということになるのです。古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、この時代は前期(3世紀中頃~4世紀後半)、中期(4世紀後半~5世紀末)、後期(6世紀~7世紀)の3期に区分されています。この古墳時代を扱った大学入試問題がありました。それは次のような内容でした☻「古墳時代前期と中期とでは、古墳に副葬された遺物に大きな違いが見られる。この違いを明確にしながら、前期と中期における被葬者の性格の違いについて論述しなさい。」また突然ですが、上記の写真の鏡を知っていますか❓❓この鏡は「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」と呼ばれる鏡です。邪馬台国の女王である卑弥呼が、魏に朝貢(ちょうこう:外国の使者などが来朝して、朝廷に貢物を差し出すこと)した際に、魏の皇帝が下賜品として「銅鏡100枚」を卑弥呼に与えるのですが、この鏡を三角縁神獣鏡とする学説があります。邪馬台国は、29国程度から成る小国の連合の盟主国であり、卑弥呼はこの三角縁神獣鏡を小国の王に配ったのだとされています。そしてのちに誕生するヤマト政権も卑弥呼同様に、支配下にある各地の首長へ「服属の証」としてこの鏡を配布したのだと考えられています。こういう権威・権力の象徴となる物品を「威信財(いしんざい)」と呼びます。この「威信財」として扱われた三角縁神獣鏡をはじめとする多量の銅鏡や腕輪形石製品、鉄製武器や農工具などが、前期古墳の副葬品としてよく出土しています。このような副葬品をどのように分析することができるのでしょうか❓日本史の教科書などには、「呪術的・宗教的色彩が強い副葬品」であると説明されています。そして、神を祀(まつ)る儀式を司る「司祭者的性格」を持った首長が埋葬されている、と考えるわけです。これが中期になると、刀剣・甲冑などの鉄製武器・武具・馬具の占める割合が高くなってきます。明らかに前期とは異なった性格を持った首長が埋葬されている❢と考えることができるのです☻刀剣・甲冑・武器などの副葬品は、被葬者の「軍事的性格」を思わせます。ですから日本史の教科書などには、古墳中期の被葬者は「武人的性格」を持った首長であると記述されているわけです。日本の古墳の中で最大規模を持つ古墳が、大仙陵(だいせんりょう)古墳(大阪府)です。そして第2位の規模を持つ古墳が、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(大阪府)になります。これらの古墳はヤマト政権の大王(おおきみ)の墓とされていて、この大王がのちの天皇になります。この天皇が皇位に就いた証として、継承される宝物が「三種の神器」です。「三種の神器」とは、八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣【くさなぎのつるぎ:天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも称される】・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三つの宝器のことです。この「三種の神器」の中に、「鏡」と「剣」があることに注目してみたいと思います。古墳時代の首長の副葬品にも、同様の品があったと思います。つまり古墳時代における首長の副葬品が、のちの天皇の地位を正当化する「三種の神器」に採り入れられたと考えることができます。つまり❢❢私は授業で天皇が持つ性格について触れます。天皇は「鏡」に象徴される司祭者的性格と、「剣」に象徴される軍事的・武人的性格の両面を持ち合わせた支配者であるわけです。日本の神々を祀る司祭者であると同時に、軍事的支配者でもある。第二次世界大戦後、日本では象徴天皇制が採用されましたが、皇位継承の際には「三種の神器」の授受の儀式が執り行われます。そして現在においても、古代からの皇位継承法が引き継がれ、天皇が持つ2つの顔を象徴する神器が、天皇が天皇であることを今も高らかに宣言しているのです。

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  • 01Jun
    • 日本史の考え方62「前期倭寇と後期倭寇の違いとは何か②」

      前回の続きになります。「後期倭寇」は、どのような情勢の中で生まれてくるのか❓ということでした☻②「後期倭寇」の特徴16世紀に活躍した後期倭寇は、「真倭(しんわ)」と呼ばれた日本人の割合は1~2割に過ぎず、大部分の構成員は中国人で、また大航海時代において東アジア海域に進出し始めたポルトガル人も倭寇の一員として扱われました。 上記の写真は、日本史の教科書にも載っている「倭寇の図」です。この「倭寇の図」に関する教科書の説明文を読んでみます。「この図は明朝末期の作品で、後期倭寇の様子を描いたものである。後期の大部分は中国人であるが、この図では右が倭寇で左が明軍であり、倭寇はすべて日本人らしく描かれている。」この単元を授業で扱うと、生徒は「この倭寇の図は、描いた側の何らかの意図を感じる…」と話したりしています😅中国明朝では、人民が自由に海外で行動することを禁止した海禁政策が採用されていたのですが、中国経済の発展は、この政策の維持を著しく困難にし、大量の密貿易者を発生させることになってしまいました😨明の海禁政策を無視した中国人の密貿易者、正規の通行者であることを証明した「勘合」をもたない日本人、新たな勢力として台頭してきた南蛮人(ポルトガル人)など、中国側からすれば極めて悪質かつ非合法な海賊集団が、東アジア世界にあふれていました。こうした海賊集団が活発化した理由…それは、日明貿易が断絶してしまったからでした。室町幕府第6代将軍足利義教(よしのり)が、有力守護であった赤松満祐(みつすけ)によって殺害される事件(嘉吉の変)や、第8代将軍足利義政の時代には応仁・文明の乱が発生するなど、将軍権力の著しい低下に伴い、貿易の実権は、有力守護の細川氏と大内氏の手に移っていきました。貿易の主導権をめぐり、細川氏と大内氏は激しく争い、1523(大永3)年に遣明船の寄港地であった寧波(ニンポー)で、両氏が軍事衝突する事件が発生します😨この事件は、寧波の乱と呼ばれています。この事件後、貿易を独占した大内氏でしたが、下剋上の中で大内氏が滅亡してしまい、大内氏の滅亡とともに日明貿易も断絶してしまったのです😓倭寇対策として有効に機能していた日明貿易が断絶してしまったことで、再び倭寇の活動が活発化していきます。こうした後期倭寇と呼ばれた海賊集団の活動を衰退させたのが、豊臣秀吉でした。豊臣秀吉は1588(天正16)年に、海賊取締令を発令します。海賊取締令は、「国土の支配者である天下人は、海上の支配者でもある」という原則のもとで打ち出され、倭寇を衰退させたと同時に、海上交通の取締りの権限が国家(天下人)にあることを明確にした法令でした。こうして「前期倭寇」は日明貿易を開始した足利義満の圧力によって衰退し、「後期倭寇」は豊臣秀吉の海賊取締令によって衰退していくことになったのです。倭寇は、海上を舞台として活躍した貿易民でした。対馬・壱岐をはじめとした小さな諸島は、耕地面積も少なく、それらの地に住む人々にとっては、「貿易の利益」がほぼ唯一の収入源になっていました。海賊行為は確かに「悪」なのでしょうが、生きるという目的のためには「悪」の行為もやむを得なかった、と考えられます。対馬の領主であった宗氏が、朝鮮との貿易を極めて重視した理由もすべてここにあります。授業では、ただ教科書を暗記するのではなく、人々がおかれた地理的状況や立場をはじめとした様々な状況に目を向けて、歴史を深めていく必要があります。このような姿勢こそが、これからの新入試に対応できる真の学力を養うことになるのです。高校生のみならず、小学生・中学生のアタマを鍛えるために、歴史の学習はとても有効だと思います😊

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  • 29May
    • 日本史の考え方62「前期倭寇と後期倭寇の違いとは何か」

      今回は「倭寇(わこう)」について、考えを深めてみたいと思います☻授業において、「倭寇とは何ですか❓」と生徒に問うのですが、間違いなく「海賊です❢❢」という答えが生徒から返ってきます😅確かに海賊の一面はあるのでしょうが、私は「倭寇とは、武力を伴った密貿易者である」と生徒に伝えています。歴史辞典などには、倭寇について次のような説明がなされています。「朝鮮半島、中国大陸および南方諸地域の沿岸や内陸で行動した海賊的集団に対して、朝鮮人や中国人がつけた呼び名のこと。」倭寇の「倭」は「日本」を指し、「寇」は「外敵」を意味しています。「日本人の略奪」を意味する「倭寇」という用語は、古くは5世紀ころから使用され始め、また豊臣秀吉の朝鮮出兵軍や日中戦争の日本軍も、全て倭寇と呼ばれています😲ですが、歴史上の概念として倭寇が用いられるのは、主として14世紀~15世紀に朝鮮半島から中国大陸北部に展開した倭寇と、16世紀に中国大陸・南海方面に展開した倭寇に対してです。前者(14世紀~15世紀の倭寇)を「前期倭寇」と呼び、後者(16世紀の倭寇)を「後期倭寇」と呼んで区別しています。以前、ある国公立大学でこの「前期倭寇」と「後期倭寇」に違いについて論述させる問題が出題されたことがあります。①「前期倭寇」の特徴14世紀~15世紀に活躍した前期倭寇は、対馬・壱岐・肥前松浦(まつら)地方の住民(つまり日本人)が中心であったとされていますが、これら日本人と朝鮮人が主体となって海賊集団が形成されていたと考えられています。倭寇は朝鮮半島沿岸の人々を捕虜にしたり、米や大豆などの食料を奪った、と日本史の教科書に書かれてある通り、略奪の対象は年貢を収める官庫と年貢を運搬する船や人民でした。捕らえられた人民は送還することによって反対給付を受けたり、倭寇軍に編入されたり、琉球まで転売されることもあったとされています😲これら倭寇の活動に苦しんでいたのが、東アジア世界でした。1368年、元の支配を排除して明を建国した朱元璋(洪武帝)は、征西(せいせい)将軍懐良(かねよし)親王を日本国王とみなし、通交と倭寇の禁圧を要請します。「征西将軍」とは、西国での反乱を鎮圧するために天皇が節刀(せっとう:天皇の最高軍事指揮権を象徴する刀)を与え派遣した将軍を意味しますが、一般的には南北朝時代に九州に存在した南朝勢力を結集するために、後醍醐天皇によって派遣された懐良親王をさします。懐良親王とは、後醍醐天皇の皇子です。この懐良親王を今川了俊(貞世)という武将を派遣して鎮圧し、日本国王として明の朱元璋の通交と倭寇禁圧の要請に応じたのが、室町幕府第3代将軍足利義満でした。明は倭寇対策として、明の皇帝が認めた「国王」以外には貿易を一切認めないとする方針(これを海禁政策という)を採用したため、明との貿易には、明の皇帝から「国王」の称号を得る必要がありました。「国王」に認められると明から勘合が交付され、貿易船はこの勘合を持参することが義務づけられることになります。遣明船が持参した勘合は、中国の都市である寧波(ニンポー)と北京(ペキン)でそれぞれ照合が行われ、「倭寇ではないこと」が確認されたのです。朝鮮半島では、1392年、倭寇を撃退して名声を挙げた李成桂が高麗(こうらい)を倒して朝鮮を建国しました。李成桂によって倒された高麗がその国力を衰えさせた原因の1つは、「倭寇の活動」によるものでした😓朝鮮も明と同様に、日本に通交と倭寇の禁止を求め、これに応じたのが足利義満でした。日朝貿易は日明貿易と異なり、「国王」以外にも当初から武士や商人など多くの人々が参加しており、朝鮮側は対馬の宗氏を通じて貿易を統制させました。中国では明が建国されるなど、東アジア世界で大きな動きがあった時代、日本国内では北朝・南朝にわかれて内乱が続いており(南北朝時代)、倭寇の活発な活動を抑制できるほどの権力が日本にはありませんでした。しかし足利義満が南北朝を統一して、日本の内乱に終止符を打ち、日明貿易を開始するに際し、倭寇の禁圧に尽力したことで、倭寇の活動は沈静化していったのです。足利義満、恐るべしです…😅では「後期倭寇」は、どのような情勢の中で生まれてくるのでしょうか❓この続きは、次回にしたいと思います。皆さんも考えてみて下さい😊

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  • 26May
    • 日本史の考え方61「なぜ戦前の内閣総理大臣に衆議院議員経験者が5人しかいないのか②」

      前回の続きになります☻「明治憲法下における内閣総理大臣」は、どのような形で選出されたのか、ということでした😊1889(明治22)年2月11日に発布され、1946(昭和21)年11月3日の「日本国憲法」の公布まで存続した「大日本帝国憲法」は、全7章76条から成っています。しかし❢❢大日本帝国憲法の全ての条文を読んでみても、「内閣」・「総理大臣」・「首相」などの文言は「一切」見当たりません😓強いて挙げるとすれば、「第四章 国務大臣及枢密顧問」中にある「第五十五条」に次のような文言があります。<第五十五条>国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責ニ任ズ 凡(すべ)て法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス国務各大臣は、天皇の行為について進言し、その進言を採用していただくことを要請し、その全責任を負う、ということが文言として書かれているのみなのです😲内閣総理大臣は親任官でした。親任官とは、天皇による親任式によって任命される最高の官吏(かんり:役人のこと)です。親任官であるにも関わらず、大日本帝国憲法には一切明文化されず、選出に関する規定なども一切明記されてはいないのです😨大日本帝国憲法第四条に、国家の元首にして統治権を総攬(そうらん:残すところなく全てを見る)する天皇を補佐する国務各大臣の一員にすぎなかった内閣総理大臣は、国政選挙で選出される必要がなかったのです。内閣総理大臣は国務各大臣を束ねる内閣の首班として存在してはいたのですが、他の国務大臣と同格の立場であり、現在の首相と比較すると権限も弱く、存在感を遺憾なく発揮していたとは言い難い印象があります😓しかし当然ですが、国内政治・外交交渉などを担当するのが内閣である以上、やはり内閣総理大臣は要職です。では、内閣総理大臣はどのような形で選出されたのでしょうか❓❓内閣総理大臣の選定にあたり、重要な役割を果たした政治家が存在します☻それが、元老(げんろう)でした。元老とは、明治から昭和前期にかけて後継首相選任や最重要国策の決定について、天皇を補佐した特定の政治家のことです。日本史の教科書等には、「非公式に天皇を補佐する元老」という記述があります。元老は全部で「9人」存在しました。①伊藤博文(長州藩出身)②黒田清隆(薩摩藩出身)➂山県有朋(長州藩出身)④松方正義(薩摩藩出身)⑤井上馨(長州藩出身)⑥西郷従道(薩摩藩出身:西郷隆盛の実弟)⑦大山巌(薩摩藩出身)⑧桂太郎(長州藩出身)⑨西園寺公望(公家出身)上記を見てわかるように、元老はほぼ長州藩or薩摩藩出身者に限られています。薩長藩閥(はんばつ)と呼ばれたように、明治維新期に中心として活躍した長州・薩摩両藩出身のメンバーが、政治の第一線を退いたのちも政界の最上層に位置して国政に影響力を行使し続けたのです。それが、元老でした。しかし、⑨西園寺公望が1940(昭和15)年11月に死去し、これをもって元老制度は終焉を迎えます。大日本帝国憲法下においては、元老が後継首相を選定し、元老によって推挙された人物が天皇によって内閣総理大臣に任命(大命降下といいます)されるシステムでした。現在の日本国憲法第六十七条を見ると、「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だって、これを行ふ。」とあり、内閣総理大臣の選定にあたって間接的ではありますが、民意が反映していると考えることができます。しかし、大日本帝国憲法下においては、内閣総理大臣の選定にあたり民意は全く反映されず、元老という非公式の存在の推挙によって決定されます。このような首相選定の慣行は、極めて透明性を欠いており、国政選挙による民意を考慮に入れる必要性もない。大日本帝国憲法下においては、「内閣総理大臣」に就任するために「国政選挙で選ばれた衆議院議員」である必要がなかったのです。戦前と前後とでは、様々な面でシステムが異なります。授業では、歴史的事象の意味や意義について生徒に考えさせることが大切だと思います。歴史の「なぜ」を問う授業をすることこそが、歴史教師に課せられた使命である、と私は考えています😊

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  • 23May
    • 日本史の考え方61「なぜ戦前の内閣総理大臣に衆議院議員経験者が5人しかいないのか」

      以前、ある大学の入試問題で、興味深い内容を問う問題に出会ったことがあります😊それは、次のような内容でした。「大日本帝国憲法下の内閣総理大臣の中で、国政選挙によって国民から選出されて衆議院議員になった経歴を持つ者はわずかしか存在しない。なぜなのか、その理由を述べなさい。」 大日本帝国憲法(明治憲法)下における内閣総理大臣の中で、衆議院議員経験者はわずか5人しかいません😲明治憲法下における議会(帝国議会といいます)は、貴族院と衆議院の二院から成り立っていました。貴族院は、皇族・華族・勅任議員(国家功労者・多額納税者など)から成っていて、国政選挙によって議員が選出されたわけではありませんでしたので、貴族院議員の選出については民意が反映されてはいなかったと言えます。一方、衆議院は、年齢・性別・納税額による制限選挙が採用されており、全ての民意が反映されていたわけでは決してありませんでしたが、それでも唯一の国民の代表機関として、それなりの民意が反映された形での議論が議会で展開されていました。明治憲法下において、内閣総理大臣に就任した者の中で、衆議院議員経験者がほとんどいないということは、内閣総理大臣に就任するにあたり、国政選挙で当選するということが必要条件ではなかった、ということを意味しています。では明治憲法下における内閣総理大臣の選出は、どのような形式で行われていたのでしょうか❓このことを考察する前に、衆議院議員を経験した内閣総理大臣5人について簡潔に見てみたいと思います🌝①原敬(はら たかし)原敬は爵位を持たず、岩手県の出身でいわゆる藩閥政治家(薩摩・長州・土佐・肥前の出身の政治家)ではなく、日本で初めて衆議院に議席をおく総理大臣だったので、「平民宰相」と呼ばれたことは有名です。立憲政友会結成に参加し、伊藤博文・西園寺公望(さいおんじ きんもち)を助けるなど優れた指導力を発揮します。しかし、普通選挙の実施を拒否し、社会運動にも冷淡な姿勢で臨むなど、世論の非難を浴びる中、東京駅頭で大塚駅員の中岡艮一(なかおか こんいち)に暗殺されてしまいました。②高橋是清(たかはし これきよ)高橋是清は、江戸幕府御用絵師川村家に生まれ、のちに仙台藩士高橋家の養子となっています。高橋是清は政治家としての顔よりも、財政金融家として顔のほうが有名で、のちに日本銀行総裁に就任しています。原敬内閣では大蔵大臣(現在の財務大臣)に就任し、原敬暗殺後は、首相兼大蔵大臣・立憲政友会総裁として日本の政治を牽引(けんいん)します。世界恐慌に伴い落ち込んだ日本の景気回復に多大な功績をあげますが、インフレーション防止のための軍事費抑制が軍部の反感をかい、二・二六事件で陸軍の青年将校に暗殺されてしまったのです。③加藤高明(かとう たかあき)「加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社 2009年」私の授業構成上、よく参考にさせていただいている加藤教授の著作の中に、加藤高明に関する次のような記述がありますので、参考にさせていただきたいと思います。加藤高明は愛知県の出身で、東京帝国大学法学部を卒業後は三菱本社に入社しています。三菱の創業者である岩崎弥太郎に認められ、岩崎弥太郎の長女春治(はるじ)と結婚しました。第1次世界大戦が勃発した時、日本の内閣は第2次大隈重信内閣でしたが、加藤高明は大隈内閣で外務大臣の要職にありました。のち加藤高明は憲政会という政党を率いていくのですが、選挙資金は基本的に三菱に依存できるので、党員の選挙費用に困ることはなかった、と言われています😅④浜口雄幸(はまぐち おさち)浜口雄幸は高知県の出身で、東京帝国大学政治科を卒業後、大蔵省に入省しています。第2次大隈重信内閣で大蔵次官となり、以後政界に進出しています。立憲民政党の創設時に初代総裁に就任。その風貌(ふうぼう)から「ライオン宰相」と称された浜口雄幸は、ロンドン海軍軍縮条約の調印を成功させ軍縮を実行するなど、彼の指導力は党内・財界はもとより昭和天皇からも強く支持されたと言います。しかし、不況下の政治不信のなか、東京駅で佐郷屋留雄(さごうや とめお)に狙撃され、その傷が原因で亡くなってしまいました。⑤犬養毅(いぬかい つよし)犬養毅は岡山県の生まれで、慶應義塾を中退後に新聞記者を経て、第1回衆議院議員総選挙で当選して衆議院議員となり、以後第18回選挙まで連続当選しています。明治~昭和期の政党政治家である尾崎行雄とともに、「憲政の神様」と呼ばれました。のち、元老の西園寺公望の推薦で内閣を組織し、首相兼外務大臣に就任します。しかし、よく知られているように、五・一五事件で殺害されてしまい、犬養毅は戦前最後の政党内閣首相となってしまったのです😨今まで説明した5人の政治家のうち、実に4人が殺害されているのです…。次回、「明治憲法下における内閣総理大臣」に関する考察を深めていきたいと思います😊

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  • 20May
    • 日本史の考え方60「なぜアメリカの対日占領政策は転換したのか⑤」

      「中国における動向の変化」とは一体何か❓❓このことを理解するためには、中国国内において「大きな2つの勢力が対立していた」ということを知っていなければなりません❢この大きな2つの勢力とは、中国国民党と中国共産党です。1937(昭和12)年に日中戦争が勃発すると、敵対関係にあった中国国民党と中国共産党は「日本の侵略行為に抵抗する」という共通の目標のために協力しあうことになります😲これを「国共合作」と呼んでいます。「国共合作」は2度実施されており、1937(昭和12)年に実施されたものは「第2次国共合作」になります。「第2次国共合作」が実現し、抗日民族統一戦線が結成されます。しかし、日本の敗戦によって共通の敵が消滅することで、再び国共内戦が開始されることになるのです。米ソ対立が深刻化し冷戦が激化する中で、反共産主義の立場に立つアメリカは、蔣介石(しょうかいせき)率いる中国国民党を支援します。ですが、アメリカの思惑とは裏腹に、中国の国共内戦は、中国共産党の優位が明らかになってくるのです❢この状況が1948(昭和23)年の後半頃だと言われています。つまり❢❢「アメリカによる対日占領政策が、1948(昭和23)年から1949(昭和24)年にかけて大きく転換する。」この理由は、中国において共産党優位の情勢が支配的となり、中国が赤化(せきか:国家が共産党政権になること)する方向性がほぼ確定したからです。事実、1949(昭和24)年10月、毛沢東(もうたくとう)を国家主席として中華人民共和国が成立します。国共内戦に敗れた蔣介石は、台湾に逃れ、中華民国を存続させることになるのです。こうした状況の中、アメリカは日本の「非軍事化・民主化」よりも、日本を「全体主義(共産主義)の防壁」とするために、日本経済の自立を優先する占領政策に転換したのです。中華人民共和国は東側陣営(ソ連中心の陣営)、中華民国は西側陣営(アメリカ中心の陣営)に組み込まれます。朝鮮半島に目を転じると、戦後北緯38度を境に米ソに分割占領されることになります。1948(昭和23)年、ソ連軍の占領する北側に朝鮮民主主義人民共和国が、アメリカ軍の占領する南側に大韓民国がそれぞれ成立します。こうした中で日本国は、アメリカによって西側陣営に組み込まれることになり、アジア情勢も冷戦の影響を色濃く受けることになったのです。日本の「非軍事化・民主化」政策が途中で放棄され、経済復興が最優先事項となります。日本の経済復興を推進するべく、「経済安定九原則」の指令が発令されます。そして、「経済安定九原則」を具体化するために、「ドッジ=ライン」・「シャウプ税制勧告」などの政策が実行されるのです。この結果、戦後日本の猛烈なインフレ経済は、デフレ経済に移行しました。この政策によって猛烈な物価上昇は安定したのですが、中小企業の倒産・失業者の増加など、国内不況が深刻化していくことになってしまったのです😓アメリカによる対日占領政策は、「冷戦の激化・中国の赤化」という状況の中で大きく転換していきました。日本の経済復興は、猛烈なインフレーションは終息したものの、大不況を招くなど大きな痛みを伴うものでした。しかし、この日本の不況もこれから発生する「東アジアにおける大事件」によって解消されることになるのです。この考察はまた別の機会にさせていただきます😊歴史とは実に奥深い学問です。私は授業で、常に生徒に「なぜか」を問います。なぜ、この戦いが起こったのか❓なぜ、人々はこの選択をしたのか❓歴史はなぜを問う学問であると私は思います。歴史研究を通じて、未来を担う子供たちの「思考力・判断力・表現力」を養っていきたいと考えています。

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  • 17May
    • 日本史の考え方60「なぜアメリカの対日占領政策は転換したのか④」

      GHQは、財閥をどのような存在であると認識していたのでしょうか❓GHQは財閥を、労働者に低賃金を強制して国内市場を狭いものとし、輸出の重要性を高めることで、海外市場・植民地の獲得への衝動をもたらした存在である、と考えていたとされています。財閥の本社を、持株会社といいます。例えば三井の場合であれば、三井本社が子会社・孫会社の株式を保有しており、会社の経営上の主要な問題は全て三井本社(持株会社)の許可が必要で、子会社・孫会社の重役人事も本社によって執り行われていたのです。財閥本社自体は事業活動をせずに、子会社・孫会社の株式を保有することでこれらの会社を支配するだけの会社であったのです。いわゆる四大財閥とされた、三井・三菱・住友・安田の各社は、1937(昭和12)年の時点で、全国の会社の株式のうち、約25%の株を所有していたとされるなど、日本の経済界において絶大なる影響力を持っていました😲1945(昭和20)年11月、GHQは持株会社解体指令を発し、三井・三菱・住友・安田をはじめとする15財閥の資産の凍結・解体を命じます。さらに1946(昭和21)年8月、持株会社整理委員会が発足し、持株会社・財閥家族から譲渡された株式を一般投資家に売却することで、財閥を解体したのです。また「経済の独占」を防止する観点から、1947(昭和22)年に「独占禁止法」と「過度経済力集中排除法」が制定されました。「過度経済力集中排除法」は、巨大独占企業を分割し、市場における自由競争を確保するという観点から、当初325社が指定されていました。しかし、占領政策の転換から、実施に分割されたのはわずか11社にとどまりました。この時に銀行が当初から分割の対象外だったこともあり、のちに旧財閥系の各社は、銀行を中心に新しい企業集団の形成に向かうことになるのです。では農地改革に対して、GHQはどのような思惑を持っていたのでしょうか❓戦前においては、全農地の50%近くが小作地であり、農民の約70%が小作農or小自作農という状況にありました😔GHQは、この細分化された小作地と高い小作料(この小作料は現物納。収穫の50%~60%程度とされている)が、戦前の日本を対外侵略に駆り立てた、と考えていました。寄生地主制成立の詳細については、また別の機会に扱いたいと思いますが、現代とは違い農業外の労働市場が狭かった時代(つまり職種が現在に比べて少なかった時代)、小作農家は最低限の生活費を超える全余剰部分を小作料として現物(米)で地主(=寄生地主)に徴収されてしまったのです😢地主はこの小作料で十分な収益がありましたので、この小作料を元手に事業を起こしたり、株式を購入したりするなど、日本の資本主義の担い手になっていったわけです。農地改革は、第1次改革・第2次改革と実施されたのですが、この改革により全小作地の約80%が解放されたのです。全農地の50%であった小作地の80%が解放されたわけですから、全農地の40%が新たに自作地になったことになります。そして、もともと自作地が50%あったのですから、全農地の90%が自作地となり、この地が小作人に優先的に売り渡されたことにより、大量の自作農が創設されることになりました☻こうして自らの土地を保有することになった農民の生活水準は向上し、日本国内の消費市場は拡大することになったのです😊以上のように、GHQ主導の下で各分野において、日本の民主化が進んでいくことになりました。しかし❢❢第2次世界大戦後、アメリカとソ連がこれからの国際秩序をどのように形成するかをめぐり、激しく対立するようになりました。世にいう「冷戦」です。この「冷戦」の激化、そして特に中国における動向の変化によって、アメリカの対日占領政策は大きく転換していくことになりました😲1948(昭和23)年に行われた、アメリカのロイヤル陸軍長官の演説【=日本を全体主義(共産主義)の防壁とする】に端的に示されています。アメリカという国家において、日本の「非軍事化・民主化」に対する問題提起がなされ、日本の復興を早期に実現させるべき、という議論が起こったのです。では、上記の「中国における動向の変化」とは一体何であったのでしょうか❓皆さんも是非、考えてみて下さい☻

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  • 14May
    • 日本史の考え方60「なぜアメリカの対日占領政策は転換したのか③」

      前回の続きになります😊③教育制度の改革についてです。上記の画像は、一般的に何と呼ばれているか知っていますか❓答えは、「墨塗り教科書」です。1945(昭和20)年10月、GHQは、教科書の軍事関連部分の削除を指令し、ついで戦争・侵略の積極的推進者を教職から追放する、教職追放を指示します。そして1945(昭和20)年12月には、「修身(しゅうしん)・日本歴史・地理」の授業が停止されます。「修身」とは、現在でいう「道徳」に当たります。戦前の「修身」で子供達に徹底して教え込まれた内容は、儒教道徳と天皇制でした。私は授業で「修身」と「道徳」の違いを、次のように生徒に説明しています。「修身」では、日本人としてどのように国家に尽くすのか、そしてこの日本国の国家元首たる天皇のために何ができるのかを学ぶのである、と。「道徳」では、この日本国家に籍を置く日本人としていかに生きていくか、そして尊厳ある個人として自分の人生をどのように生きていくべきかを学ぶのである、と。「修身」と「道徳」は、ともに生き方を学ぶ科目ではあるけれども、内容は戦前と戦後とでは大きな隔たりがある、という話を生徒にしています。こうした「修身」、『古事記』・『日本書紀』の神話を歴史的事実として教えた「日本歴史」、そして台湾や朝鮮半島を日本の領土として教えた「地理」などの科目は、戦前の日本を解体するためにも即刻授業が停止されたのです。そして、1947(昭和22)年、教育の機会均等・9年間の義務教育・男女共学などをうたった「教育基本法」が制定されます。同時に「学校教育法」が制定され、六(小学校)・三(中学校)・三(高等学校)・四(大学)制の新しい学校制度を確立させたのです。また、教育の地方分権を目指し、1948(昭和23)年に教育委員会法が公布され、公選制(選挙で選ぶ)の教育委員会を全国の自治体に設置することになりました。もう1つ知っておくべき事項があります❢それは、1948(昭和23)年に「教育勅語」が衆参両院の議決で、法制上失効したことです。「教育勅語」とは、1890(明治23)年に明治天皇によって発布された戦前教育の方針を示した勅語です。天皇制(=国体)を国民に植え付ける上で、重要な役割を果たした教育理念でした。④秘密警察などの廃止についてです。治安警察法・治安維持法・特別高等警察、この全てが廃止されることになりました。治安警察法・治安維持法ともに労働・社会運動、反体制運動の弾圧に大きな影響を与えた法律ですが、特別高等警察とはどのような組織だったのでしょうか❓通称、特高とも称される特別高等警察は、戦前日本の社会運動・言論に対する監視、取り締まりを任務とした組織でした。一般民衆の生活と思想も監視統制し、敗戦後も活動を続けていたのですが、GHQの指令で廃止、関係者は罷免されています。国民生活を著しく拘束するこれらの法律・組織は、戦後の民主化政策の妨げになるという理由で、その全てが廃止されたのです。⑤経済機構の民主化についてです。授業で「経済の民主化」という単元を扱う際に、高校教師はそもそも「経済の民主化」とは何か❓というところには全く触れずに、すぐ「財閥解体」や「農地改革」について説明してしまう場面をよく見ます😅生徒は、なぜ「財閥解体」や「農地改革」が必要になるのか、という根本的な理由を理解できているのでしょうか❓私は授業で、まず簡単に「経済を民主化」するとはどういうことか❓について必ず触れています😐「経済」はお金💸を意味し、「民主化」とは考え方やシステムなどを、多くの民意が反映するように変えることを意味しています。つまり、戦前においては労働者も農民も低賃金で貧しく、購買力が小さかったために、資本家は海外に市場を求めざるを得ない状況であった。「経済を民主化」することで、日本国内にいる多くの人間がお金💸を使える状況を作り出し、国内市場を拡大することが、再び日本が帝国主義化の道を選択しないために必要不可欠である、と考えられたわけです。ですから、日本経済を支配した財閥と、農民から土地を奪い、農民の財を搾取した地主(寄生地主という)の両方を解体することが重要であるとされたのです。次回、財閥解体と農地改革の内容を見ていきたいと思います😊

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  • 11May
    • 日本史の考え方60「なぜアメリカの対日占領政策は転換したのか②」

      前回の続きになります😊アメリカの対日占領政策における「民主化」とは、どのような形で実現されていったのか❓ということでした😊マッカーサーは、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣が総辞職したあとに成立した幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)内閣に対して、「五大改革指令と憲法の自由主義化」を指示します。五大改革指令とは、幣原喜重郎が1945(昭和20)年10月に初めてマッカーサーを訪問した際に、マッカーサーが幣原喜重郎に述べた次の5点の民主化政策の指示のことです。①婦人参政権の付与②労働組合の結成奨励③教育制度の改革④秘密警察などの廃止⑤経済機構の民主化上記の5点について、簡潔な説明をしておきたいと思います😊①婦人参政権の付与についてです。1945(昭和20)年12月、日本では衆議院議員選挙法が改正されて、選挙人資格年齢の引き下げと女性参政権が初めて認められました。戦前は満25歳以上の男子にしか選挙権が与えられてはいませんでしたが、新選挙法では満20歳以上の男女に選挙権が拡大されたのです❢❢この新選挙法のもとで、1946(昭和21)年4月に戦後初の総選挙が行われた結果、39名の女性議員が誕生することになりました。この「39名」という数字は、大学入試において知っておくべき数字であると思います☻②労働組合の結成奨励についてです。②を扱う前に、そもそもなぜ日本は戦争に向かっていってしまったのでしょうか❓この大きな問題を、「日本の資本主義の在り方」という側面から考えてみる必要があります。端的に解答を試みるのならば、「国内市場が狭かった」という点に尽きるのだと思います。つまり、国民が貧しく、購買力が著しく小さい(弱い)のです😲労働者は資本家(会社経営者・工場経営者)によって徹底的に搾取される存在でした😞このような資本家の横暴に対して、労働運動やストライキを起こせば、治安警察法によって弾圧されることになります。治安警察法とは、1900(明治33)年、第2次山県有朋(やまがた ありとも)内閣によって制定された労働・社会運動弾圧のための法律です。1925(大正14:第1次加藤高明内閣)年に制定された治安維持法とともに、労働・社会運動取り締まりの法的根拠ともなりました。労働者の基本的人権としての労働基本権(「団結権・団体交渉権・争議権」の労働三権のこと)が制限されていたため、戦前期における労働者は貧しく、日本の工場で作られた日本製品を買う力(お金💸)がないのです😓ですから、日本の会社・工場は製造した製品を売るために、海外に目を向けるしかなく、海外市場や植民地を求めてアジア侵略が開始されることになるわけです。教科書には、【低賃金構造に基づく国内市場の狭さを解消して、対外侵略の基盤を除去する】観点から、GHQは労働基本権と労働組合の結成支援を行った、との記述があります。資本主義を支える労働者の権利を保障することで、資本家から不当な扱いを受けないようにすることはもちろん、労働者の低賃金構造によって再び日本が対外侵略の道を選択しないよう、GHQは積極的に労働者の保護を行ったのでした。1945(昭和20)年、労働基本権を保障した労働組合法が制定されます。1946(昭和21)年には労働関係調整法、1947(昭和22)年には労働基準法がそれぞれ制定されます。労働基準法では、労働条件の最低基準を定めています。当初は週48時間であった労働時間の基準は、現在では週40時間とされています。労働者のみならず資本家(雇用主)にとっても、労働組合法・労働関係調整法・労働基準法の労働三法は、非常に重要な法律です🌝また、1947(昭和22)年には労働省が設置されます。労働保護行政を担当する省です。労働者の生活は、法律の上では戦前と比較にならない程、国家から保護されることになったのです。③教育制度の改革④秘密警察などの廃止⑤経済機構の民主化については、次回にしたいと思います😐

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  • 08May
    • 日本史の考え方60「なぜアメリカの対日占領政策は転換したのか」

      今回は「戦後史」を扱ってみたいと思います。以前ある大学の入試問題で、「アメリカによる対日占領政策が、1948(昭和23)年から1949(昭和24)年にかけて大きく転換する。この時期における転換は、どのような事情に基づいたものであるか説明しなさい。」という内容の出題がありました🌝日本史の教科書を丹念に読みながら、この問いについて考えていきたいと思います😊日本国はポツダム宣言【1945(昭和20)年7月26日、アメリカ・イギリス・中国の3か国により発表されたヨーロッパの戦後処理と対日戦争終結のための宣言】に基づいて、戦後連合国によって占領されることになりました。ドイツとは異なり(ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって分割占領され、直接軍政のもとにおかれた)、日本の場合はアメリカ軍による「事実上の」単独占領下におかれました。なぜ「事実上」なのかと言えば、アメリカの大型旅客機メーカーとして知られるボーイング社によって開発された「B29爆撃機」による空襲や、原子爆弾によって日本を降伏させたアメリカの地位は、他の連合国と比較しても別格だったからです。アメリカによって実施された占領政策の「当初の」目標は、大きく2つでした。①非軍事化②民主化上記の2点を通じ、アメリカや東アジア地域にとって、日本が再び脅威となることを防ぐことに主眼がおかれたのです。まず、①非軍事化の側面から見ていきたいと思います。日本国内外に配備された陸軍・海軍の将兵の武装解除・復員(ふくいん)が進み、日本の軍隊は解体・消滅しました。復員とは、動員に対応する軍事用語で、召集・徴発などを解除し、平常状態に戻すことです。復員自体は喜ばしいことなのですが、海外から復員する軍人や民間の引揚げ者、軍需工場の労働者などが一夜のうちに仕事を失う事態が生じることになります😨しかも日本国内の人口が急激に増えることにより、深刻な食糧不足に陥ることになるのです😨都市民衆は、農村への買い出しや闇市での闇買いなどで飢えをしのいだのです。また、1945(昭和20)年9月~12月にかけて、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は日本の戦争指導者を逮捕し、そのうち28名がA級戦犯(「平和に対する罪」に問われた者)として起訴されました。1946(昭和21)年1月に、マッカーサーによって極東国際軍事裁判所の設置が命じられ、同年5月3日に開廷した裁判(東京裁判)は、1948(昭和23)年11月まで続きました。28名の被告の中、免訴者(1名)・死亡者(2名)を除く、25名全員に有罪判決が下されました。教科書にも記述されている通り、東条英機以下7名は絞首刑とされ、1948(昭和23)年12月23日に刑が執行されたのです。また1946(昭和21)年1月、GHQは日本政府に対して、公職追放を指令します。正式には「好ましからざる人物の公職からの除去及び排除」というものですが、この指令はドイツでの非ナチス化政策をモデルにひそかに作成されたものである、とされています。1948(昭和23)年5月までに、政界・財界・官界から言論界に至る日本人21万人が、戦時の責任を負われて職を失ったのです。首相就任直前の鳩山一郎なども公職追放されており、実に大きな影響力をもった指令でした。公職追放は、日本の非軍事化・民主化を目標としたアメリカの対日占領政策の一翼を担っており、その後に日本に大きな爪痕を残した政策でした。さらには、非軍事化の観点から軍需産業の禁止や船舶保有の制限が実施されたり、日本国内の産業設備を解体・搬出して、中国・東南アジアの戦争被害国に供与する現物賠償を行うことにもなりました。こうして日本の非軍事化が進められ、二度と日本が戦争という手段をとらないよう、日本の軍事力は解体されていったのです。では、民主化はどのような形で進められていったのでしょうか❓この続きは、次回にしたいと思います☻

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  • 05May
    • 日本史の考え方59「飢饉発生に秘められた真実②」

      前回の続きになります。「江戸時代に飢饉が頻発した理由」を考える、ということでした☻日本史の教科書には、18世紀前半に発生した「享保の飢饉」、18世紀後半に発生した「天明の飢饉」、19世紀前半に発生した「天保の飢饉」、いわゆる江戸時代における三大飢饉に関する記述が掲載されています。「享保の飢饉」は、ウンカ(稲の汁液を吸い、枯らす害虫)の異常増殖による大被害を受け、多くの餓死者を出す結果となりました。「天明の飢饉」は、冷害が原因で起こった飢饉で、江戸時代を通じて最大の犠牲者を出しました。三都(江戸・大坂・京都)への穀物移出によって持ち越し在庫がほとんどないところに大凶作が襲ったための悲劇でした。「天保の飢饉」は、連年のように凶作が襲ったことにより飢饉状態が深刻化し、東北地方を中心に多くの餓死者を出しました。このように見てくると、確かに自然現象(冷害・虫害)が飢饉に深く関わっていることがわかります。しかし、飢饉の原因は決して自然現象だけではないのです。ここにも人災と言える飢饉が存在しています。先ほどの説明の中で、「三都(江戸・大坂・京都)への穀物移出によって持ち越し在庫がほとんどない」という表現があったのを覚えていますか❓❓これは一体どういうことでしょうか❓江戸時代において唯一米を生産する農民は、もちろん自分たちの食糧としても米を作ってはいますが、基本的には年貢米として領主に納めるために米作に励んでいます。諸藩は参勤交代の際に必要な現金💸を獲得するため、全国市場である大坂に米を貯蔵する蔵屋敷を設けて、そこに年貢米として集めた米を送るのです。そして、蔵元(くらもと)・掛屋(かけや)と呼ばれた商人に米を換金させ、江戸屋敷や国元へ送金させていたのです。こうして地方で生産された米は、換金のために領外へと持ち出されていくわけです。しかし、領内の全て米が領外に出ていくわけではないはずです。租税として納められる年貢米以外の収穫米は、本来であれば生産地である地方に在庫として残されているはずです。このような在庫米が、万が一飢饉が起きた際、領内の庶民を救う大切な食糧となり得るのです。しかし❢より高い利益をあげて私腹を肥やそうとした商人たちによって、収穫米は大坂などの大都市へ移出されてしまうのです😨こうして年貢米・年貢米以外の収穫米ともに、「現金の獲得」という名のもとに領外へ持ち出されてしまい、領内に在庫米がほとんど残らない仕組みが出来上がってしまうのです。ですから、ひとたび凶作になると、諸藩の領内には備蓄米がほぼない状態ですから、食糧の欠乏が深刻化し、多くの人が餓死する大惨事となってしまうのです。米は人間の生命を維持する食糧なのですが、同時に米は現金💸でもあるわけですから、諸藩や私欲を肥やそうとする商人は、早く米を大坂に送り、米相場で高値をつけたところで売りさばいてしまうのです。だから諸藩の領内には、米がほとんど残らない。このため飢饉の規模も拡大していき、多くの人々が倒れていくことになる。まさに人災です。確かに戦国時代でも江戸時代でも、自然環境の悪化に伴い凶作となって飢饉が発生します。しかし、人間の行動によって引き起こされる飢饉も間違いなく存在したのです。歴史を深めていくと、様々なことが見えてきます。今を生きる私たちにとって、歴史から学ぶべきことはとても多いのです。皆さんも、歴史を深めることを通して、今を考えてみませんか❓

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  • 02May
    • 日本史の考え方59「飢饉発生に秘められた真実」

      今回の「日本史の考え方」では、「飢饉(ききん)」について考えてみようと思います。ある大学の入試問題で、「戦国時代と江戸時代に飢饉が頻発した理由」について考えさせる出題がなされたことがあります。「飢饉」とは、農作物の凶作などから食物が極端に不足し、人々が飢え苦しむ状態のことです。高等学校の授業で「飢饉」について扱うと、高校生は「飢饉」の原因を天候などの気象条件の悪化にのみ求める傾向があり、自然相手のことだから人間の力ではどうすることもできない現象だ、と捉えがちです😅高校生のこのような考え方に変更を求める良問が、大学入試問題として出題されたのです😊まず、「戦国時代に飢饉が頻発した理由」を考えます。戦国時代は、通常1467(応仁元)年の応仁・文明の乱から、1568(永禄11)年に織田信長が足利義昭(よしあき)を奉じて入京した時までの約100年間の時代のことをいいます。戦国時代は戦国の動乱の中で、戦国大名が各地で覇権を争った時代とあるとともに、下剋上(げこくじょう)の時代でした。戦国大名の軍隊は、農村に屋敷を構える武士が周辺の農民などを戦闘補助員として編成した集団から成り立っていました。戦争を長期にわたって継続するためには、この編成のあり方では大きな問題があったため、豊臣秀吉は兵農分離を完成させることになります。つまり❢❢農業生産物を生み出す唯一の階級であった農民は、半武士半農民としての性格を有していたため、戦争が起こると戦争に従事するための労働力として徴発されることになってしまい、農業生産に携われなくなってしまいます。戦争を継続するためには戦力はもちろんですが、経済力も必要不可欠です。この経済力を年貢(租税)という形で戦国大名に提供してくれるのは、農村に居住した農民に他なりません。経済力を生産してもらうためにも、農繁期になれば農民を戦争の労働力として利用することはできず、戦力の減退に直結することになります。このような弊害を避けるためにも、戦争に従事する戦士と農業に従事する農民とを完全に区別し、戦士を戦国大名が居住する城の周辺に集住させることで城下町を形成したのです。兵農分離政策は、戦争の長期間にわたる継続のために不可欠な政策だったわけです。この兵農分離が完成していなかった時代では、当然農民に戦士としての役割が課されることになります。こうして戦争が日常化していた時代では、農業生産のための労働力がたびたび奪われ、農業生産力が低下することになってしまったのです😨さらに当時の戦争方法(戦術)も、飢饉の頻発に大きく関わっていました。日本史の教科書などには、「刈田狼藉(かりたろうぜき)」という用語が載せられています。刈田狼藉とは、他人の所有する田畠の作物を、自分に本来の権利があるという暗黙の主張の下に実力で刈り取る行為のことです。戦国時代においては、戦争継続に必要な兵糧(ひょうろう)を獲得するため、あるいは敵方を兵糧攻め(敵の食糧補給路を断ち、兵糧を欠乏させることで敵に大打撃を与える戦法)にして飢えさせることで相手からの降伏を引き出そうと、刈田狼藉は盛んに行われたのです。このように考えてくると、戦国時代に飢饉が頻発した理由が見えてくると思います。つまり、飢饉の発生は自然環境の悪化が理由なのではなく、人災(人間が原因でおこる災害)だったのです。戦争発生に伴って、農業生産に必要不可欠な労働力が奪われてしまう。さらには戦術としての刈田狼藉によって、ただでさえ収穫量が減少しているにも関わらず、大切な食糧が奪われてしまう。こうした悪条件によって、飢饉が頻発する、というわけなのです。では江戸時代に飢饉が頻発した理由は何でしょうか❓戦国時代と比較して明らかに農業生産性が向上しているはずなのに…。この続きは次回にしたいと思います。皆さんも是非、考えてみて下さい☻

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  • 29Apr
    • 日本史の考え方58「米公方の苦悩③」

      前回の続きになります。徳川吉宗は、幕藩体制の中核に位置する「米」の価格安定のため、大坂に存在した「ある重要な市場」を公認することになりましたが、この市場とは何か❓ということでした😊答えは、大坂堂島の米市場です。1730(享保15)年、江戸幕府は堂島米市場における「空米取引(からまいとりひき)」を公認します。「空米取引」とは、米相場(相場とは、市場で取引される品物の値段のこと)を利用した先物取引(さきものとりひき)のことです。先物取引とは、「現時点では存在しない商品(近い未来に存在する商品)」を売ったり、買ったりする商取引のことです。米における先物取引では、現物の米を取引するのではなく、米相場の変動の結果生ずる取引代金の差額のみが決済されます。現物の米の売り買いを伴わない帳簿の上だけの取引であるので、空米取引【帳合米取引(ちょうあいまいとりひき)とも言う】と呼ばれたのです。難関大学受験の際には、知っておいてよい用語になります。空米取引は、純然たる投機目的(将来の価格の変動を予想して、現在の価格との差額を利得する目的で行われる売買)としても利用されたのですが、堂島米市場での現物取引である正米取引(しょうまいとりひき)に対する一種の保険としても盛んに利用されていました。例えば、米を売る側が、「米10㎏を5,000円で売る」という約束のもとに、購入者と売買契約を結んだとします。しかし米の大豊作によって、米の実際の取引価格が「米10㎏で1,000円」となってしまったとしても、「米10㎏を5,000円」で売るという契約が結ばれていますので、米を売る側は収入を確保することができます。また米を購入する側にとって、「米10㎏を5,000円で買う」という契約をしておいた場合、もしも大凶作で「米10㎏が20,000円」と高騰してしまった際でも、「米10㎏を5,000円」で購入することができるわけですから、米を高値で購入するというリスクを回避することが可能となります。このように、米価変動に伴う現物取引での損失を回避することができたので、空米取引は信用の高い取引として、実に利用価値の高いものとなりました。当時の社会は米経済でしたので、米の取引における安心・安全を提供してくれる堂島米市場の利用価値は上昇し、米の取引が盛んに行われるようになりました。こうして米の需要が高まり、米価が高値をつけるようになっていくのです。幕府が空米取引を公認した最大の理由は、まさにこの点にありました。つまり、幕府が空米取引を公認したことにより、米取引の需要が増大し、米価が高値になるという方法を考案したのです。米価上昇に関する方策として、幕府は様々な方法を考案しています。「高埜利彦『日本の歴史⑬元禄・享保の時代』集英社 1992年」を参考にすると、次のように記述されています。「1730(享保15)年、幕府は年貢米60万石を籾(もみ)のまま貯蔵して、60万石を米市場から購入し、さらに諸大名や大坂の商人にも同様の方法を勧めて米の需要を高めさせた。」つまり、市中に出回る米の量を減少させることによって、米の価値(需要)を高め、米価の上昇を図ったのです。さらには、「酒造を積極的に奨励する」という政策も実施しています。酒(日本酒)造には、大量の米が必要とされます。米の需要を高めることによって、米価の引き上げを意図したわけです。米価が下落してしまえば、せっかく増徴した年貢米も低い価格で換金されてしまうことになり、増収は見込めなくなってしまいます😓これは幕府だけではなく、武士階級にある者にとって同様に頭の痛い大問題だったわけです😢そこで幕府は、米の流通機構の整備・介入を積極的に行うことで、米価の高値維持を図ったのです。諸色(米以外の商品)に対する需要の増大が、諸色の価値を高め、価格の高騰につながりました。この経済状況を憂慮した幕府によって、米の価値を高める政策がとられました。幕藩体制と呼ばれた江戸時代のシステムは、石高制に基づいた支配体制でした。石高とは、「土地評価を米の生産高で示す」というものです。農民は石高によって租税を負担し、幕府や諸藩の領地や俸禄の規模なども全て、この石高で示されたのです。つまり、石高制は江戸時代維持における根幹であり、米経済を継続していくためには、米価の低下は何としても避けなければならない事態でした。米価低下によって、石高制が否定されてしまう事態が発生した場合、江戸幕府の存続は極めて難しくなってしまうからでした。だからこそ❢ 米将軍と称された徳川吉宗は、常に米価に気を配っていたのです。江戸幕府の支配体制の根幹を崩壊させまいとする焦燥感であり、危機感が背景にあったのでしょう。米価の安定は、武家政権としての江戸幕府の支配の安定に直結していたのでした。

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  • 26Apr
    • 日本史の考え方58「米公方の苦悩②」

      前回の続きになります。新田開発による米の増産、定免法による税収の安定化などの江戸幕府の政策が、なぜ深刻な事態を引き起こすことにつながったのか、ということでした。日本史の教科書などには、「幕領の石高と年貢収納高」に関する記述があり、そこには次のように書かれています。「幕領は当初300万石弱であったが、しだいに増加して元禄期(1688年~1704年)に400万石前後となり、享保期(1716年~1736年)以降から幕末まで440万石程度であった。年貢収納率は、当初は高かったがしだいに低くなり、享保の改革の効果で上昇して宝暦期(1751年~1764年)に頂点に達し、その後低下して寛政の改革で一時的にもち直すが、再び下がった。」幕領の増加は耕地面積の増加につながり、定免法の採用は年貢収入を増加させることに有益だったことが、この教科書の記述から理解することができます😊米の増産に寄与したのは新田開発だけではなく、「農書の普及」という社会状況も深く関わっています。農書とは農業書のことで、日本の代表的農書は宮崎安貞(みやざき やすさだ)によって著された『農業全書』です。『農業全書』は1697(元禄10)年に刊行された農書で、明治期になっても出版されました😲米を増産する方法としては、大きく2つ考えられます。1つは、新田開発を行って耕地面積を増やすこと。もう1つは、面積当たりの米の生産量自体を増やすことです。農書は、日本各地の農業技術の知識を農民に与えることで、農業生産力の向上に大きく貢献したのです☻この結果、米は増産され、年貢増徴によって幕府収入も増大することになったのです。しかし❢❢米が増産され、米の供給量が増えた結果、米の価格が下落し始めたのです😨米価は供給量で決まります。豊作時には供給量が増えるために米価が下落し、凶作時には供給量が減るために米価が上昇することになります。徳川吉宗の時代における経済問題が、物価問題であったことはすでに触れました。つまり、供給過剰によって米価が下がっているにもかかわらず、諸色(米以外の諸商品)の価格は上昇し続けているのです。商品の価格は米価の変動とは関係がなく、商品の原材料・人件費・肥料代など商品として売り出すまでにかかった経費によって、決定されます。ではなぜ、米公方である徳川吉宗は「米価安の諸色高」の状況を問題視したのでしょうか❓ここで考えなければならないことは、武士は俸禄(給料のこと)を「どのようなもので」もらうのか❓ということです。幕臣である旗本・御家人は幕府から給料として「米」を支給されますし、諸藩の武士であれば藩主からこちらも「米」を支給されます。これが主君からの「御恩」ということになるのです。この「御恩」としての米を「現金💸に換金する」ことで生計を立てていたのが、当時の武士なのです。しかし、米価が下落してしまうと、武士の実質賃金が下がってしまうことになります😞この状況下において、諸色の価格が高いわけですから、武士の生活は相当に苦しいものとなってしまうわけです😓給料は減っているのに、物価は上昇していってしまうという状況に陥ってしまうのです。幕府直属の家臣である幕臣を束ねる将軍からすれば、こうした事態は大変に憂慮すべき事態です。徳川吉宗は商品作物栽培の奨励を行ったことでも有名です。教科書等には、菜種(なたね:灯明用油)・甘藷(かんしょ:さつまいも)・さとうきび・櫨(はぜ:ロウソクの原料)・朝鮮人参(薬用)などが商品作物として掲載されています。このような商品作物は需要があり、諸色高騰につながっていくことになります。このような状況下で活躍が期待されたのが、株仲間などの特権商人でした。流通統制と物価統制の役割を期待された彼らは、大量の商品を大坂に集荷します。そして船⛵で、大坂から日本最大の消費都市である江戸に商品を輸送したのです。こうして株仲間は商品の物価上昇を抑制し得る存在として、日本の物価安定に貢献したわけです。さらに徳川吉宗は、幕藩体制の中核に位置する「米」の価格安定のため、大坂に存在した「ある重要な市場」を公認することになります。この市場は現在、大坂で有名なロールケーキの名称にも使用されている地にありました。皆さんは、お分かりになりますか❓❓この続きは次回にしたいと思います😊

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  • 23Apr
    • 日本史の考え方58「米公方の苦悩」

      皆さんは、「米公方(こめくぼう)」と聞いて、一体誰のことか分かりますか😊❓答えは、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗です。徳川吉宗は自らが中心となって推進した「享保の改革」で、米価の変動を防ぎ、米価の調整に意を注いだことから、「米公方」の異称を持っているのです。ちなみに「公方」とは、将軍のことです。徳川吉宗が幕府政治を主導していた頃に問題となっていたのが、物価問題でした。このことに関して扱った大学入試問題があります。要約すると次のような設問でした。「米価安の諸色高と称される当時の経済状況下において、徳川吉宗は大坂の米市場に何度も米価の安定化を要請した。米価の安定が徳川吉宗の重要な政治課題となったのはなぜか❓」というものでした。まず考えなければならないのは、「米価安の諸色高」とはどういうことか❓ということです。読んで字のごとくではありますが、「米価が安く、米以外の諸商品の値段が高い」という経済状況を表しています。ここで重要なのは、なぜ米価が安いのか❓ということと、なぜ米以外の諸商品の値段が高いのか❓ということです。最初に「なぜ米価が安いのか❓」について考えていきたいと思います。この問題はあくまで入試問題ですので、中学生であろうと高校生であろうと教科書をよく理解することで、十分に正解にたどり着くことができます☻江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の時代は、江戸幕府の財政を考える上で、重要な変化があった時期です。つまり、江戸幕府初期から続いた比較的豊かだった鉱山収入も、この時期に減少し、金銀の産出量がただちに幕府財政の収入減に直結したのです。江戸幕府の収入源は、大きく2つから成り立っていました。①幕府直轄領(天領・幕領)からの年貢収入②江戸幕府直轄の鉱山からの鉱山収入もちろん後に、株仲間(特権商人)を積極的に承認して、流通統制(全国市場である大坂に物資を集荷させる)と物価統制(物価の上昇を抑制する)を担わせる代わりに、運上・冥加(みょうが)と呼ばれた営業税を幕府に納入させることで、幕府財政を潤わせる政策を実行していくことになります。しかし、原則として中世における楽市政策(特権商人を排除し、自由な商業取引を行わせる政策)を継承した江戸幕府によって、特権商人は最小限度しか認めない(幕府が必要とする特権商人は承認するという方針)、ということになっていましたので、商人から営業税を納入させることで幕府財政を補填するという考え方が当初からあったわけではありませんでした。ですから、江戸幕府の収入源であった鉱山収入の減少という事態に直面した徳川吉宗が行った「享保の改革」の重点は、何よりも幕府財政の再建におかれたわけです。江戸幕府史上初となる赤字財政を経験した幕府は、幕府財政を黒字にするための政策を実行することになります。そして増収策として実行されたのが、新田開発・年貢増徴・商品作物栽培の奨励などでした。1722(享保7)年に、江戸日本橋に高札(こうさつ:幕府・藩が法令を板に墨書して町・村の高札場に掲示したもの)を立てて町人による新田開発を奨励しました。つまり、商人資本の力を借りて新田開発を進めようとしたのです。著名なものに、紫雲寺潟新田(しうんじがたしんでん:新潟県新発田(しばた)市)などが知られており、このような新田開発によって約20万石の増加となっています。年貢増徴についてはどうでしょうか❓教科書には、「検見(けみ)法を改め定免(じょうめん)法を広く採用した」との記述が見えます。検見法とは、作柄の良否や農民の生活状況を検分し、その年の年貢率(免)を決定する方法です。この方法だと、実施検分の手数や費用がかかり、また役人の不正や収賄が横行しやすい状況が生まれます😓これに対して定免法は、代官などの公権力による不正が起こらないようにするため、一定期間豊凶の別なく、定率で年貢を収めさせる方法です。租税を納める立場の農民たちからすれば、定免法より検見法の方がありがたく、権力者の側からすれば、検見法より定免法の方が安定した税収が見込めることになります😊徳川吉宗が採用したのは、定免法でした。定免法を広く取り入れ、年貢率の引き上げをはかり、年貢の増収を目指したのです。幕府財政の再建をはかる江戸幕府としては、新田開発による米の増産、定免法による税収の安定化などの政策は、正しいものであったはずです。しかし、この政策が深刻な事態を引き起こすことにつながるのです😨この続きは次回にしたいと思います。皆さんも是非、考えてみて下さい☻

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