読者の皆様方、大変ご無沙汰いたしております🙇♂️
このたび、大変興味深い歴史事実をあつかった書籍に出会いましたので、この書籍を引用する形で日本史を深めていきたいと考えております。どうぞ、お付き合いください。
書籍 岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』(祥伝社新書)
1930年代、日本陸軍に存在した皇道派と統制派は、軍のあり方をめぐって対立を続けていました。
皇道派は、隊付の青年将校を中心に、直接行動による既成支配層の打倒、天皇親政の実現を目指していました。
一方、統制派は、陸軍省や参謀本部の中堅幕僚将校を中心に、革新官僚(強力な国家統制による戦時経済の実現を目指した官僚のこと。この代表が、のち総理大臣に就任する岸信介)や財閥と結んだ軍部の強力な統制のもとで、総力戦体制樹立を目指していました。
こうしたなか、1936(昭和11)年2月26日早朝、右翼の理論的指導者である北一輝の思想的影響を受けた皇道派の一部青年将校たちが、約1400人の兵を率いて首相官邸・警視庁などを襲撃するクーデタを起こします。
二・二六事件です。
この二・二六事件の内容は、日本史を知る上で極めて重要ですが、ここではこの事件後の決定について考察していきます。
事件後、陸軍上層部の陣容は一新されることになりました。特に、今まで皇道派もしくはその同調者と見られた人々が大量に追放されたのです。軍内部で国家革新運動や派閥抗争にからんだと見られる人物を一掃していきます。
そして、統制派は皇道派復活の芽をつもうと画策します…
そのために取られた手段が、このブログの核心である「軍部大臣現役武官制」の復活だったのです。
これは、1913(大正2)年、当時の山本権兵衛内閣で陸海軍大臣が「予備役・後備役の大将・中将」まで任用できるとされたものを、再び「現役」に限るとした官制改革です。
これによって陸軍・海軍どちらかが大臣を出さなければ、内閣は軍部大臣を入閣させることができず、組閣できなくなります。
これだけ聞くと、軍部による政治への介入強化と捉えられてしまうかも知れません。
事実、のちに陸軍は米内光政内閣を倒閣するべく、陸軍大臣であった畑俊六を辞職させ、後任人事を行わないことで米内内閣を総辞職に追い込んでいます。
しかし!!
この「現役」武官制の復活自体、決して政治への介入を強化するためではなかったのです。
当時、軍務局軍事課にいた武藤章(第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判でA級戦犯となり処刑)は、現役武官制復活について、「追放された皇道派の指導者たちが、どのように策謀しても絶対に大臣に就任できないようにするための方策」であると回想しています。
二・二六事件後に組閣された広田弘毅内閣の当時の法制局長官であった次田大三郎が、東京裁判に提出した口供書(裁判所などの尋問に応じて行う証人などの供述を筆記した書面)に、なぜ軍部大臣を現役に限るのかという点についての説明があります。
「二・二六事件の責任者として数人の陸軍大将・中将を予備役・後備役に入れるのであるが、現行の制度(「現役」でなくても良いという規定)では、これらの大将・中将のある者が他日、陸軍大臣になるかも知れない。そうして二・二六事件のような不適切な事件、もしくはさらに重大な事件を起こすかも知れない。このようなことを防止するため、予備役に編入された大将・中将が陸海軍大臣になれない制度とする必要がある。」
今からもう6年も前ですが、この軍部大臣現役武官制を扱ったブログを書いています。(下にリブログしました)
このブログでは、広田内閣における軍部大臣現役武官制の復活について、軍部による政治への介入強化というスタンスで書かれています。
こうした記述が誤っているわけではありませんが、歴史は多角的・多面的に見ることが重要であることに、改めて気づかされます。
結果として、現役武官制が内閣を倒す道具として使われてしまうのですが、そもそもの目的が「皇道派の復活阻止」にあったのです。
歴史はよく見ないと、真実はわからないものです。結果としてそうなってしまったものが、最初からその結果を目的として行われたかのように勘違いしてしまう事例は数多くあると思います。
歴史はさまざまなことを私たちに教えてくれます。歴史の奥深さを感じます。
皆さんは、どのようにお感じになられますか?
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました