幕末任侠医 高松凌雲(下) 函館戦争の事 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

 「抜錨。」
東京・品川沖に停泊していた、旧幕府軍の軍艦8隻が、錨を
上げて出航準備にとりかかった。艦隊を指揮するのは、
旧海軍奉行・榎本たけあき武揚、32歳。生粋の江戸っ子
である。旗艦・開陽丸の甲板には、榎本と凌雲のほかに、
軍艦奉行の荒井郁之助、艦長・沢太郎左衛門などが立ち、
ぼおっと紅く染まる東京の街を見ていた。

「オランダから帰って早々、幕府海軍が揃って夜逃げってん
だから、なんともべらぼうな話じゃねえかい。ねえ、凌雲先生。
先生もフランスでこれからって時にさ。」

 榎本が凌雲に話しかけた。
「新しい国造りでしょうが、釜さん。」
榎本は通称・釜次郎。
「そうさね。薩長の威張りくさった芋侍は、勝先生がにらみを
効かせてくれてる。その間にこっちは新しい独立国の建設よ。」

 開陽丸は静かに動き出した。回天丸・播竜丸・千代田丸・
長鯨丸・神速丸・美加保丸・咸臨丸が、その後に続いた。
旧幕臣やフランスの軍事使節団を乗せた総勢2000名の艦隊
は、北海道・函館の五稜郭を目指した。時に1866年
8月19日午後11時。太陽暦では10月4日。東京湾の
暗い海面に、秋の冴えた月光がきらきらと輝いていた。

 この頃東北戦線では、会津軍が最後の抵抗を示していた。
奥羽越25藩の列藩同盟による戦闘は、各地で新政府軍が
勝利し、最強と言われた越後・長岡藩との「北越戦争」も、
7月29日にケリがついた。
 これらの戦場の最前線に、常にひるがえっている旗があった。
それには「奥羽出張病院」と描かれてあった。敵味方の区別
なく戦傷者を治療する野戦病院である。病院長は関寛斉35歳。
医者でもある村田蔵六の推薦する「仁術医者」だった。
18歳で佐倉順天堂に学び、10年後、長崎のポンペから
「患者に身分の上下なし」という精神を叩き込まれた男である。

 ポンペはユトレヒト大学で医学を学んだオランダ人医師で、
1857(安政4)年に来日。口の悪い勝海舟が「ありゃ名医だよ」
と誉めたぐらいだから、よほど人格・見識の優れた人物だったの
だろう。
 ともあれ「奥羽出張病院」は、日本初の「赤十字的」病院と
なった。関に協力した薩摩軍従軍医師・ウイリアム・ウィリス
(28歳)の名も特記しておく必要があるだろう。

 意気揚々と出航していった榎本艦隊だが、8月21日犬吠埼
沖で台風に傷めつけられた。美加保丸座礁。勝海舟らが太平洋
横断を果たした咸臨丸は、漂流して駿河(静岡県)の清水港に
流れ着いた。旗艦・開陽丸は舵を失い、3本のマストを折って
しまう。回天丸も2本のマストを折り、8月28日にヨタヨタ
の状態で仙台湾・東名浜の沖までたどり着いた。

 仙台藩62万石。徳川幕府から見れば、外様大名である。
表向きは幕府に従い、腹の中ではあまり幕府をよく思っていない
というのが、藩祖・伊達政宗以来の伝統的精神である。中央政府
の動乱とは常に一歩距離を置き、時代の潮流に乗って生き延びて
ゆく家風があった。気候が温暖で自然災害が少なく、米がよく
とれて、江戸時代に百姓一揆がほとんどないという、全国でも
例外的な藩だった。

 そうした豊かな経済力のせいか、革命的精神は育たなかった。
奥羽越列藩同盟の中枢に位置しながら、どっちつかずの態度を
とったのはそのせいである。榎本らが仙台藩に徹底抗戦を呼び
かけても、「のれんに腕押し」の状態だっただろう。事実、
仙台藩内の強硬派はことごとく要職を追放され、榎本らの艦隊
も燃料と食糧の補給をうけただけで、体よく追い払われて
しまった。
 9月8日、年号が「明治」と改元された。9月11日、榎本
艦隊は、体勢を立て直して仙台湾を出航した。美加保丸と咸臨丸
に代わって、鳳凰丸と大江丸が加わった。また、旧新撰組副長・
土方歳三率いる「額兵隊」が合流した。
 この年、土方歳三33歳。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼、宇都宮、
会津若松で戦闘に参加。「死に場所」を求めての転戦だった。
新撰組局長・近藤勇は、すでに新政府軍に捕らえられ、斬首の
刑に処せられていた。

 10月19日、榎本艦隊は北海道(蝦夷地)内浦湾に投錨。
翌日、鷲の木村へ上陸した。目指すは函館(箱館)五稜郭。
榎本軍は、大鳥圭介率いる本隊と、土方率いる支隊に分かれて
進軍。26日に五稜郭を無血占領した。彼らは休む間もなく、
松前城攻略戦に着手。常に死ぬ気でいた土方の大胆な作戦も
あって、12月初めまでには松前藩勢力を追い出す事に成功
した。

 12月5日、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」が誕生した。
土方は陸軍奉行並、凌雲は箱館病院の病院長に就任した。
「ヨーロッパなら日本位の広さの土地に、3つも4つも共和国
がある。新国家の承認は、万国公法(国際法)に照らして、
イギリス・フランスなどに求める」というのが、榎本の言葉
だった。
 だが、明治政府が手をこまねいて独立を承認するわけは
なかった。1869(明治2)年3月、明治政府は雪解けと共に
蝦夷共和国総攻撃を行うと決定。4月9日、長州・薩摩・
福山・備前・伊予・筑前・津軽・松前藩の陸・海軍から
成る新政府軍は、江差の北・乙部村に上陸した。

 二千の兵は3隊に分かれて、函館への進軍を開始。
4月13日、両軍は二股口で激突した。土方歳三率いる
伝習隊などの軍勢が、死に物狂いで戦う事13時間余。
ついに新政府軍は、一時退却せざるを得なくなった。
「傷ついた者は敵味方問わず、誰でもいいから連れてこいよ。」
という凌雲の意志によって、戦傷者は次々に箱館病院へと移送
されていった。
「医者のはずが、これじゃ畳屋だよな。」
などと言いながら、凌雲は弾丸の摘出や刀傷の縫合などの手当て
に忙殺されていた。この戦闘での共和国軍の死傷者は、78人に
のぼった。
 4月17日、新政府軍は陸海軍を松前に集結。艦砲射撃と
陸軍の狙撃で、共和国軍を撤退させる事に成功した。以後
共和国軍はじりじりと追いつめられ、5月3日の時点で残る
陣地は、五稜郭と弁天台場だけとなった。こうなっては勝敗は
明らかだった。共和国軍は心理的にも追いつめられ、全員玉砕
を覚悟した。

 5月11日、夜明けと共に新政府軍の総攻撃が始まった。
函館山沖からの艦砲射撃が、市街地に向けて行われた。
共和国海軍の回天丸・播竜丸も負けじと応戦。また陸軍も、
銃弾を撃ち続けながら、五稜郭本陣に向けて進軍。各所で
壮絶な市街戦が繰り広げられた。
 本陣を出て弁天台場の救援に向かおうとした土方は、この時
一発の弾丸に腹を貫かれ、どっと落馬した。この弾が狙撃に
よるものか、流れ弾によるのかはわからない。ともあれ土方の
出血はなはだしく、数時間後に絶命した。

 午前10時、箱館病院は久留米藩の兵士に取り囲まれた。
皮肉な話だが、凌雲は医者を志す以前、この藩の小姓勤めをして
いた事がある。だが今さら昔の縁を頼って同情を引くような凌雲
ではない。殺気立っている兵たちに、戦傷者の保護を説いた。
「傷ついて動けない者を殺しゃ、そりゃただの人殺しだろうが。
人の道を踏みはずすような真似はやめなよ。」
と凌雲は言った。
「私は医者だ。傷ついた者に、薩長も幕府もないよ。平等に
あつかう。あんたがたの仲間で、傷ついた者がいれば連れて
おいで。」
凌雲の説得により、戦傷者は保護され、医療行為の続行も許された。

 だが、悲劇は凌雲の目の届かぬ所で起きた。箱館病院の分院と
して使われていた「高龍寺」に、松前・津軽藩の兵が乱入。戦傷者
十数人を殺害のうえ、寺に火を放ったのだ。
「呪ってやる・・生涯・・」
凌雲は慟哭した。戦争ゆえの狂気に対して、怒りに震え、はらわた
が煮えくりかえった。

 この日の戦闘は夜8時頃まで続けられ、共和国側の死傷者
だけで171人に達した。海軍の回天・播竜も弾を撃ち尽くした
後炎上。文字通りの死闘となった。その夜、戦傷者でごった返して
いる箱館病院に、榎本がやって来た。榎本は凌雲の前に、分厚い
本二冊と一通の手紙を差し出した。

「おいらぁ、腹切る覚悟は出来てる。けどね、こいつを燃し
ちまうのは日本海軍の損失になる。先生から西軍の黒田さんに
渡しちゃもらえないかい。」
 榎本が持参した本とは、「海律全書」という海上国際法で
ある。オランダのハーグ大学教授・フレデリクスが、フランス人
オルトランの著作を訳した自筆本だった。
 凌雲は翌朝、自ら黒田の営舎に向かった。明治政府軍参謀・
黒田清隆、28歳。茫洋としてつかみどころのない男である。酒豪
であり情が深い。西郷隆盛を師と仰ぐ。
「かたじけなかです。」
黒田は「海律全書」を押し戴いた。
「先生。御礼状を書き申す間、しばらくお待ち下さい。」
 凌雲は、黒田の手紙と使者一人を連れて営舎を出た。黒田の
使者は、荷車に酒5樽を乗せて、ガラガラと引いていた。

「おう、行ってきたよ。」
凌雲は五稜郭の本陣に榎本を訪ね、黒田の手紙を手渡した。
 榎本は手紙を読み終えると、腹を抱えて笑い出した。
「はははははっ。先生、負けたわ。こんな男が西軍にいるん
じゃ、勝てねぇ。」
そう言って榎本は、凌雲に手紙を見せた。海律全書の礼を述べた
後、追伸として次のように書かれてあった。

「義を重んじる篭城 感心した。食糧弾薬が欠乏なら送る。
防御の個所が行き届かぬのなら、攻撃を猶予する。期日を
知らせよ。」
 凌雲は、脇にいた陸軍奉行・大鳥圭介に黒田の手紙を見せた。
大鳥も大笑いした。
「玉砕と気負ってみても阿呆らしい。今回はひとつ、降参と
洒落てみようか。」
指揮官の英断で、無用の玉砕戦は避けられた。5月18日
共和国軍は降伏した。

 江戸が東京となり、年号が改まっても、刑務所にはまだ、
小伝馬町の牢屋敷が使われていた。
「大牢、払い下げる。」
「へーい。おありがとうござい・・・」
薄闇の中から、牢名主の声がする。入牢した男は、牢名主から
声をかけられる。
「お前、娑婆でどんな悪業を働いた?」

「私が函館戦争の榎本である。」

「へっ?・・・へっ・・へへぇっ・・」
榎本は即刻牢名主になった。

 凌雲も東京に送られ、10月から翌年2月11日まで、
阿波藩邸での謹慎が命じられた。11月に浅草・新片町で医院
を開業。地元の「赤ひげ」としての第一歩を踏み出した。凌雲は
動乱の生活からようやく解放され、家庭を持った。
 凌雲と共に「赤十字精神」のさきがけとなった、「奥羽出張
病院」の医師・関寛斉は、徳島に戻り医院を開業。種痘の普及に
努めるとともに、貧しい者無料の医療を続けた。「徳島の赤ひげ」
「関大明神」として、地元の人々から崇められた。

 1872(明治5)年1月、榎本は西郷隆盛・黒田清隆らの尽力に
よって釈放され、明治政府の為に働く事になった。北海道開拓使を
経て、明治7年、海軍中将兼特命全権大使としてロシアへ。外交
顧問として、旧知のオランダ人医師・ポンペを招いた。ポンペは
後に、第4回赤十字国際会議に出席。西洋の任侠医者として、
普仏戦争の野戦病院で働く事になる。

 1877(明治10)年2月、熊本。西郷隆盛率いる薩摩軍
3万余人を、明治政府軍6万1千人が包囲した。西南戦争である。
政府軍は物量にものを言わせて、山砲・小銃を一日約32万発、
日本刀しか持たぬ薩摩軍に浴びせかけた。薩摩軍は夜間の抜刀
作戦で抵抗し、血で血を洗う激烈な戦いとなっていった。
 戦闘は2ヶ月あまり続き、この熊本城攻防戦だけで約7千人の
死傷者を出した。死体の腐乱臭、血の臭い、戦傷者の叫び・
うめき声。戦場は常に地獄絵となる。

 3月。凌雲は元老院議員・佐野常民の訪問をうけていた。佐野は、
赤十字と同様の救護団体、「博愛社」の設立を準備していた。
「高松さん。この仕事はあなたが最も適しています。同じ洪庵先生
の教えを受けた者としてお願いします。昔のいきさつは水に流して、
協力してもらえませんか。」
佐野は凌雲を口説いた。
「おっしゃる事はよくわかります。しかし私は、自由・平等・博愛
という崇高な理念からはほど遠い人間です。つまらん事と笑われる
かもしれないが、私はいまだに高龍寺を焼き討ちした者たちを恨んで
います。そんな男が赤十字でもないでしょう。」
「あれは悲劇だった。しかし、箱館病院はまぎれもなく赤十字
だった。」
「私はただの医者です。組織運営という政治的な事柄は、私の
最も苦手とするところです。むろん、医者としての協力は約束
しましょう。」
凌雲は佐野の申し出を断った。

 佐野は大給恒(おぎゅうゆずる)らと共に「博愛社」を準備し、
西南戦争の救護にあたった。参加救護員・126人。戦傷者・
1429人が彼らの救護をうけた。5月、小松宮彰仁親王を初代
総裁にした救護団体「博愛社」が成立。10年後の1887
(明治20)年5月20日、日本赤十字社と改称。同年9月2日
に赤十字国際委員会の承認を得て国際赤十字の一員となり、
佐野が初代社長となった。
 一方凌雲は、過去の恨みを克服し、1879(明治11)年
3月2日、貧しい者たちの施療院「同愛社」を設立し、福祉
医療に力を尽くした。仁義、すなわち博愛仁愛の精神を貫き、
徹底したサービスこそが医療の本道と言い切った。凌雲は
1916(大正5)年10月12日、81歳で死亡する。それ
までに60ヶ所の「同愛社」施設で恩恵をうけた人々は、
111万人にのぼった。反骨の任侠医者・高松凌雲は、
近代福祉事業の礎となった。
 

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