近藤勇の愛した名刀「虎徹」というと

司馬遼太郎原作の「新選組血風録」にも出てくる刀、石灯籠切虎徹。

この石燈籠切、というエピソードを生んだのが久貝因幡守の邸宅だった。

モチロン、正典ではない。寛文延宝の頃のご先祖、因幡守正方、という。

納刀したところ、不満の色を浮かべた注文主・正方の様子を見た

長曽祢興里が刀を持ってに庭に出て、松の太い枝を一刀両断にしたところ、

石灯籠まで切り込んだ。

その様子に恐れ入って因幡守が非礼を詫びて刀を収めた、とか

虎徹入道はへそを曲げてこの時久貝家には渡さなかった、など

石灯籠切虎徹のエピソードは色々なバージョンがあって、

真偽のほどはわからない。

 

さて、当代の因幡守正典も旗本随一の刀の収集家であった、

という。

旗本では久貝因幡守正典が、そして大名では井伊直弼が刀剣収集家として

有名であったらしい。

 

安政の大獄で事件には厳しい態度で臨む大老とその配下

として大老の意に添うように処断を進めてゆく正典が

刀剣趣味で繋がっていたということ?

そんな単純なことではないと思われる。

 

 

そもそも、久貝家は井伊家には恩義があるのだった。

2代正俊は家康のお目見えを果たすと2代将軍秀忠の御小姓になった。

関ケ原の戦いで秀忠に従って上田攻めに参加したものの、陣中で何事か

勘気に触れ、そのまま関ケ原へ向かい、井伊直政の手勢として戦ったのだという。

戦いたくてウズウズ、膠着したまま動かない殿、秀忠に業を煮やした?のだろうか。

 

井伊直政の軍勢に加わって存分に戦ったのであろう。

戦後、「秀忠様から勘気を蒙れど、その武功は褒めるべきもの」

と井伊直政が大御所家康に取りなしてくれて、

正俊は処罰を免れた、というのである。

 

 

 

井伊様にはわが祖先恩義がある、夢忘れるな、みたいな事が累代

伝わって、お付き合いも大切にしていたんじゃないか、などと想像する。

文化化政年間の泰平な社会で成長し、大身の旗本らしく、

幕府第一に忠勤に励み、和歌を嗜み、刀剣談義に興じ…、

40を越してそろそろリタイアも見え始めた頃、

正典に「幕末」が始まったのだった。

 

亜米利加合衆国の船近きわたりに来たりと聞きて

 

  君を思ふ心一つしゆるがずは何かたのまむ天つ神風

  いかにせむ夷の船のよるもうし寄らねばたゆむ武夫の道

 

黒船来航で、天地がひっくり返るような騒ぎになったが、

武功を立て家を繋いできた旗本の本分を果たす気概十分である。

 

 

 

妻子を2度失って詠む哀傷歌や絵画趣味からは文系の優男を

思うが、もののふ、という事に強く自負をもち、こだわる人である。

 

  吾はもよ良き太刀得たり西の洋の夷が輩を撃ちてしやまむ

  

名刀を手に入れたその嬉しさは、攘夷へ向かうものだった。

 

来航騒ぎで幕府は老中阿部正弘の下で門閥や家格に寄らず優秀な人材の

抜擢を行い、改革へと動き始める。

緩み切っていた旗本御家人の武芸奨励のため講武場を設置が決まる。

 

正典は大番頭と兼任で講武場の場所決めから関わる奉行の一人となり、

安政2年(1855)

「講武所」と名を変え築地に開所した同所の総裁となる。

 

キャリアを積んだ中年以上の上司はともすれば「保守的」と

みなされて、優秀な若手の反感を買う。

講武所に通った木村摂津守正毅は

正典を「身躯偉大にして才識衆に過絶す」と評しながらも、

「さて総裁はじめ人々は定めて非情の人材なるべけれども、(略)

久貝・池田は名利の念のみすこぶる深く、…」と手厳しい。

 

この間老中阿部正弘が急死する。変わって実権を握ったのが

安政5年大に就任した彦根藩主井伊直弼だった。

それに連動するように正典は「大目付」へ進む。

「名利の念」と井伊直弼の引きが一致したのだろうか。

そして迎えたのが安政の大獄である。

一橋派を追い落とし、勤王の志士を一斉に捕縛し処断し、災禍の元を断つ、

という井伊大老に仕えてその意を汲むこと、

これすなわち忠勤、ご奉公と思ったであろう。

 

 

ほこらかに長太刀はけるしれ者はいたちなき世の鼠なりけり

 

長い刀を差して天下の事を論ずる志士を「しれ者」、「鼠」と

既に大阪在勤中に詠んでいた正典である。

水戸家をはじめとする大物が連座し、大きなうねりとなって幕府を

揺るがし、転覆させようとしている事態、これは幕府の重大な危機、

と思わないはずがない。

 

膨大な調書を読み、詮議し、厳しい処断を下しながら、

250年前の関ケ原の戦場で井伊直政の下

でガンガン戦っていたご先祖と

どこか気持ちが重なったかも知れなかった。 

 

菊池容斎の描いた『呂后斬戚夫人』は故事に因んだ

興味娯楽と鑑賞のための絵であったのが、

この時期はリアルな空気を

纏ってしまったように感じられる。

 

確かに呂后の立ち姿こそ、

井伊大老であり、久貝正典であった。

留守居上席、旗本としては頂点も極めた。

 

そこから3年足らず。

文久2年、久貝正典の心中をよく表している歌がこれである。

 

 久方の空をあふぎて放つ矢の行くへに似たる我が思かな

 

安政の大獄の翌年、桜田門外の変で水戸浪士の手で大老井伊が暗殺された。

事件後、水戸浪士たちの吟味掛は正典である。

 

急転直下の時勢は、立場を逆転させてしまう。

文久2年秋、禄高2000石を召し上げられ、隠居差控えの命を受けた。

大獄での裁きがやり過ぎ、「不当」と処断されたのだった。

 

久貝家のコテツ、虎徹、じゃなくてコウテツ、更迭、である。

 

 

空に向かって勢いよく放った矢は、大きく弧を描いて飛ぶ。

やがて頂点から先、失速して落下していく様を呆然と見る思いは、

この激動の3年足らずに

正典自身に起きた変転そのものだった。

正義とは何ぞや、と悔しく落胆する想いで今一度

あの怖い絵を見れば、今は戚夫人の苦悶の姿に

正典自身が投影されるだろう。

 

家は養子が継ぎ、今後はお勤めに忙殺されて詠めなかった

歌を、そして文化的な生活に価値を見出そうと

気を取り直す正典だが

幕府は元治元年になって「再登板」を請う。

召し上げられた2000石のうち

1000石を復活、再度講武所奉行として復職するのだった。

 

「名利の念のみ深く」と若手に非難された事はあっても

幕府にとってやはり有為な人材であったことは間違いない。

 

 

 

久貝家の菩提寺は巣鴨の龍淵山白泉寺、というので、

日比谷に出たついでにちょいと足を延ばしてみた。

 

都営三田線の西巣鴨駅で降りて、都電荒川線

(いつからTOKYOYトラムなんて

呼ぶようになったんだろう?)

の線路を横切って、線路と並行のお岩通り沿いに歩き、

信号を曲がると白泉寺は看板が見えていて、迷う事もない。

ところでお岩通りというと四ツ谷だと思うのだが、

田宮家菩提の寺妙行寺が移転したのでそれにあやかったそうな。

お岩さんが目的ではないので、そこは行かない。

 

 

私の好きな「如意輪観音」の小さな石像が迎えてくれた。

今はこういう花手水というのが流行よね。きれい!

 

墓地へはお寺の右手から入るが3か寺墓地が混在しているので、

チョットまごつくが、井戸を目安に行くとひときわ大きい石塔ですぐわかった。

 

さすがは5500石、しかもこのお寺の開基は久貝家初代正勝である。

元は江州周知郡田中にあったのが、2代目正俊が江戸へ移転させた。

江戸期に下谷から浅草へ移転し、

明治末ごろに現在の巣鴨に移転したという。

 

この写真だけではピンとこないと思われるが、中央の墓石が正典のもので

ゆうに2メートル越え、と思われる、大きく立派なお墓である。

向かて左は2代正俊の墓。

以前市ヶ谷に長田清三の墓を訪ねた事があったが、禄高も10倍なら

墓の大きさも…?等と思ってしまうほど。

 

この白泉寺は明治になって移転して現在地に来たらしい。

 

藤原姓なのね。

さて、その左側面である。

 

摩滅して判読も難しいが、慶應元年6月、54歳で亡くなる前の辞世の歌が

刻まれている。

 

 せまり来る冥路の使待てしばし公のこと成しはてず

 

グッとくるではないか。

この人が幕末最後の年を生きていたら、

どういう行動に出たのか、とか維新後生きていたらどうしただろう、

きっと『旧幕府』や『史談会速記録』に登場して貴重な

証言をしてくれたのではないか、などと思うのだった。

 

長くなりついでにもう一つ。

正典は養翠と号を持つ歌人だけはなくて、

源氏物語の注釈本「源氏物語評釈」(荻原弘道)出版に

一肌脱ぎ、完成させたという文化への功績のあるお方である。

源氏物語を読みこんで楽しんでいる。

 

寄源氏物語恋 

 かすむよの月にならひておぼろげの契りせよと誰かをしへし

などなど。

 

さすが「鳥の殿様」の孫、教養も深く、

博識で文化への貢献に金を惜しまず。

 

まひろさん、感謝して下さいね。

 

成り上がり者には中々出来ない事、

それは文化、才能に惜しみなく助力をする

だけの資力は勿論、眼力を持つ事であろう。

 

お蔭で菊池容斎の描く傑作は今私たちが楽むことができる。

 

共感するのは

「…あふぎて放つ矢の行くへに似たる我が思い」である。

 

…都知事選挙の行方を呆れて見守る我々の心持ち、である。

 

    引用文献 養翠歌集草稿第4部 簗瀬一雄翻刻 

         (久貝因幡守正典初期歌集 編著札埜耕三)

 

   (江翠)