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ひさしぶりに「日本書紀」に戻りましたヽ(*´∀`)ノ♪


今回から応神天皇です。


3歳で太子になり、アラ古稀で即位、しかも「神功皇后紀」は外国史書と合ってるから二倍年暦は使えないということで、ほんまのおじいちゃんの即位になるのですが、読むとそんなことはなさそうですけどね(^^;)


応神天皇(Wikipediaより)


誉田ホムタ天皇(応神天皇)は、足仲彦天皇(仲哀天皇)の第四子で、、母を気長足姫オキナガタラシヒメ尊という。天皇は、(神功)皇后が新羅を討った年、庚辰カノエタツの年の冬12月に、筑紫の蚊田カダでお生まれになった。


まず、誉田天皇の称についてですが、

岩波古典文学体系の「日本書紀上」の頭注によると、


誉田別ホムタワケ皇子(神功摂政紀)

大鞆和気オオトモワケ命、亦名品陀和気ホムダワケ命(仲哀記)

品太ホムダ天皇(常陸国風土記・播磨国風土記)

凡牟都和希ホムタワケ?ホムツワケ?王(釈日本紀引用上宮記逸文)

胎中天皇(継体紀・宣化紀)

輕島豊明宮御于天皇


と、呼ばれています。


胎中天皇とは伝承的な呼び名なので、継体天皇の頃には、ある程度の伝承が成立していた可能性はあります。


「神功皇后紀」では宇彌ウミだったのに蚊田カダで生まれたとなっています。これを宇美の旧名とするか、別伝ととるかですが、宇美=蚊田という記述がないので、別伝とする方がいいのかもしれません。おそらく神功皇后と応神天皇の原形になった母子神の伝承は、海人族ごとに別々に伝えられていたのが集約されていて、生まれた場所も複数の伝えがあったとするのがいいでしょう。



幼くして聡明で、物事は遠くまで深くまで見通し、立ち居振舞いも見事で、聖人の験が表れていた。

皇太后の摂政3年に、立って皇太子となった。時に年3歳。


平安時代末の安徳天皇じゃないんですから、この時代に3歳で立太子はないのですが、「胎中天皇」ではさすがにない(ヾノ・ω・`)と思って3歳になったのか……


どちらにしろ、かなり伝説的です。


ということは、いくら「三国史記」と記事が符合していても、それをこの母子の時代に、この母子が倭の代表として外交にあたったと考えるのは慎重にならざるを得ませんね(;^_^A


継体天皇にとって、自分の祖先は胎中で天皇として君臨した、という認識であったけど、

それが歴史編纂の過程で、第15代の天皇に位置付けられたという可能性を

「胎中天皇」という呼び名が示しているのです。(現れるのが応神天皇を祖とする継体・宣化天皇ということもそれを示唆しているように思います。)



初め天皇は、母后のお腹にいるときに天つ神国つ神が三韓を授けた。生まれた時には、上腕に肉の塊があり、その形は鞆ホムタ(武装の時に腕につける防具)のようだった。それは神功皇后が武装した時の姿をお写ししたようであった。それで御名を讃えてホムタの天皇と申し上げる。上古の時代の風俗で、鞆トモをホムタといったのである。


これは「古事記」では、


また息長帯比売命こは大后なりを娶して生みましし御子、品夜和気ホムヤワケ命、次に大鞆和気オオトモワケ命、亦の名は品陀和気ホムダワケ命、二柱。この太子の御名に大鞆和気命と負はせし所以ユエは、初め生アれましし時、鞆の如き宍シシ、御腕に生ナりき。かれ、その御名に著ツけまつりき。ここをもちて腹中ハラヌチに坐マして国を知らしめしき。


とあり、鞆をホムタという例が他にないので、「古事記」の亦名にする方が道理が通っていそうです。

「日本書紀」の編者は異伝もめちゃくちゃ書き留めるので、この辺りは採択した史料が違って、腕に肉が付いてたという伝承のみが「日本書紀」編纂局にあり、

大鞆和気の名の史料がなかった、ということでしょう。


ということは、

編纂時には、ホムダワケとオオトモワケはすでに同一視されて久しく、オオトモワケの名前はほとんど忘れられていた、ということかもしれません。


これは神功皇后伝承の成立を、少なくとも7世紀前半以前と考えるべきではないか、もっと大胆に推測して、継体天皇の祖先伝承に関わるのではないか、

ということもできます。


また、神功皇后伝承や忍熊王の叛乱は「古事記」「日本書紀」の大筋には違いがないのですが、

ここで持っている史料が違うとなると、やはり伝承の成立が早く、

これを書いたときには、原「古事記」の編者がすでに下野していたという推論も成り立ちます。


これは応神天皇と仁徳天皇の逸話が、

「古事記」「日本書紀」において混乱していることも、傍証となるでしょう。


神話の時代は「古事記」と似た伝承が一書に入っていたのに、また神武天皇~欠史八代も「日本書紀」の「一云」と「古事記」の一致などもあったのに、

崇神天皇以降は話が違う箇所が増え、

ヤマトタケルに至っては印象が全く違うようになります。


「古事記」の編者が、国史編纂局にいたのに、途中から袂を別ったというのが、わたしの見方ですが、

ここでも解離がはっきりしてきます。



一に云わく(別伝)

「初め天皇は太子になって、越コシの国へ行かれ、角鹿ツヌガ笥飯ケヒ大神をご参拝された。時に、大神と太子は、名を互いに換えて、それで大神を去來紗別イザサワケ神と申し上げ、太子の名を譽田別ホムダワケ尊とされた。」という。そういうことであれば、大神のもとの名は譽田別の神で、太子の元の名が去來紗別尊ということになるが、それについては資料に見当たらないので、未詳である。


これも「古事記」に


かれ、建内宿禰命、その太子を率イて、禊ミソギせむとして淡海オウミまた若狭ワカサ国を経歴し時、高志コシの前ミチノクチの角鹿に仮宮を造りて坐マさしめき。ここに其地に坐す伊奢沙和気イザサワケ大神の命、夜の夢に見えて、

「吾が名を御子の御名に易カへまく欲ホし」と云りたまひき。ここの言祷コトホぎて白モウさく、

「恐カシコし。命ミコトノリのまにまに易へ奉らむ」とまをしき。またその神詔ノりたまはく、

「明日の旦アシタ、浜に幸イデマすべし。名を易へし幣ヌサ献らむ」とのりたまひき。

かれ、その旦 浜に幸イデマしし時、鼻毀ヤブれたる入鹿魚イルカ、既に一浦に依ヨりき。ここに御子、神に白モウさしめて云ノりたまはく、

「我に御食ミケの魚ナを給ひき」とのりたまひき。

かれ、またその御名を称へて御食津ミケツ大神と号ツけき。かれ、今に気比ケヒ大神と謂ふ。またその入鹿魚の鼻の血臭かりき。かれ、その浦を号けて血浦チヌラと謂ひき。今は都奴賀ツヌガと謂ふ。


要は太子と名を替えようと神託したあとに、鼻を傷つけられたイルカが浜に集まっていたので、

「神より食料を賜った❗おねがい」と、

応神天皇が「御食津ミケツ大神」と名付けたというものので、


ナ(菜=おかず)と「御食津大神」のナ(名)を交換したという話がもとかと……


これも詳しい史料が「古事記」編者の手にしかなかった?んー?まさかやめる時に持ち出したんじゃなかろうかなんて( ̄▽ ̄;)


まあこのように「日本書紀」の編者さんは、時々悩みます。「日本書紀」は作り話とよく批判されるけど、真面目に作ってるんですよ~(^^;)



攝政69年夏4月、皇太后=神功皇后は崩御された。時に年は百歲。

(二倍年暦は使えない神功皇后紀なので、これは卑弥呼の遣使に近づけるための苦労の跡ですね。)


(応神天皇)元年春正月1日、皇太子は即位された。是の年の太歲は庚寅カノエトラ。


2年春3月3日、仲姫ナカツヒメを立てて皇后とする。后は荒田皇女・大鷦鷯オオササギ天皇(仁徳天皇)・根鳥ネトリ皇子をお生みになった。


これより先、天皇は皇后の姉の高城タカキ入姫を妃して、額田大中彦ヌカタノオオナカツヒコ皇子・大山守オオヤマモリ皇子・去來眞稚イザノマワカ皇子・大原皇女・澇來田コムクタ皇女を生む。


又、妃で皇后の妹の弟姫は、阿倍皇女・淡路御原皇女・紀之菟野ウノ皇女。(この次に「記」に三野郎女)


次に妃、和珥ワニ臣の祖日觸使主ヒフレノオミの娘、宮主宅ミヤヌシヤカ媛、菟道稚郎子ウジノワキイラツコ皇子・矢田ヤタ皇女・雌鳥メドリ皇女を生む。

次に妃、宅媛妹の小甂オナベ媛、菟道稚郎姫ウジノワキイラツメ皇女を生む。


次に妃、河派仲彦カワマタナカツヒコの娘、弟媛は、稚野毛二派ワカノケフタマタ皇子を生む。


次に妃、櫻井田部連サクライタベノムラジ男鉏オスキ之妹、糸媛は、隼総別ハヤブサワケ皇子を生む。


次に妃、日向泉長ヒムカノイズミナガ媛、大葉枝オオハエ皇子・小葉枝オハエ皇子を生む。


およそこの天皇の皇子・皇女はあわせて20王である。(「記」の三野郎女を加えると20人)


皇子女はまたまた「横道」で、まとめて説明致しましょう。


根鳥皇子、是は大田君の始祖である。

大山守皇子、是は土形ヒジカタ君・榛原ハリハラ君、およそ二族の始祖である。

去來眞稚皇子、是は深河フカカワ別の始祖である。



三年冬10月3日、東の蝦夷エミシが悉く朝貢した。そこで蝦夷を使役して厩坂道ウマヤサカノミチを作らせた。


11月、所々の海人が、訕哤サバメキ(騒動?)して命令に従わなかった。すぐに阿曇アヅミ連祖大濱宿禰を遣わして、その訕哤サバメキを平定した。よって安曇連を海人の統括とした。それで世の人が言い慣わして「サバアマ娑婆海人=周防の海人?」というのは、この由縁によるのである。


この次の次に、海人部と山守部の設置が出てくるので、その前提でしょうが、

安曇氏はもともと海人族で、これは周防スオウ(山口県南部)の海人を指すサバアマの語源だとして作られた話だと思われます。



この歲、百済の辰斯王が立って、貴い国の天皇に礼を尽くさなかった。そこで紀角キノツノノ宿禰・羽田矢代ハタノヤシロノ宿禰・石川宿禰・木菟ツクノ宿禰を遣わして、その不敬について責め立てた。これによって、百済国は辰斯王を殺して深謝し、紀角宿禰等は、阿花を立てて王而として帰国した。


辰斯王についてWikipediaに


『三国史記』によれば、385年乙酉11月、先代の枕流王が薨去したときに太子(後の阿莘王)が幼かったために、辰斯王が王位についたとある。『日本書紀』では神功皇后摂政の乙酉年、『百済記』の引用として「枕流王の薨去の際に王子の阿花(阿莘王)が年少であったので、叔父の辰斯が王位を簒奪した」とある。


とあり、また治世について


386年春には、15歳以上の国民を用いて関防(防衛用の長城)を築かせて北辺の高句麗に備えるとともに、同年夏には東晋から<使持節・都督・鎮東将軍・百済王>に封じられ、百済の伝統である「東晋から百済の連携で高句麗に対抗しようとする態勢」は整えられた。しかし、390年9月までは高句麗への侵略は成功しているものの、391年以降は高句麗・濊貊(三国史記が表記する所の靺鞨)の進入を受けて敗戦を続けた。特に392年に高句麗の広開土王が4万の兵を率いて侵略してくると、漢水(漢江)以北の諸城はほとんど高句麗に奪われることとなった。 


と、伝説的に強かった広開土王=好太王に当たっちゃったもので、かなり厳しい状況におかれました(O.O;)そして……


高句麗に漢水以北を奪われた後、在位8年にして392年壬辰11月、薨去した。『三国史記』百済本紀・辰斯王紀では、狗原まで田猟に出て翌月になっても帰らず、狗原の行宮において薨去したと記す。


ということで、辰斯王の采配に不満がたまった百済の貴族層が、クーデターでも起こしたか、殺されたかということが考えられるのですが、さらに「日本書紀」のこの箇所については、


『日本書紀』の「失禮於貴国天皇」の「失禮」とは、倭に反して高句麗に通じたことであるとされる。


という見方もあるようで、392年が応神天皇3年になるのですが、

いよいよ国際情勢に影響を持つようになります。


5年秋8月13日、諸国に命じて、海人および山守部を定めた。


これは上の記事の続きになります。


いよいよ日本(倭)も東アジアの歴史に絡んでいくのですが、国内でも変革が起こらざるを得ず、5世紀は国際関係と国内動乱の時代になります。


次回もまたご訪問いただきますよう、お待ちしております。