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前回のように北部九州沿岸の国々は、大和王権に恭順し、仲哀天皇や半島進出に理解を示す葛城氏も取り込んで、外征派ともいうべき政治勢力を形成したということですが、

仲哀天皇が外征を考えていたのではないかというのは、出発の地が木材の豊富な紀伊であることから推察できるのですが、さりとてこの一連の戦いが、2、3年でできるわけがないので、その辺は「神話」だということは改めて申し上げたいと思います。


タラシナカツヒコやオオタラシヒメはあくまでも「神話」の登場人物で、本当は何年もかかって、周辺の国々を懐柔し、征討し、百済と同盟し、高句麗とも戦ったと思われます。

北部九州の国々に偉大なる女王の記憶があり、また海の女神の御子生みの伝承があったからこそ、オオタラシヒメの伝承が生まれ、実際に亡くなった大王の未亡人に結集することもあったとしても、

それは、「日本書紀」の通りに史実が進んだいうわけではありません。


「日本書紀」の記述には後世の事情も多く反映されています。


次は外交記事ですが、いわゆる「三韓征伐」といろいろ齟齬が出てきます。


「好太王碑」によれば、4世紀の倭は高句麗と互角に戦っていた百済と結び、当時できたてだった新羅を占領したので、新羅が高句麗に助けを求めて高句麗と激しく戦います。


でも、次の話では新羅がいじめっこです(^^;)

なんでかというとこれはもう飛鳥時代に新羅にやられて(白村江の戦い)

トラウマになってるんですねw

「日本書紀」は的はずれではないけれど、後世の影響はめちゃめちゃ多いということです。


では一気に読んでみましょう。


46年春3月1日、斯摩シマ宿禰を卓淳トクジュン国に遣わした。斯麻宿禰は何の姓の人かわからない。

そこで、卓淳王コキニシの末錦旱岐マキムカンキは斯摩シマ宿禰に

「甲子カノエネ年七月のうちに、百済人久氐クテイ・彌州流ミツル・莫古マクコの三人が、我が国に来て

『百済王は、東方に日本という貴カシコキ国があると聞き、家臣を遣わして、その貴国に朝貢させようと思う。そこで、行く道を求めてこの国に着いた。もし臣下たちに行き方を教えて国交を開けてくれるなら、我が王は必ずや王に報いるであろう。』といった

その時、久氐等には

『本より東に貴国=日本があるのは聞いている。しかれどまだ国交もなく、行き方もわからない。ただ海は遠く浪は険しく、大船に乗れば、どうにか至るともいう。もし道路や港があっても、どうやってたどり着けるだろう?。』というと、

久氐等は

『それならば、今は通うことはできないのか。それでは百済に帰って船舶を準備してからにしよう。』といい、

『もし貴国の使が来たら、必ず我が国に教えてください。』と言って帰りました。」と告げた。



そこで斯摩宿禰は、従者の爾波移ニハヤと卓淳の人の過古カコの二人を、百済国に遣わして其王を慰労した。時に、百済の肖古王は、深く喜んで厚遇した。そして五色彩絹を各一匹、及び角製の弓矢・ならびに鉄鋌(鉄の延べ板)40枚を爾波移に与えた。そしてまた宝蔵を開け、諸々の珍宝を示して

「吾が国にはたくさんの珍宝があります。貴国に貢ぎたいのですが、行き方がわかりません。志しはありますが、うまくいきません。けれどももし今、使者のかたに託して献上いたします。」と言った。


そこで爾波移ニハヤは、その意を奉じて帰り、志摩シマ宿禰に報告した。そして卓淳から帰還した。


三韓征伐で臣下となったはずの百済が、日本の事をよく知らなくて「聞いたけど……」という不思議な現象w


肖古王は百済に二人いるのですが、第13代にあたる近肖古王(~375)が中国史料や日本史料に初めて見える百済の王なので、

実質的な百済の初代とする研究もあり、

近肖古王を指すと考えてよいでしょう。


Wikipediaより

同じ肖古王と仇首王の親子がいて、区別のために後ろの方を「近肖古王」「近仇首王」と言います。日本でいう「後」白河院、「後」鳥羽院みたいな感じ


こちらの記事は具体的なので、事実かどうかはともかく、何かしら史料が参考にされていそうです。



47年夏4月、百済王は久氐クテイ、弥州流ミツル、莫古マクコを遣わして朝貢した。


そのとき、新羅の国の朝貢の使者が久氐と一緒にやってきた。

皇太后=神功皇后と太子の誉田別ホムタワケ尊は、大いに喜んで、

「先王の望んでおられた国の人が、いま参上した。御代に間に合わず残念であった。」とおっしゃった。

群臣は皆、悲しまない者はなかった。


え?三韓征伐の話だと「先王=仲哀天皇が信じなかった国」じゃないのか?と突っ込みたくなりますが(゜゜;)\(--;)

こっちの肖古王の話が先に書かれたんじゃないでしょうか?

仲哀天皇はやっぱり外征派かも(^^;)



そこで二つの国の貢物を調べると、

新羅の貢物は珍しい物が多かったが、百済の貢物は少なく、貧相で良いものはなかった。

そこで皇太后は久氐に

「百済の貢物が新羅より良くないのはなぜか?」と尋ねられた。


彼らは

「私共は道に迷って『サヒ新羅』に至りましたが、新羅人は私共を捕えて牢に監禁し、三月たつと殺そうとしました。


その時久氐らは天に向って呪いました。新羅人は その呪いを怖れて殺さずに、我々の貢物を奪って、自分の国の貢物とし、新羅の貧相なものを我が国の貢物として、

『もしこのことをばらせば、還ってきた日にお前らを殺してしまうぞ。』と言いました。それで久氐らは恐れて従ったのみです。こういうわけでやっとのことで日本に着いたのです。」と言った。


皇太后と誉田別尊は新羅の使者を責めて、天津神に祈って、

「誰を百済に遣わして嘘か本当か調べさせましょうか?誰を新羅に遣わして、その罪を問わせたらよいでしょうか?」と申し上げた。


すると天津神が教えて、

「武内宿禰に会議をさせよ。そして千熊長彦チクマナガヒコを使者とすれば、常に願いのようになるだろう。」と仰せになった。千熊長彦ははっきりその姓がわからない人である。ある書によると武蔵国の人で、今の額田部槻本首の始祖だという。「百済記」に職麻那加比跪シクマナカヒコというのはおそらくこの人か?


それで千熊長彦を新羅に遣わし、百済の献上物を穢し、乱したということを責めた。


「百済記」というのは残ってなくて、「三国史記」という朝鮮の史書とも「日本書紀」とも内容が合わないので、これはこれで謎の史料なんですが、ここで外国史料と一致する人名が(^^)


シマノスクネもチクマナガヒコも姓が伝わっていないのですが、氏姓制度が整うのは6世紀と言われていますので、こっちの方が正しいっちゃあ正しいです。



49年3月、荒田別アラタワケと鹿我別カガワケを将軍とした。

そして久氐らと共に兵を整えて卓淳国タクジュンコク(半島南部の小国)に至り、まさに新羅を襲おうとした。


その時ある人が、

「兵士が少なくては新羅を破ることはできない。もう一度沙白サハク、蓋盧コウロを参上させて増兵をお願いしろ。」と言った。

木羅斤資モクラコンシ、沙沙奴跪ササナコこの二人はその姓がわからない人である。但し木羅斤資のみは百済の将軍である。に命じて、精兵を率いて沙白、蓋盧と一緒に遣わした。

ともに卓淳国に集まり、新羅を討ち破った。


卓淳国は半島南部、加耶(弁韓)あたりにあった国のようです。

木羅斤資モクラコンシは百済の有名な姓氏ですから、このあたりは何か出典があると思われます。

沙白、蓋盧も日本人とは思えません。

こき使っていますが、増兵をお願いするということは、加耶(弁韓)あたりの小国の王様でしょうか?


「好太王碑」では百済と倭は同盟関係なので、そこは矛盾しませんね。


百済から国交を求めてきたというのは、当時百済が高句麗と戦っていたので、まずは後顧の憂れいを断って、あわよくば援軍を……ということでしょう。


倭は百済と組んで、新羅の王城を占拠していたらしいのは「好太王碑」で明らかですから、そういう状況かと思われますが、高句麗に負けたことは出てきませんね(^^;)


そこは目をつぶってやるとしてw百済と日本の関係の始まりとしてはわりと事実に近いですが、

当時の百済は急成長して、高句麗と戦って勝つこともあったのに比べると、

新羅はまだ弱小でしたので、

ここまで新羅を悪者にするのは後世の潤色です。


またこの記録を見ると、三韓征伐の記憶が抜けているのでw

三韓征伐はやはりあとで入ってきた物語のようです。

香椎神宮や住吉大社の伝承があったところに、白村江の戦いの時の斉明天皇の筑紫出兵を受けて入れ込まれたというのは、まあそんなところでしょう。


こちらの話の方が、仲哀天皇の立場もちゃんと把握しているように見えます。



比自㶱ヒシホ・南加羅カラ・㖨国トクノクニ・安羅あアラ・多羅タラ・卓淳トクジュン・加羅カラの七つの国を平定しました。

兵を移動させて西に回り、古爰津コケイノツに到着し、南蛮の忱彌多禮トムタレ=済州島を屠り去り、百済に与えました。


この南蛮は「百済から見て」南の野蛮な国という意味です。あっちの史書を見てるのかな?


ここで百済の王肖古ショウコオウ王、及び王子の貴須クルスは、軍を率いて参上した。その時比利ヒリ・辟中ヘチュウ・布彌支ホムキ・半古ハンコの四つの邑は自然と降服した。


ここをもって百済王の父子及び荒田別・木羅斤資等は、共に意流村オルスキで会った。今、州流須祇ツルスキという。

お互いに会って喜び、厚く礼をもって送ったが、ただ千熊長彦と百済王は、百済国の辟支山ヘキノムレに登って誓い、また古沙山コサノムレに登って共に磐の上に座り、百済王が

「もし草を敷いて座とすれば火に焼かれる恐れがあり、木を取って座とすれば水に流される恐れがある。それゆえに磐に座って誓うということは永久に朽ちないだろうということを示す。

ここをもって今より後は、千秋萬歲チアキヨロズヨに絶えること無く終わること無く、(百済は)常に(日本の)西蕃として、春秋に朝貢いたします。」と誓った。


そして千熊長彦を都に連れていって、厚く礼をもって遇し、また久氐等を付けて送った。


肖古王の王子の貴須クルスは、第14代近仇首王(375~384)です。

「梁書百済伝」の百済王「須」にあたる王です。


このあたりの事情は継体天皇2年の条に対応していて、継体朝の反映だと指摘されています。

日本を持ち上げていますが、

当時百済が高句麗と戦い、倭が援助していたのは、やはり中国王朝への道を開くことと、

あとは馬韓経由の貿易が残っていて、お互いに貿易相手としての必要性があったのだと思います。


これ以来、倭は百済と深い縁を結んで、その滅亡まで運命を共にしていきます。


50年春2月、荒田別等が帰ってきた。

夏5月、千熊長彦と久氐等は百済より到着した。

皇太后はそれに喜んで、久氐に問うて

「海の西の諸々の韓人の国は、すでに汝の国に賜った。今何事があって頻繁に通うのか?」とおっしゃった。

久氐等は奏上して

「天皇の恵みは遠く我が国に及んでおります。我が王は喜びに小躍りして心を隠すことができません。それゆえに返礼の使いとして誠をお示しいたすのです。萬世に至るといえども、朝貢しない年はございません。」と申し上げた。


皇太后は勅して

「汝の言葉はありがたい。それは私の思うところでもある。」とおっしゃった。

多沙城タサノサシを百済の領地に加えて、帰路の驛ウマヤとなさった。


ずいぶん漢文風の修辞で誉めていますが、こういうのは「日本書紀」のクセなので(^_^;)無視w


多沙城は教科書に載ってる「任那四県割譲」にあたる場所で、継体朝の反映ですが、そこまでは日本領だったはず?



この後も「神功皇后紀」はこういう風に百済との関係が続きます。


日本>百済は「日本書紀」の立場上の修飾なので、日本=百済の対等な関係で読んでくださいね(^^;)


次で「神功皇后紀」は終わる予定ですが、奈良県天理市の石上神宮に実在し、教科書にも出てくる「七支刀」が登場するので、検証がややこしいよな~(´-ω-`)


今回はここで切って七支刀の問題は次回にいたします。



これからは教科書で見たことある話も出てきますので、ぜひ続けてご訪問くださいませ。