咎人は百姓女のようだが、眼差しで吟味方与力を見て答えた。化粧気の全くないやつれた表情のためか老いさらばえて見えるが、かつては美形であったろうと思われる風情の女だった。凛とした物腰に立ち会いの牢役人たちも感心した様子で女を眺めた。
「ふむ。咎人青茶婆、在所は江戸大川端霊厳島、宿船興津屋を営んでおった。それで間違いないな」
「はい」
「歳はいくつだ」
「五十になります」
無粋なこと訊くといった風で吟味方与力を胡乱な眼差しで見たので、仁科又右衛門はむっとしたが、思ったよりも歳が行っているのに吃驚したようだった。肌艶や表情から見て歳の頃は三十代か四十代前半くらいと思っていたようだった。
入牢証文の審査が終わると、女は目明し風の大男から牢屋同心に引き渡された
。立ち会いの仁科又右衛門が連れて行くよう牢屋同心に命じると、同心が女を西口揚屋に引き立てて行った。その後姿を見送りながら、又右衛門は目明しに近づいて声をかけた。
「六郎太、御苦労だった」
「どういたしやして」
「大手柄だったぞ」
「随分苦労させられやした」
「大変な捕物だったようだな。まあゆっくり骨休めしろ」
大男は踵を返すと、肩をそびやかし、首を振りながら牢屋敷から出て行った。

女は牢屋同心に促されて西口揚屋に入って行った。揚屋の中は汗と埃のすえたような臭気が漂い、高いところにある小さな窓という窓は格子がかかっており、暗い建物の内部を行灯が照らしている。小伝馬町牢屋敷の牢獄は東牢と西牢に分かれており、さらに身分によって収容される牢獄が分れていた。男の咎人の場合、御目見以上すなわち旗本以上の幕臣、身分の高い僧侶、神主等は独房の揚座敷に、御目見以下すなわち御家人以下の幕臣、大名の家臣、僧侶、医師、山伏等は揚屋に、庶民は有宿者大牢に、無宿者は二間牢に入れられた。一方、女の咎人の場合は、身分の別なく西牢の揚屋に収容された。
西口揚屋で女は同心の手から鍵役の看守に引き渡された上、女囚牢に連れて来られ、そこで縄を解かれた。一人の老婆が牢格子につかまりながら、物好きそうな目で薄ら笑いを浮かべつつ新しい入牢者を見ている。ヒッヒッヒという薄気味悪い笑い声が聞こえた。
背をかがめて潜り戸を通って牢の中へ入った青茶婆が中を見渡すと、そこには十人ほどの女囚がおり、皆値踏みをするような目で葵を見つめていた。奥で畳五枚を重ねて座り、煙管を燻らせているのが牢名主であろう。看守が去ると、女囚の一人が青茶婆を奥へ促しながら言った。
「ほら、新入り、名主様に挨拶するんだよ」
青茶婆が奥へ行って膝をついて挨拶すると、牢名主の女はにこりともせずに言った。
「西口揚屋へようこそ。名は何てんだい」
「青茶といいます」
そこで初めて牢名主の女は意味ありげな笑顔を見せた。
「変な名前だね。でもあんた本当の名前は葵ってんだろ」
女は黙っていた。すると牢名主はなおも言った。
「葵って名なら聞いたことがあるよ。江戸中に名を轟かせた子供殺しだってね」
女はまだ黙っていた。
「川越近くに逃げていて捕まったそうじゃないか。逃げるんで青茶なんて名前にしたんだろうが、甲斐なかったね」
すると牢格子につかまっていた先程の老婆が女の側ににじり寄ってきた。歯の抜けた気味の悪い中年とおぼしき女だった。自分よりずっと老けて見えるが、案外若いのかもしれない。
「ヒヒ、青茶婆だろ。知ってるよ。子供殺しだって。それも何人もね。随分罪なことをしたもんさね」
青茶婆が黙っていると、さらにその女は言った。
「ヒッヒッヒ、まあ、獄門打首は逃れられないね。これだけ世の中騒がしちゃ、ただじゃ済まないさ。市中引き回しだろうね」
青茶婆は気がふれているのかと思って無視していると、まだその女は喋り続けた。
「何だよ。自分がやったんじゃないとでもいいたいのかい。だめだめ。皆そう言うのさ。あたしだってそう言いたいよ。でももうじき、これさ。あんたも同じだよ。ヒーッヒッヒ」
そう言って女は自分の首を手刀で横に切って見せた。確かに気がふれているんだろう。こんな場所に入って死罪を申し付かったら誰でもそんな具合にもなろうと女は思った。

その夜、鍵役の看守がやってきて、女は出ろと命じられた。穿鑿所で取り調べを受けるのかと思われたが、入牢したその夜というのはあまりにも急である。牢役人たちも揃わなかろう。女囚たちも、また、命じられた女自身もいかなる雲行きかと訝ったが、青茶婆は看守に引き立てられていった。西口揚屋の女囚たちはやってきたと思ったらたちまち連れて行かれてしまった新しい囚人を呆気にとられたように見送った。
「女囚牢はこの西口揚屋しかないはずだよ」
「折角なかなかいい女が来たと思ったのに、何だい」
西口揚屋の女囚たちは、間もなくなぜ新入りが着て早々に出て行ってしまったのかを知った。女囚の一人が馴染みの看守から聞きだしたところによると、その女はこの牢屋敷の牢医見習いの母親で、入牢を聞いて駆けつけた牢医に呼び出されたということだった。女囚たちは口々に噂した。
「牢医見習いって誰のことだろう」
「わかった、金創医の虎松じゃないか。あの青茶婆は虎松の母親なんだよ、きっと」
「虎松が口を利いて、この蛸部屋から移させたってことかい」
「小癪なことするね」
「そういや、さっきの女、虎と似てるかもね」
「あの外科の虎松先生のか」
「前途有望と思っていたのに、とんだ母親持ったもんだね。気の毒に。末は千賀道隆先生と同じ昇り竜かと思っていたのに」
「何しろ千賀先生ときたら、ここの牢医から上様のお脈を取る御殿医にまで御出世なさったんだもんね。でもそんな母親がいちゃあ虎はだめね」
どうせ元々だめさ」
「なぜだい」
「ほら、何しろ虎は出が出だから」
「ああ、そうさね。爺さんと一緒に浅草弾左衛門屋敷に住んでるんだっけ」
「あの母親もそれかな」
「大川端で船宿をやっていたってことだけど、元は河原者上がりらしいよ」
「なるほどね。そんなところさ」
「いい女だと思ったのに惜しいことをした」
「あんたの考えることはそればかりかい」
「どっちが」

虎松は、母の逮捕に衝撃を受けていた。祖父の長屋にいた虎松は、その知らせを受けると小伝馬町の牢屋敷に飛んで行った。母の入牢を改番所の入牢者帳簿で確認すると、早速独房牢に移すよう手続きを踏んだのは虎松だった。
入牢してから一刻も経った頃、虎松は母が入った独房へやってきた。看守に鍵を開けて貰い、中へ入った虎松は母と対面した。看守が当番所へ下がると、葵は息子の手を握った。