残虐な犯罪、理不尽な事件が起こり、「許せない」という文字が紙面、ネット上に躍るたびに立ち返るのは、「救うために裁く」という司祭様の教えです。
愛する人を守るために人を殺め、その上「助けることができてよかった」と喜ぶかもしれない自らゆえに何年経っても心に残るおことばなのでしょう。
「許せない」――
もしも愛する人が犠牲になったとき、果たして私たちは極刑を望まないと言い切れるでしょうか? 故人と同じ苦しみを味わってほしいと願うこと、或いは復讐したいとの念に燃えることがないでしょうか…
江戸時代、犯人を地に埋め、通行人に鋸で地上に出ている首を挽かせる鋸引きという刑があったそうです。もしも罪の報いとして、できるだけ時間をかけて刑を執行することが許されるなら、毎日、苦しむ犯人の傍らにしゃがみ込んで首を挽き続けることは私たち自身をどこへ連れていくのでしょう…
「許せない」という自然の、自らの裡にいつ芽生えるかもしれない感情を認め、同時に「許せない私を赦してください」と主に乞い願う者でありたいと願います。「救うために裁く」ことが私たち自身が救われる道であるとの教えを心に留めて。自らの再生の日はあると信じて。
ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」
(ヨハネによる福音書1: 29)
徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
(ルカによる福音書18:13)
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
(マタイによる福音書9:13)
