「一人暮らしは孤独だと言われるけれど、それを体験してみたいの」
農村地帯にある保養所で、すぐ横にいらしたお二人連れの老婦人のことばが今も心に残っています。大家族の中でご自身の時間を持つことなく、責務を果たし続けてこられたのかもしれません。
孤独にも種類があるのでしょう。
挨拶だけでもよい、人とことばを交わしたい、という孤独
自らの思いが理解されない、或いは心の重荷を預ける人がいない孤独
自分の存在の基盤がないような孤独
しかしそれらとともに、独りであっても寂しくない時間、自らの心の底に降り、ありのままの自分へ、或いは家族や社会でのいつか手放す役割から自由な、還るべき基準線へ立ち戻ろうとする「孤独」を私たちは喘ぐように求めるのでしょう。
小犬を連れて散歩に出た時のことです。公園の木陰にちらりと人影が見えましたが、相手の方も私たちを認められたのかもしれません、荷物をまとめていらっしゃるようです。
小さな公園です。束の間の休憩、おひとりで時間を過ごされたいのかもしれません。私たちを見かけての出立ではありませんようにと願いながら、そのまま道路を行こうとしましたが、小犬は公園へとリードを引っ張り、立ち上がられた方の傍らへと真直ぐに進みます。
「まあ、珍しい。滅多に人に近寄らないのです」
小犬に従いながらご挨拶すると、その方の思いもよらない言葉に胸を衝かれました。
「私なんかのところへ…」
人好きで、しかしどのようにしてわかるのか、必要とされる方に近づいていった先代犬。初めての屋内飼いで間違ったこともたくさんしたでしょう、そんな「私なんかのところへ来てくれた」は、小犬が逝って、やがて「そんな私たちだから来てくれた」へと変わりました。
先代犬とそっくりの瞳をした元保護犬は家族以外の人や犬が苦手ですが、時折のこのような経験を重ねて気付かされます、この子も必要とされている方がわかるのだと。
主の慈しみを携え、ことばを使わず愛を伝えようとする、守護天使のような小さないのち。
犬を介して私たちは束の間の交流を持ち、その方はお仕事へ戻られました。
孤独と交流を行き来しながら、私たちは地上を旅するのでしょう。
「一人暮らしは孤独だと言われるけれど、それを体験してみたいの」
「私なんかのところへ…」
その時は痛みを持ってお聞きしたことばは年月を経て、その内なる輝きによって心の宝石となりました。
そして気づかされます、たとえ今、目の前にいらしてもわからない美しい方々のしあわせを祈るとき、主の祝福に包まれ、私たちは一つだと…
それゆえ、わたし(神)は彼女をいざなって
荒れ野に導き、その心に語りかけよう。
(ホセア書2:16)
父(なる神)よ、あなたがわたし(イエス・キリスト)の内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。
(ヨハネによる福音書17: 21)