2022年3月25日 9時5分 

母は静かに息を引き取りましたおばあちゃん

 

母は5人の子どもを産み、育てました。

上の4人はほとんど年子、

よく「膝があるから育てられた」と言っていました。

 

 

昔の写真をめくってみるととても素敵なお嬢さんで、

本当に私の親ですか??笑爆  笑

というプロマイドのような写真が出てきました。

両親にとても大切に育てられてのでしょう。

 

 

そして、山登りをしたり、スキーをしたりと活動的な面と

茶道をしたり、お琴をしたり、パッチワークをやったり、

女性的な部分もたくさんある母でした。

 

 

結婚をしても大切にしてもらったようですが、

大切に育てられすぎて、初産の私の重さは4120g!!

あの小柄な体からよくぞ生まれてきましたびっくりびっくりびっくり

 

 

自営業の家に嫁いだので、

祖母が亡くなってからは昼夜逆転の夜から朝方にかけて

食品製造の仕事を手伝っていました。

とても大変だったと思います。

 

 

 

自営業をやめるまで随分と頑張って働いていました。

そして仕事を辞めたら、旅行に行きたいと言っていました。

 

 

でもその夢もほとんど叶わず、

今度は父の介護に明け暮れることになります。

父は、前立腺肥大とパーキンソンでした。

 

 

その頃の母の言葉を見ると 思うようにいかないこともある、

それでも流れに任せるしかない、

そんな言葉が書かれていました。

 

そのうちに自身の物忘れが始まり、

13年前には認知症の薬を飲み始めました。

 

 

薬を飲み始めて10年弱は、

薬が効いているような効いていないような。。。

よくなることはなく、

少しずつ徐々に進行はしていきました。

 

 

3年前、認知症の症状を少しでも改善させようと始めた非薬物療法、

とても良かったですが、家族の連携がとても難しいものでした。

 

 

でも、蒲田まで通った1年半は

母との濃密な思い出深い時間になりましたおねがいキラキラ

 

 

そして、今のお医者さんに通い始めて1年3ヶ月、

糖質制限をしたり、サプリを摂ったり、

とてもよく診ていただきました。

 

数ヶ月前からクリニックに通うのにも

電車に乗ることが難しくなってきました。

私たちなら、家から約5分で駅に着くところを

母とは30分以上かけて駅まで、歩いていきました。

 

 

最期、訪問医もそちらの先生になってもらいました。

 

数ヶ月前から寝ることも多くなってきていて、

 

3月10日辺りから、

デイサービスでも食事を摂らなくなり、

3月13日 もしかしたら、危ないかもしれないと 

妹夫婦に救急センターへ連れていってもらい、

そのまま誤嚥性肺炎で入院。

 

5日間の入院の間、点滴で栄養を摂り、

18日の雨雨の中、退院。

 

介護ベットを入れ、

家では栄養を入れずに看取る方向にしました。

毎日、ヘルパーさん、看護師さん、先生に

入れ替わり立ち替わり、訪問していただき、

体をきれいにしてもらいました。

 

 

 

亡くなる2、3日前、

認知症の時には考えられなかった位に 

母の脳がクリアになって、

沖縄の妹と電話をしたり、

私たちの話にもウンウンと目を見て

返事をしていました。

 

 

数年ぶりに母と目が合い、

妹も感動していました。

わたしたちが小さい頃の話にっこり

自分がよく作っていた料理の話焼肉

そんなことに何回も頷いて話を聞いていました。

 

 

その次の日には意識は遠くなっていき、

返事は無くなりました。

呼吸もだんだんと弱くなっていきました。

 

 

 

そして、私と妹が朝の連ドラを見ている時には、

息が途切れることが多くなっていきました。

 

 

5秒、10秒、20秒、25秒、、、、、、

 

 

その後息を吐くことはありませんでした。

 

静かに静かに息を引き取っていきました✨

もう少しで、看護師さんが来る時間に。

 

 

 

80年、ありがとうハート お疲れ様でしたキラキラ

今生でたくさんの経験をしました。

私たちを産んでくれてありがとうラブラブ

いつもたくさんの人に囲まれて、賑やかでした笑い

 

そして子どもたちが見守る中、ゆっくりと天に召されました。

 

笑顔の母がいますラブラブ音譜ラブラブ

 

 

お母さんキラキラ音符ピンク薔薇