と知った時に驚く人が、いったいどれだけ多いことだろう?
世界で一番読まれている書物である、一番の有名な書物である『聖書』というその書物は、
そもそもキリスト教ではなくユダヤ教のものだと言う事実を、知らない人がどれだけ多いだろうか?
無知が招く危険はどれだけ多いか。
わかりやすく言えば、キリスト教というのは「キリストが産まれた以降の話」であり、
それ以前の3千年ほどについて語られている聖書の大半に、
当然キリストはいなかったし「キリスト教」という名前はなかった。
それではなんと呼ばれていたのか?――ここに誤解があるということで、それについても後述したいけれど
まあざっくりいうと、それが今の「ユダヤ教」である。
ざっくりといえばキリスト教で用いられている
『旧約聖書』というのがユダヤ教聖書、ヘブライ語聖書であり
『新約聖書』というのがキリスト教聖書。
キリストが誕生する以前の聖書という書物を
キリスト教が『旧約聖書』と呼ぶことで、大変に話をゆがめてしまっている事実があるのだ。
多くの人がキリスト教が何かありがたい神の教えの宗教らしいと知ってそれ以上に学ぼうとしない、
キリスト教から『旧約聖書』として話を聞いたことは、
「もうその話は聞いた」と感じているかもしれない。
そういう知ったかぶりの蔓延がどれだけ邪悪で邪推なものか
それはキリスト教が捏造したものを読んでいるだけに過ぎない。
まずキリスト教とは何か?
キリストとその弟子たちの話、そもそも現代人が『キリスト教』と呼んでいる彼らの話に
その言葉と宗教名はなかったし、彼らすべてが、『ユダヤ人』であり、同じユダヤ教の中で起こった話を
異邦人が勝手に『キリスト教』と名付けて、勝手に異邦人が広めたものが『キリスト教』だという話。
世界の半分くらいの人がキリスト教をざっくりと信じているとされているのだけれど
それは『横から現れた人たちが勝手にしたもの』を信じているという、とても危険性の高いものなのだ。
一般に言われていることを述べると、聖書といえば意味するところ、もともとユダヤ教だった、
そして紀元後、一世紀、それをキリスト教が、『我々が引き継いだ』と主張して、
そして西暦700年、中世時代に
イスラム教というのが現れて『ユダヤ教を引き継いだキリスト教を我々イスラム教が引き継いだ』と主張している。
イスラム教でも、イエス・キリストの話は聖人としてでてくるのだ。
キリスト教は、ヘブライ語聖書を『旧約聖書』として取り込んで教えて
そしてイスラム教は、キリスト教が『旧約聖書』『新約聖書』として分けた2つを
『旧約聖書』として取り込んで、コーランというものを、所謂ところ『新約聖書』として教えているわけだ。
こうしてユダヤ教・キリスト教・イスラム教と『セム系3大宗教』と呼ばれている。
これは一般的に言われていることなのだけど、そもそもこの一般的に言われていることを
3大宗教といえば、『神道・仏教・基督教』である日本人は「まったく聞いたことなかった」と答える人も多いだろう、
実際世界1/3がキリスト教、1/4がイスラム教を信仰しているとされるのだけれど
このイスラム教もユダヤ教も、「まったく聞いたことがない」と答える日本人がほとんどだろう。
34の年。産まれて初めて、自宅に宗教の勧誘の人が来たのだけど
自宅に来る宗教の人と言えば、私の出生のエホバの証人かと思えば、違った、
何やら仏教系の人達のようだったのだけど
しかしユダヤについて話したら、そのひとりの人はどうやらもともとプロテスタントだったらしく
「ユダヤ教?なんですかそれ?どういうことですか?神様はイエス様ってこと?」っと
まったく言葉の通じない様だったのでつい熱くなってしまった、
キリスト教で学んだことがあるという人が何故ここまでも、ユダヤ教について知らないフリをするのか?
いやそれこそキリスト教の『洗脳』であるのか?震撼するものすらある。
ユダヤについて私が、逆布教する形になってしまったけれど
「なるほどーユダヤかーはじめて聞きました。本当にいいこと聞きましたわ。為になりました。」と言って
帰っていったのだけれど大丈夫だろうか。
会話の中で「そんなにすばらしいものがあるならどうして日本にユダヤ教は伝わってこなかったんですか?」と
まるでフランシスコザビエルがキリスト教を布教した時のようなうりふたつの台詞を言われたのだけれど
ユダヤ教は伝わってきていないわけでもない、(なんなら日ユ同祖論というのもある)
そもそもキリスト教を学んだのであればその時に
旧約聖書はユダヤ人のものだったという話を聞かないのはとてもおかしい。
なんならメディアの中で、アメリカではないのでそこまで多くは聞かないだろうけれど
日本人でも「ユダヤ系」という文字を目にする機会があるはずなのに、どういうわけか
その言葉を日本人が幾ら見ても、学んでも、すりぬけていってしまうという不思議なことを引き起こしているのだ。
いやそれとも『キリスト教を学んでしまった者』だろうか?
私の出生のエホバの証人では、キリスト教が一番!などとのたうち回らず、
どうやら「一番尊いのはユダヤ人である」という教えはちゃんとあるらしく
親ユダヤであるような教えがあることを知ったのだけれど、
それがどういうわけかそういうわけでもないという不思議地帯なのである。
知識を持ってから知ってみれば、エホバの証人が教えている
日々の生活の知恵というやつは、そもそもユダヤ人が教えている教えだったりするものが多いと思った、
「サタンとはただの概念についてのことであり、人格を持った存在ではない、存在しないという話がありますが~」
などというような内容の冊子を読んでいたことがあるのだけれど、これはユダヤで教えられている
サタンという存在の話について言及している、そしてキリスト教では、サタンは人格を持った存在としている
ということで、そのことについての内容となっているのだけれど、ここに先に「ユダヤの教えがある」ということを話題には取り入れているのに、教えていないのかもしれない。
しかしここまできちんとかみ砕いたことを体系的に教えているエホバの証人っていうのは
なかなかちゃんとしているという本当にちゃんとした聖書を教えている団体でもあるとそう思うんだけれど
その価値が中途半端にしかわからずに、またはなんにも理解せずに、
とんでもない勘違いをしている人もまたとんでもない問題を引き起こしているのだろうと思う。
まずエホバの証人というのは、19世紀に化学が発展してきた時にそれまでのキリスト教がどれだけ妄信的で危険だったかと
立ち上がったプロテスタントという集団の一派である。それまでと同じように、キリスト教と名乗ることを、
他のキリスト教を危険視した、キリスト教団体で
区別をつけるために、キリスト教団体ではなく『エホバの証人』という名前を名乗っているのだけれど
実際、キリスト教は危険であり、エホバの証人はまともである、と信頼されたから世界で
エホバの証人は広まったし、日本では体系的に教えているキリスト教といえば、エホバの証人のみ許可している、くらいに信用されていた、それはなぜかって、実のところ、
「ちゃんとユダヤからの教えに沿った上でキリスト教を教えている」というところが大きいのではないかと思う。
だけど不思議なくらいに、たしかに私自身、「ユダヤ」というその言葉を聞くことはぜんぜんなかった。
いやそれともエホバの証人はそれでいて、キリストは神だと、地球そのものを作った超越した存在だと教えている、
もしやエホバの証人のこの独特の体勢が、「ユダヤについて、知っているはずなのに知らない」という
まるで記憶が封印されたかのような不思議な現象を引き起こしたのだろうかと疑う。
20歳の時にとある人に「知ってるか?そもそも聖書っていうのは、キリスト教のものじゃないんだ」と言われた時に
「え?」と頭が真っ白になって、どういうことなんだと、食い入ったことがあったのだけれど
その人はアメリカ帰りのコカイン中毒の老人で、それがまともに教えてくれなかったという
その時のことをはっきりと覚えている、おかしな人なのに、その言葉だけはずっと気になって頭に焼き付いて離れなかった、そう、私自身が、聖書を赤ん坊の頃から教えられて育っていたはずなのに、知らなかった。
私は聖書を厳格に教えられて育った人間で。それがユダヤについて学んでみると、なるほど、
知らなかったと思っていたはずなのに、どういうわけか私は知っていた、それなのに「ユダヤ教」と聞いた
瞬間に「知らない」と感じる現象を引き起こしていた。まったくもって謎である。
さてユダヤ人といえば。日本人もみんなが知っている名前を持ち出すと、
「アンネの日記」だ。
第二次世界大戦中に、迫害された人々。こう話してみると、そういえばユダヤと言えば聞いたことあると
皆思い出すだろう、その私の自宅にやってきた仏教の人も「ええ知っています」と答えていた。
しかし「聖書がキリスト教のものではなくユダヤ教のもの」と聞いた瞬間に聞いたことがなかった!とパニックを起こすのだ。
私がその事実を知って、衝撃を受けたのはいつ頃だろう?
それが思い出せない、すごく何気ないことだったと思う、
6、7年前だろうか?Youtubeの漫画動画、世界の歴史とかを漫画アニメにしたちゃんねるが
近年ではたくさん出回っていて、
第二次世界大戦中に迫害されていたユダヤ人のことを漫画アニメ化にした動画を見た。
私も中学生の時とかにアンネの日記とかを読んでいたはずだけれど、そのときに妙な衝撃が走ったのだと思う、
元コカイン中毒の老人に言われた「知ってるか?聖書はキリスト教のものじゃない」と言われた時の言葉と
ユダヤ人についてのよく知られた歴史の動画アニメ―― 急にすべてが繋がったような、
たしかその時に妙な衝撃を感じて、手繰り寄せていったのだと思う。
『聖書の持ち主は、ユダヤ人』
私自身は、日本の東京生まれ東京育ち、飽和した世俗主義の中、
聖書自体は厳格に教わっていたものの、毒にまみれた家庭環境、
毒のあるひとたちしかいない学校、毒のある仕事先、趣味も作っても毒しかないコミュニティー
聖書自体を学ぶということがどれだけ精密に厳格に大変であることかということは教わっていたし
神を信じているという信仰心はあるものの、それについての話をすることもタブー視されていると感じる世の中で
こんなにも、何も、得られる情報がない中で、
こんな拙い情報から、やっと手繰り寄せて見つけたようなものだった。
2020年頃からユダヤ教について正統なユダヤ人の人が日本語でついて説明してくれている
架けはシオンというちゃんねるがあるのだけれど まずこの人の動画を見ることをお勧めする。
そして
ユダヤ教とキリスト教の違いとは何か?を説明しようとすれば
「え?ユダヤ教ってなんですか?どういうこと?神様はイエス様ってこと?」
こんなことをいう人がいるくらいなのだから、ユダヤ人がどれだけ差別されたか、根深い背景を感じる。
キリスト教とは、キリストを神と認めない者を虐殺し、キリストを神だと言わせる宗教なのだろう。
まったく蕁麻疹が浮かび上がりそうなくらいにそのまんまだ。
神はキリスト神はイエス様神は基督…これしか人間の言葉が話せないように完膚無きに洗脳される宗教なのだろうか
おかしい。キリスト教とは、聖書を教えない宗教なのだろうか。
自分ひとりで聖書を読んでみれば、よく考えてみると、キリスト教はまったくおかしいことがわかってしまうので
聖書を読ませない宗教であるに違いない。
簡単に言えば、ユダヤ教もキリスト教もどちらも聖書の教えに従い
そしてキリストを予言された救世主であり神と信じた者達がキリスト教、
そしてイエスは予言の特徴とまったく当てはまらないし救世主ではないし、
ましてや人間としてのリーダーであるはずの
救世主(メシア)を神そのものに仕立て上げるというのは、
今までずっと注意されてきた、恐れられていた異端であるとしたのがユダヤ教、
そしてキリスト教という存在が確立した時に、同時にユダヤ教という存在も確立し、まっぷたつに分かれていったという。
そしてキリスト教が権力を持つにつれて、ユダヤ人への迫害は強まっていったとされる。
しかしキリスト教が確立されるまでの間の逸話も、新約聖書に纏わる逸話を知ってみれば
大分一枚岩ではないこともわかる
キリストは「私の名を通さず、直接神に祈りなさい」と言動している、
しかしキリスト教は、「イエス・キリストの御名を通し…」と復唱する。
キリストは「将来、私の名を語る宗教が現れるでしょうが、それは悪に陥るでしょうね」と言動している
そして本人が言った通り、キリスト教というのが現れて、
中世時代において、「魔女狩り」など、まさしく私利私欲で虐殺の限りを引き起こしている。
キリストはそもそも自分の名前での宗教を立ち上げてはいない。あくまでユダヤ人として
そしてユダヤ教のラビとして、ユダヤ人達に教えていたとされている。
そしてユダヤ教側からは、「ユダヤ人に律法を破棄させようとした存在」という中傷もあるけれど
「私は決して律法は破棄させようとしているわけではありません」とイエス本人は言動している
しかし本人がそうであったとしても、後世に伝えられたキリスト教という存在は
「ユダヤの律法?なんだそれは?」という「律法を破棄したもの」という存在として扱っている。
つまりキリスト教自体がそもそも、…そもそもがキリストの教えを一切守らない、暴れん坊の宗教なのだ。
私もちょっとキリスト教がどのようにして、キリストの死後、弟子たちがキリスト教を確立していったのか?について
詳しくない部分があるのだけれど、読んだ文献によると、弟子たちも、このまま(所謂ところ)ユダヤ教という枠の中で
広めていくのか、それとも異邦人に広く広めていくのか?ということに悩んでいたらしく、そしてパウロが、広く、異邦人の宗教とした道を作っていったという内容のものを読んだのだけれど。
今や、聖書というのは、誰もが一度は読んでみた方が良い本。とされているけれど、
先に、私の自宅に来た仏教徒のひとが
「そんなに素晴らしい教えがあるのなら、どうして日本に広まらなかったん
ですか?ねえ?ありがたい教えがあるなら、独り占めしないで、教えてよねぇ」と言っていたのだけれど
「それは…」
本当にそう感じる節もあるといえばある。ユダヤ教の、まあ、ユダヤ人という
民族としての部分についての話になると思うけれど、
ユダヤ人といえば世界で一番IQが高い民族で、7か国語くらい話せる人も多いともいう、
世界人口の僅か0.2%にも関わらず、ノーベル賞受賞者の20%はユダヤ人、というデータがあるのだ。
そのユダヤ人の家庭が子供の教育で気を付けていること、ユダヤ教育とか言われているようなものは
本当に世界最下位のEQとされた日本と対極だと感じるのだ。
本当に日本人にその考えをわけて欲しいと思う限りだ。
「え?旧約聖書といういつまでも古い教えを信じている人たちのことですか?」と
その仏教徒の人に言われたのだけれど、まったく刺すようなことを言う人だ。
『古い人たち』というのはどれだけ愚かだろう、microsoftの会社の大元はユダヤだったりなど、
世界の発展にはユダヤ人がいると言われるくらい、世界の最先端と言われるところに常にいるのがユダヤ人なのだ。
そして宗教という側面について言えば。
「それを言うのではあれば、イスラム教からすれば、キリスト教の人も
キリスト教聖書という2000年も前の昔のいつまでも古い教えを信じている人たちなのか、と同じことですね。」
何か新しく主張したい人がいればその人がしたいように、どんどん更新されていくという話なのだ。
イスラム教の過激派が今世の中で「ジハード」を起こそうと暴れている。
中世時代にはキリスト教も魔女狩りというとんでもないことをしでかしたし、
どうしてそのようなことになってしまったのかといえば、「広く普及して行く。
誰でも歓迎。誰でも今日からあなたもイスラム教!キリスト教!」などということをしているから
どんな蛮族でも、あなたが自分の身をそのように名乗ってOKです!という風になってしまったのだ。
ユダヤ人というのはだから厳格である宗教だった、
横からやってきた邪推な人間に神の教えが盗まれたらどのようなことになるか?
それを始めからわかっていた。
そしてキリスト教やイスラム教でご存じの起きているようなことの二の舞にならないように
『布教しないこと』というのを厳格に守っている宗教なのだ。
しかしそれで起きたことは、「自分たちが差別をされる」ということだった。
今は『聖書』という本にされた形で「誰もが読むべきもの」とされているけれど
もともとは「文章に残してはいけない」とされていた。
それを横からやってきた人間が見て、悪用する人間が現れるかもしれないから
まさしくそれを恐れて、口伝律法と言って
「口頭のみで、親から子のみに言い伝える」ということをずっと行い続けていた。
書籍化されて異邦人に広く知れ渡ることになったのは不本意だったのだ。
私が書いている話は、私が書いている話なので、まったく知識がない人に対しては、
いきなり振り落としている箇所があるかもしれない、ソースは?とでも言いたいところを
2、3行ごとにでもあるかもしれない、やや粗があったり間違いがあったりする箇所があったりなどするかもしれない
しかしながら決してなんの洗脳の類によるものでもないなんの所属もしていない生粋な話をそのまま伝えようとしているということだけは言わせてもらいたい。
そもそも聖書はカバラを用いて書いたとされている
そのまんま文章通りに読むとひどく危険にも思えるような意味のよくわからないようなものも
そもそも聖書はヘブライ語が読めることを前提とされていて、そこにカバラというものを用いて意味を絡めて書かれたのが聖書だ。ファンタジーやお話を読むための書籍ではないのだ。
そしてそれが本当はどういう意味だったのか?などというのは、古代の人の文献だ、
はっきりいって、ひとつやふたつでもなく、1000でも、15万通りにでも、
好き放題に、間違った解釈ができる、いわば、いくらでもユダヤ教を貶めることができる。
ユダヤ教差別というのはすべてそうして起こっている。
軽はずみに横から聞くかぎりでは、
古代の教えを盲目的に信じている民族だと思うだろうか?
しかしそれなら、何故、世界のほとんどのノーベル賞受賞者はユダヤ人で
最先端技術の発展にかならずユダヤの影ありと言われるだろうか?盲目的に古代の教えに沿って生きてる古代の生き方している人たちがそれを可能だと思うか?
そう、日本人はまったくユタヤについて知らないだけなのだ。
少し話題が反れるかもしれない、ここからは個人的に私が最近知って興味深く思った話なのだけれど
しかしこのカバラというものが。いったいなんなのか?というのが現代人にとって失われてしまったもので
世界中でカバラ学者が研究している課題であったりするという。
日本人はカバラというとタロットカードなどを思い浮かべるだろうけれどそれはまったくもって違うもので、
カバリストと言えば、ユダヤ教神秘主義だ、と詳しい人は思い浮かべるかもしれないけれど具体的にいうとそれも違う。
そういえば私も子供の頃に「カバラはぜったいに知ろうとしてはいけない」と教えられたことがある
カバラとは存在が隠されたもので、誰にも教えてはいけないとされたもので、
だけど隠されると知りたがる人の本性が、タロットカードにしたり、いろんな風にカバラとはああだこうだと
議論してきたけれど、しかしそのどれも本物ではないのだという。
ユダヤ教とは何か?とWikipedeiaでみれば、まるでもっともらしいようにユダヤを下に見立てたようなキリスト教が書いたと思わしきまあまあの荒はあるもののだいたいはそんなようなところっていうことは
知ることはできるかもしれない。
しかしカバラとは何か?これに関してWikipediaで書かれていることはこれだけたくさんの羅列が並べられているけれど
まったくもって違うと判断した方が良い。じゃあなんなのかっていうことに説明に困るものだという。
まず。これだという。私が、個人的に、すべての人が知った方がいい、と思った話は
古代の人はカバラを理解することができた。
第二神殿崩壊後、人々はカバラというのを誰も理解することができなくなった。
昔は「宗教」という存在はなかった、みんなカバラを理解していた、
日本語聖書で「異教徒」という風に翻訳されているのは、原文では、「外国人」としか書いていない、
古代の人は「宗教」はなかった、
勝手に現代人が宗教という概念を組み立てて、当てはめている、
キリスト教というのが確立した時にユダヤ教というのが確立した、
これはカバラが失われた残骸で、ユダヤ教というのはカバラを説明できなくなったために
キリスト教と区別を計るために不本意にそう呼ばれるようになった宗教で、
ユダヤ人自身は、ユダヤ教というアイデンティティを持っているわけではない、
自分たちをどう説明すればいいのか?言葉を奪われたところにつけ狙って「ユダヤ教」ということにされて
「ユダヤ人差別」というのはいいように行われるようになったという。
「ユダヤ人って言い方するけど、宗教なの?民族なの?」とこれはなかなかまず初めにちょっとよくわからなくて
混乱する気持ちになる部分だろうと思うけれど、
そもそもユダヤ人自身が、「ユダヤ教」という名乗り方をすることが不本意だったという背景がある。
「どうして伝わってこないんですか?」というのはそういう理由なわけだ。
カバラというのは隠さなくてはいけない。そのせいで誰もわからなくなった。
ユダヤ教というのは、布教してはいけない。とされていて。そのせいで不寛容だ!と嫌われて、差別された。
いくらでもサイコパスが突け狙えば差別できる脆弱性がそこに産まれたわけだ。
私自身に経験がある。あまりに複雑すぎて、これは人には話せないとして隠して人と対応していると
必ずトラブルになる、パワハラ、いじめ、理不尽に怒ってくる人、「複雑で説明できずに黙っている」というだけで
気味がわるいくらいに。こちらが悪いという風にまんまと仕立て上げられる。
私自身が、はっきりと言っていくらでもそんな経験してきたので。ユダヤ人が差別されたことを想像できるし
それが自分だったかもしれないと震えてくる気持ちになるのだ。
さきほど、ノーベル賞受賞者の20%はユダヤ人だという話を書いたけれど、19世紀には80%がユダヤ人だったという。
差別されている真っただ中。自分たちがなんとしても必要とされる必要があったからではないかという説もあるけれど
「これだけ役に立つ自分達をまさか差別しないでしょう?ねえ?」という結果を、裏切りで返したのが
ユダヤ人差別なのだ。それがまさかの、大量虐殺された。
ある意味、他の民族への差別以上に、胸にこみあがってくる気分の悪さがないだろうか。
ユダヤ人はただ、自分たちが神の民族として恥じないように人類に貢献を齎して、
人類は、それを大量虐殺という仇で返した。
こんなあってはいけないような世界史が刻まれた中で、
せめてユダヤ人の国を立ち上げよう、という活動に寄付が貢献されることに
何故シオニストだ!シオニストだ!とそんなに責め立てていいと思えるのか、
少なくとも日本人は3000年という歴史があって、日本列島を日本人のものして所有して
安全地帯の高みの物見で、自分たちは自分たちを堂々と所有して、
堂々とそれを、他所がしようとすると、無責任に批判できてしまう下品さには耐えられない。
日本人っていうのは自己防衛だけは強いウザすぎる性格をしている国民性だと思う
日本人は防衛や防御に対して上手い民族だった、それをノーベル賞受賞者の8割も占める優秀さがありながら
虐殺されたという、諸刃の剣になってしまった民族を、日本人があぐらを掻きながら責めてていることだけは恥ずかしいことだと思う
シオニスト?なんの話?とわからなくなってしまった人のために説明すると
ユダヤ人は戦争時に人口のかなりの大半が虐殺された後、ユダヤ人の国をいまこそもう一度再建しようということで
イスラエルという国が戦後に立ち上がったわけだけど、国が復興することにはどうしても場所をとる、
それを今度は「シオニスト」と言って
ユダヤ人を忌み嫌おうとする人が後を絶たないのだ。
ユダヤという民族はこれだけ生活の基盤が安定しない中で
どうしてまったく性質が対極と言えるような日本にまでその存在を伝えることができるだろうか?
もちろん、今はインターネットの時代なので、80代でもスマフォを持ち2歳の子がipadを触るという時代が来た今では
今ようやくそれも可能になってきていると思うけれど。
しかしユダヤ批判する日本人もやはりそこそこいる。自分の目の前に映らない人たちを
そうしてインターネットを用いて隣にやってきた情報が洗脳して、批判する側にまわることはとても簡単なことなのだ。
それが昔の日本人はそんなに馬鹿じゃなかった、ユダヤといったら神の民族で
差別されて大変な目にあっている、これだけで十分何が起きているのか日本人は理解できて
おなじようにユダヤ人を差別したりはしなかったとも言われているけれどね。
キリスト教やイスラム教が、布教することのフットワークが軽いことにはワケがある。
そのために強いられた犠牲もかなり大きい。
「大衆にウケるエンターテイメントなんて作られた時には悪魔に魂が売られている」なんていう話があるけれど
ぼーっとした頭で、なんか隣に言ってる人がいたから、それ信じればいいやーなんて
努力もしないで手に入る情報を入手してる人間はかならずサタンの意志を引きずりまわしているのだ。
なんであなたは楽をしていたにも関わらず、あなたに情報を与えてくれたと思うんだ?
日本で手に入る情報は、「なんかありがたいらしいキリスト教」のみだ。
やはりユダヤの方が劣っている、ユダヤの方が劣っている、と下に見たようなキリスト教の文献が垂れ流しになってるのを
日本人が鵜呑みにしている中、ユダヤ人は、世界でもっとも賢くて、ノーベル賞受賞者の多い民族なのだ。
まず日本人にとってユダヤっていう情報を手繰り寄せるのは大変なことだし
ユダヤ人からしても、日本という国はとにかく宗教に不寛容で
実際、日本は小さい国小さい国とかいう嘘をついてまわっているけれど
世界で10番目位に人口が多い大国である民族であるにも関わらず、そこにユダヤ人というひとたちはどれだけ住んでいるだろう?
といえば、もっともユダヤ人人口の割合が少ない国の層に入るだろう
とても日本という国はユダヤ人にとって近寄りがたい現状があるのだ。
日ユ同祖論というのがあるだの、イスラエルは親日国だのなんだの言っても、現実の現状はそんなんだ。
Weikipediaでなにか、ユダヤ関連のものを見てもらうとする。
そこにはキリスト教が書いたと思われる、ユダヤ教をやや下に見た書き方が溢れている印象がある。
右上の言語のボタンを選択して、同じページのEnglishを見てもらおうとしようか、
情報量が、なんと5倍くらいに増えているし、とても日本人が書いているような
まるで『未知の古代の人たちの宗教』という印象を受けるような書き方ではなくて
とても現実的なすぐ隣にいる人の書かれ方がしていることがわかるだろう。
では。キリスト教とユダヤ教ってどんな関係なんですか?ということについていえば、
まずキリスト教はユダヤ教を迫害してきたとされているけれど、
同時に聖書の民族であるということをよく理解しているのがキリスト教でしかなかったので
そもそも聖書に反発を抱く民族がたくさんいる中でそれらの民族を粛清していく中、
ユダヤ人は同じ聖書の民として、「権力を与えない程度に差別しつつ、保護をする」という立ち位置をとっていたとも言われている
そうか。ユダヤ教ってようするに、キリスト教と同じか!という、とりあえず
「キリスト教と。だからおんなじ。」この言葉でいちばんわかりやすいだろうと説明を試みる人も多いと思う
ユダヤ教という文字に日本人があまりに聞き馴染みがなさすぎて、え?何それ?ヒンドゥー教とかそういう感じ?という
発想を抱く人がいる中ではそれも一理あると思ってしまうのがわかるけれど
「おんなじおんなじ。」っていう言い方にはユダヤ人からしたら大層に嫌がられる言い方だという。
たしかに。キリスト教徒からしても、キリスト教ってなに?どういうこと?ああ~イスラム教と同じってことか!
ムハンド様万歳!と言っていきなりアッラーに祈り始められたら、大変に不快だろう。
実際に日本人のキリスト教は、自分たちが多数派であるとして、
日本に存在しない未知のユダヤという存在に対して、本当こういう言い方を平気でぼんぼんしているのだ。
日本人は戦時中にドイツと同盟国で、「ユダヤ人を差別しろ」という煽りを受けていたにも関わらず
ユダヤ人を差別しなかった、という歴史があったはずなのに、大体はキリスト教の手によってこんなような有様だ。
アメリカであれば、クリスチャンの家庭の子供の隣にユダヤ人の家庭の子がいて、
ぜんぜんお互いふつうに仲良くしていたりだとか、そんなようなものなのだろうと想像するけれど
日本は宗教に関して現実に根付いた教養がまったく足りなさすぎるのだ。
先に書いた、カバラというものが現代では失われているという話があるけれどまさしくその限りではないかと思う
宗教っていうのは、神を真の意味で理解ができない、残骸のようなものだという、
宗教、宗教、宗教、宗教、という話がまるで
「私は神を理解できません私は神を理解できません私は神を理解できません」と
ぶりぶりぶりぶり言ってるようにしか感じない、という傾向が、特に日本人には強いのではないかと思う。
海外の方がそんなようなことはなくてもっと純粋性を保っているという印象があるのだけれど。
日本人で宗教の話をしようとする者がいるならば、なんというかこう、
「神は存在しない!神は存在しない!神は存在しない!」
突然ぶりぶりぶりぶり何か対極の意味で話しを始めたようにしか見えないのだ。
むしろ日本がこんな有様だからこそ「宗教はカバラが失われた残骸」と聞いた途端にピンとくるものがあった。
カバラ、とは純粋なる神の存在そのものという意味があると知って、自分の使ってる使い方が正しいか
なんせカバラという言葉の正しい使い方は誰もが研究している課題だという。
もしそれが正しいのなら自分が信じているのはまさしくそのカバラというものだ。
何故、神という話をする時に、ユダヤ教、キリスト教、と●●教、となにか宗教の話を始めたという
壁の話をしなければいけないのだろうか?と、実の所、常にわずらしい気持ちでいる。
純粋な、神そのものという話をどうしたら人に伝えられるだろう?
実のところ私は13歳の頃に神の声が聞こえるようになったという瞬間を持っている
だけどその時には自分はキリスト教にゆがめられた話しか知らなかったので
そう、心の中を全てみることができるのは、創世神のエホバか、イエス・キリストのどちらかしかない。という話だった。
そして直接人間とやりとりができるのはイエス・キリストを通してでしかないという教えで
ということで私の頭の中にもキリストの声が呼びかけられて、やってきたのだろうか?と
それは「イエス・キリスト」なのか?純粋なる、神、というもの、それはやはり創世神そのものではないのか?
どちらなのだろうとなにもかもわからない、みたいな気持ちでいるとなんだかだんだん統合失調症染みてくるようで
しかし私の直感では、なにか、つまり創世神そのものに笑われているような気持ちがした。
ユダヤを知って。ユダヤの教えでは、「霊的な存在は神と人間しかいない」と聞いた時に
その時からというのか大人になったからなのか。統合失調症染みた心がざわざわとした落ち着かない気持ちがなくなった。
だから私はキリストという存在はいないと思った。人の心の中を神として覗いているなど捏造だと思った。
私が、何か特別な存在だと勘違いするのではなく。人は動物は神の声を聴いて、神からの受取もので生きている。
それをなんというか、認識ができるようになったのだという感じだ。
カバラというのは数秘術ではなくて、もっと自然性というもの、という中身の『神』という意味があると思った。
だから私が言いたい話をここで言わせてもらうと、日本人としてはこのようになるだろうと思う。
『神』と言ったらなんなのか?神道の、八百万の神か?いいや、そうか、キリスト教が、正しい、真の神の話だ。
と手繰り寄せる。しかし正しいのはそうか、キリスト教ではなくてユダヤ教。いやもっというと
ユダヤ教ではなくてカバラ…。そんなような、相関関係。
日本人にとっては、神道・仏教・キリスト教で、この3つの中では、
何か、本当の、本物の、この世に実際に現実に実在する『神』の話をしている、と直感して手繰り寄せるのは
キリスト教しかない。
だからどうしてもキリスト教を悪いというのはどうだろうと思う気持ちもあるのだけれど
もっというと、その向こう側につながっている、ユダヤ教、そしてもっといえばカバラ、と繋がっているのだと思う。
宗教というのを含めた逸れた話になっていくのだけど、日本の神道の八百万の神というのも
元は一神教で、もともとはユダヤ教だったという、日ユ同祖論という説がある。それが数千年の時を得て
ユダヤ人と日本人の守っている価値観はよもや対極としか言いようがないような民族性であると思う。
ユダヤ教とはぜんぜん違うだろうという刺す声が入るのは、それも、宗教はカバラが失われた残骸。
「ユダヤ教」という宗教名を持ち出すからそうなるのではないだろうか
だって800万も神がいるだなんて誰も信じていない。それこそ、カバラを用いて隠されて書かれた何かだったりしないだろうか。
というか、もともとは一神教で、「この世の800万の万物はすべて。たったひとつ。神から作られたのだ。」と説いたという話が
どういう訳かねじ曲がって、「800万神がいる」となったという説もある。
もしくは。人はカバラを追い求める本能がある。知ろうとして宗教を作る本能がある。という。
それを言うのであれば、日本人は頑張って800万も神を作って、よっぽどカバラを追い求める気持ちが強いのかもしれないとも思う。
「あうんの呼吸」「悟り」というのも、本当はカバラを理解していれば理解できる領域に
日本人は到達したい気持ちが強いのかもしれないと思う。
だけど実際現代日本で起きているのは、そうしてきちんと説明し合う姿勢がなく、人のことなんか何も理解する気がないし、
コミュニケーションをとらずに、黙っていてもなんとなく済ませられるという、
知性やコミュニケーション能力が奪われるだけのズボラな姿勢ではないだろうか。
日本人はユダヤ人と本当にまったく対極の価値観を持っている民族で。
本当に向き合わなくてはいけない生きて行く姿勢のようなものがまったく逆になってしまっていないか?
現代日本人は、宗教についてきちんと学ばない、啓剛されていない民族で、
ユダヤがいちばん隣にいなくてユダヤをいちばん知らない民族だということが、
実際、生きて行くために必要な人間らしい教養や知恵がひっくり返ってあべこべになって、
それを「根性論」などといってなんとかしてしまっている民族ではないか?
私はすごく日本人を危険だと思っている。変な造語を私が作ってしまうけれど
「日本人、宗教の話になった途端カバラ領域ゼロ」という独特な気味の悪い感じがあるのだ。
所謂、カバラという名前が挙がったような、そういうような純粋性を保っている宗教というのが
ユダヤ教という形で残った民族しか、存在していないのだ。
日本人が神道、仏教、キリスト教などと、横につながりがホイホイ知ることができるような
宗教という宗教にはまったくその領域が失われている。
「宗教なんてみんな糞なものしかない」とよく言ったものだけれど
「カバラが失われている」という言葉で言えるという。
ユダヤ教も、「ユダヤ教という形で残ったもの」であるので、「信用できない」と言われたら
成す術もなく説明もできないところもある。
だから。世界で一番IQが高い民族。ノーベル賞受賞者の2割はユダヤ人。という現実的な結果で返して示しているし
日本人の宗教を語る人間があからさまに気味が悪いので、これはあからさまだと思うのだけれど
日本人の仏教やキリスト教徒などと語る人間で、実際、ノーベル賞を受賞するまで
ひとつひとつの毎日の現実的な積み重ねと現実的な努力をコツコツとできる脳みそを手に入れている人間がどこにいるだろうか?
日本で宗教といえば、そういう現実性を教えない、所謂、洗脳できればなんでもいいという、悪徳が栄えている国だ。
個人を大切にしない。
キリスト教は、キリストキリストととりあえず名前を挙げておけばあとはなんとかなると思っている。
自分が必要ないと思っている。聖書を薄ら遠くの他人ごとの世界として何か遠くに任せておけばいいと思っているのだ。
宗教が中心!ああもうそれで安泰!そんなような感じだ。
ユダヤ人の家庭環境ではそのように決して他者にゆだねて甘えたりしないというしっかりとした家庭教育が行われている。
聖書を深く勉強している人には。「キリスト教とユダヤ教。一体どっちが正しいんだ?!わからない!!」という
どうしてもわからないという悩みの話題であるだろう。
しかしユダヤ人が一切いないこの日本という国でキリスト教の性質が悪いのはあからさまだと思う。
そこでまたキリスト教とユダヤ教の違いについて説明していこうと思う。
まず、聖書でいつか世に現われると予言されていたメシアはイエスキリストだと信じたひとたちがキリスト教。
信じなかった人たちがユダヤ教だという。
イエス・キリストという存在は何か?それはユダヤ教にとってだけではなくまず
キリスト教にとってからも入らないといけないだろう両方にとってからの話になる一枚岩にはいかない話題になるだろう
まず。もしも予言通りのメシアだったのであれば、それはモーセと同じ存在である。
民を導く、ユダヤ人だけではなく、モーセを更に超えて全人類を導くであろう人間のリーダーとなる存在。
モーセは神の信託を受けた存在として、ついには自分が神のようであるかのように振る舞ったことで
「あなたは約束の地には入れない」と神の怒りを買った人物であるけれど
預言に「モーセと違って神扱いして良い人が現れます」なんて書いてあるわけがないのだ。
むしろ、最初に書いたけれど、神との仲介者に気をつけろという注意について聖書は散々警告している。
私がまずそうして思った、イエス・キリストという存在が現れた時の悲劇というのは
つまりは誰もイエスを予言通りのメシアとして扱った人はいなかったということである
聖書で危険とされた、超越した神という存在として扱う人たちか、
それともメシアですらない、まったく信じないというひとたちか、という2つに分かれて
「預言通りのメシア」としての扱いはいっさいされなかったということだ。
もともと危険視されていた預言者を神扱いする人たちと、まったく信じない人の
二極化するということが起きたのが悲劇だったのではないだろうか。
キリスト教にとっては、預言者とされたイエス・キリストそのものが神と化したので
道を踏み外した、偶像崇拝者の集団となっている。
しかしエホバの証人として育った自分としては、これは私の個人的な解釈でそうだった部分もあるかもしれないけれど
キリストキリストと、エホバの証人でもその名を繰り返し聞くのだけれど、
お祈りをする時は「イエス・キリストの御名を通し」と言うし、だけど、祈っている先は
創世主のエホバである、という、たくさんキリストが神であるような教えもいっぱいでてくるんだけれど
まあ聞き流していればいいのだろうと自然にそういう癖のようなものがついていて、
何故キリストの名前を挙げるのかというと「人間が愚かで、創世神と繋がれないから、しょうもない人間たちのために
イエス・キリストの名を通さないと、創世神と繋がれないから」という教えなのだけれど。一般的にまともな
キリスト教はこれを教えているはずだと思うのだけど
人間が、愚かで、小さすぎて、イエス・キリストの名を挙げないと、創世神のエホバに近づけないから。という教えだ。
だから、直球にいうと、別に神は創世神エホバで、一神教なのだ。
だけどキリスト教には三位一体という教えがあって。
これはエホバの証人ではそうヘブライ語聖書ではそんな教えがないしキリスト教が
捏造しているというのを糾弾していて否定しているけれど
だけどけっきょくのところエホバの証人でも同じ教えがあって
この世は、この世を創世した神と、神が創った天使と、精霊たちと、三段階の構造になっているというのが
キリスト教の教義で、イエス・キリストとは神に近づくための「通り道」のことであり
その「通り道そのもの」が人間にとっては「神」と置き換えられるからそう呼ばれるというのがキリスト教の教義なのだ。
だから信仰しているものは創世神のエホバ、つまり英語ではヤハウェ、ヘブライ語では正確にはエホバに近い発音する。
しかしエホバの証人では地球そのものを作ったのはイエス・キリスト。
創世神が直接的に作ったのは天使のみで、地球を作った物質的な活動はキリストが行っているという
階級構造の教えがあったのだけれど、
しかしキリスト教でも他の宗派では、
いや地球のつまり運営を任されたのはルシファー。だけどそれが堕天して
悪魔サタンと化したから、一番忠実だった、末っ子の天使のイエス・キリストに次の地球の運営は任せると約束しているという話を教えているという。
そしたらユダヤ教では、そもそも、霊的な存在は、神と人間の2つしか存在しない。
「そういうようないろいろな話を組み立てていくことが全部が偶像崇拝だ」という教えであるということだった。
え?人間と神以外に霊的な存在ないの?なんかこう、もっといろいろあるんじゃないかなって、
それはそういうもんじゃないのかなって聞いた瞬間モヤモヤと来てしまったのだけれど
ただ、そう、別に新約聖書を読んでいて、いったいどこにそんな話がでてきたのか疑問ではあると思っていた。
イエスが地球が創世される前からこの世を見てた天使だなんてそんな話はどこにもでてこない。
むしろ新約聖書読んでいると、もっとイエス・キリストが人間臭い存在である描写が見てとれるのだけれど
むしろふつうに人間として、というかユダヤ教としての左派のような、
パンクやロックやアーティストに近いような姿勢があるようにしか思えない。ある意味実際新約聖書を読んでいると
イエスのその言動に「なるほど」という気持ちにさせられるものがあるのだけれど
それはその「人間臭さ」からである。
イエス・キリストは自分で文章をなにひとつも残していないとされている。
亡くなった故人が「何も残してない」のを良いことに、さんざん好き放題ああだこうだと話が乗せられている
のがあからさまに2000年間に渡って伝わってきたキリスト教ではないだろうか。
そして正典と外典というのがあるけれど
弟子たちが書いたものの中でも「これは作り話」「これは本物」と勝手なチョイスで
ポーイッと「これはすべてが真実です」「これはすべてがウソです」と分けられるだろうか?
いきなり、あ、やっぱウソウソ!この外典が真実、この正典作り話だった!と無責任にケロッと変えて来るかもしれない。
キリスト教聖書、新約聖書とは何か?という話だけれど
弟子たちの書いた話の中でそんな風なチョイスをとって「正典」という真実とされたものを並べ立てただけにすぎないのだ。
そんな程度で、この世の真実!キリスト教が真実!
ユダヤは古い教えをいつまでも信じている!と偉そうにそれらしく並べ立てているのだ。
これをおかしいと、この2千年間人類が糾弾せずに今のキリスト教が残されてきたのが奇妙だと感じる。
21世紀以降からは実にいろいろなことが科学の力考古学の力でわかってきているのだ。
キリストが活動していたのはたったの3年だったというので仕方がないことかもしれないけれど
キリストの生きた証はいっさい見つかっていないのだという、
それなのにキリスト以前の聖書で書かれている話は、3000年前や4000年前だけれど
確かな証拠が2000年以降、続々と発掘されて見つかっているという。
「ユダヤ教はモーセしか信じていない」という話を聞いたこともあるのだけど
え?モーセしか信じないの?だって神に最終的に罪人とされた人だよ?もっと信じられるものあるでしょう?
という気持ちになるところだけれど
しかしながら。唯一自分の手で「私が残しました」と石版に文字を記して後世に伝えたのがモーセだけだったのだ。
つまるところは。勝手な改ざんをされてるかもしれないという危険因子が少しでも含むものは信じないという
厳格な姿勢を示しているだけなのだ。
そんな厳格な姿勢を持つユダヤ人というのは、19世紀にはノーベル賞受賞者、科学者の8割に達するほど達観しているというわけだ。
そして私がユダヤを知って、私自身がキリスト教の洗脳を受けていた、目が覚めたと実感した部分であるのは
ユダヤでは「神と人間以外の霊的な存在は存在しない」と教えているということだけれど
ひとりひとりが神と繋がりを持って、使命を果たすということをちゃんと信じているのだ。
そしてそれは、実際ノーベル賞受賞者の割合の異様な高さ、という現実的な結果を示している。
私はだからユダヤが唯一の現実主義の宗教だと思った。
しかしユダヤが現実主義の宗教だとユダヤ人学校の最高指導者みたいな立場の人とメールのやりとりをしていて話したら
「それは一般化するべきではない。」みたいなことを言われた。
しっかり否定をするところがまたしっかり現実主義だと思ったのだけれど
(ユダヤ人の人みんな、けっこう「えらそうである」ということを気にしている印象がある。)
逆にユダヤが現実的な宗教に思えない。と言われそうなところだと言えば、
ユダヤ教では厳格に日常で行わなくてはいけない戒律が日常の中で決まっている。
特にカーシェルと言われる規定に沿った食事しかとれないというのが
日本でとてもユダヤ人が暮らせるわけがない、日本で仕事なんかできるわけがない、
日本で仕事をするなんていうのは、宗教を捨てろというようなものだ、無理だろう、と感じる部分であるのだけれど
キリスト教というのはそういうような律法を捨てた宗教である。
しかしイエス・キリストも、律法を捨てさせたというわけではなくて、
「律法をいくら完璧に守っていたとしても、心が悪しき人だったらしょうがない。
それなら心の清らかな戒律を守らない人の方がマシだ。」
とまったくその通りだろうということをただ説き伏せただけだったと思うのだけれど。
しかし何はともあれ、キリスト教は、ユダヤ教ではなく、異邦人の宗教として、ユダヤの律法は守らないという宗教である。
しかしそれはユダヤ人のためではなくて、ユダヤ教を教わることがない異邦人のためにそうしたのだ。
ユダヤ教は布教してはいけない、家族のみに後世に伝えていくという性質のある宗教であるために
そうなると聖書の教えを知るには、ユダヤ教ではなくキリスト教になるしかないため、
キリスト教が自然に広まることも納得ができる。
そしてこれだけ巨大になったやり方をしたキリスト教をつぶしたらまさしく聖書への手がかりがなくなってしまっただろう。
それがキリスト教じゃなければ別の中かとしてでも存在しなければ「家族のみに伝えていく」というスタイルの宗教では
生き残れなかったかもしれない、「異邦人に広く伝える」という分かれて行く派閥がなければ。
だからイエス・キリストが神に選ばれた存在ではなかった。とも思わない。
しかしキリスト教には、「キリストを信じた者は天国に行き、キリストを信じない者は地獄に行く」
という教えがあるため、ユダヤ教のことを「キリストを信じないという地獄行きに決定した人々」だと
執拗に、キリストを信じますと言った途端にドカーンと天国に行き、キリストを信じないと言った途端に
バカーンと地獄に行くという二極しかないという教えを用いているので、
執拗に、ユダヤ人をそういう風にジャッジしたがるという特質を持っている。
これがもし、モーセを信じたものはすべて天国に行き、モーセを信じないものはすべて地獄に行くといったらどうだろうか?
ユダヤには、ひとりひとりが神との直接的なつながりがあり、使命を果たすというちゃんとした教えがある。
個々の運命は、何にも紐づけられず、別々に存在しているという、ちゃんとした現実的な教えがある。
何か「お守り」さえ持っていれば、これですべて安心万歳。なんていうのは、邪推な偶像なのである。
キリスト教というのはキリストをただお守りに見立てた、個人で努力をしない邪推な宗教だ。
私はもしキリスト教の話が本当だと信じるにしても、キリストの話というのは三位一体という話を持ち出した超越した話で、
キリストとは何か?っていうのは
とりあえず隅に置いた方がいい話であると思っている。それよりも、現実にひとつひとつの事柄で、
それは神の目前で正しい行為か?それともそうでないか?というのが存在している。キリストの話はいちど忘れないと
その純粋性が理解できないという頭のこじらせた話にしかならないだろうと思う。
ユダヤには。具体的に現実的に生活の中で神の話を教える。知恵があると思う。
「キリストを信じた者は天国に行き、キリストを信じない者は地獄に行く」という二極化を用いるのは
人間の個々という存在を小さくし、宗教そのものを崇めさせて、宗教そのものを大きくさせる洗脳手段として順当なやりかただろう。
そして。ユダヤ人の方が嫌悪していたキリスト教の教えなのだけれど
いきなり人に「あなたは罪人だ!」と言って「懺悔しろ!」という
いやしい、キリストを信じなければ救われない小さな存在だと相手をまず見立てて説教を垂れ始めるのがキリスト教なのだ。
それからキリスト教は押しつけがましい。という。
実の所、キリスト教の一部では、異邦人がいくらキリストを信仰するなどと言っても意味がない。
神の民族であるユダヤがキリストに気づかなければ世界は動かないのだ!と信じているひとたちがいる、
なのでユダヤ人だと見るなり積極的にキリストの話をする人がいるのだと思うけれど
これもキリスト教が聖書を改ざんしている節があるのだという。
将来、ユダヤ人たちが異邦人たちを救うために現われる。という預言を、
将来、キリストがユダヤ人たちを救うために現われる。という風にキリスト教がむしろ
ユダヤ人の世界という風に見立てて改ざんしているという。
そう。聖書のユダヤ民族。という話を、キリストという風に置き換えているのだという。
ユダヤは他民族を受け入れない、不寛容な宗教ではなくて、
むしろ他民族を救うために神に作られたのがユダヤ民族なのだという。
ユダヤと聞いた時に、「キリスト」という気味が悪いくらいに混乱が起きる理由がここにあるのではないかと思う。
実際、このインターネットという発展も、世界最先端技術が発展する時にはそこにユダヤ人の影があると言われている。
ユダヤ人は実際、世界に貢献を齎している。
それなのにユダヤ人が嫌われるのは、このキリスト教という厄介な宗教によるねじまげた改ざんのせいによる部分も大きいといえる。
そしてそれならそんなキリスト教ではいたくない。しかしユダヤ人になるというのは到底難しいことであり
神の目前で居る人々はユダヤ人だけでその他の人々はみんな「異邦人」なのか?と反感を感じる人もいるかもしれない。
しかしそもそも今現代に生きている人はみんな神に選ばれたノアの子孫であり、本来純粋性ではみんな
神に仕えている、神の目前の存在であるという教えがある。みんなひとりひとりが神の意志を持った使命を持っているという教えだ。
その純粋性というのがいかにして失われて行くのか。
七つの大罪という言葉だけは聞いたことがある人が多いだろう。
この世のすべての人はノアの子孫であり、神に選ばれた末裔であり。ただ七つの大罪を避けるだけで良い。という教えだ。
それは日本ではなじみがない『ノアハイド』という言い方をされる。
これは『キリストを信じれば天国に行き、キリストを信じなければ地獄に行く』キリスト教では聞かない、
ユダヤ寄りの言い方だ。キリストを信じるかどうかではなく
「あなたはノアハイドでいるのかどうか?」という問いかけになるわけだ。
そしてこの七つの大罪には「偶像崇拝をしてはいけない」という教えがあり、
キリストに祈りをささげることで、仏像に祈りをささげることで、『偶像崇拝』している人間は駄目だという話だ。
日本の宗教は、神道・仏教・キリスト教。宗教のすべてが偶像崇拝という偶像崇拝でできていて
日本人で宗教といえば=で偶像を崇拝する話しか持ち出せない頭に洗脳されてしまっているのだ。
ある意味日本人に「宗教は全部糞だ」という前提があるのは無理もない。当然のことだ。
本来宗教の話を持ち出さなければ自然に持っている神の目前でいる純粋性を自ら
宗教という話を持ち出すことで破壊しているのだから。
そして日本で神という話をすることは、とても居心地が悪く、伝わりにくい言葉と化している。
日本で宗教の話を持ち出すことは、自らノアハイドでいることを捨てている。
さきはカバラという話を持ち出したけれど。こっちの言い方の方がまず一般的な、正しい言い方だろう。
そして日本以外では宗教といえばもっと柔軟な、現実的な意識のある、いろんな話をしていると感じるのだけれど
イスラエルの機関の方でも、一神教であるという定義に厳密に認められたユダヤ以外の宗教が
むしろイスラム教の方であり、キリスト教は偶像崇拝に当てはまるから認められないとされているという。
ユダヤ教にとってキリストはどんな存在なのか?という話であるけれど、
そう、イスラエルでは、イスラム教は認められているけれど。キリスト教は認められていない。という節もある。
日本人からすればショックな話だろう、多くの時間を学校にいけ!仕事をしろ!と費やされ、
宗教なんぞ信じるな!存在するな!と扱われる中で、やっと神の話という、教養があると知ったところで
選択肢は、神道・仏教・キリスト教。やっとそれらしいと思えるキリスト教にたどりついても、それを否定されるのだから。
しかし私は日本は世界最低のEQを持つ国だということを実感している。執拗に人の底意地が悪い。
まさしく「神の教養」という前提を、あべこべにしたような
執拗な不躾なコミュニケーションしかとれない人間しかいないように感じるのだ。
神の教養を執拗に遠ざけた民族だと感じている。
人の話を聞く時。相手が何が言いたいのかを知るには、まず自分の前提を否定しきらないといけない
日本人でその努力できる人が執拗にいない。執拗に自分の中の関連を引き出して相手に押し付けようとする人しか
100%か100%の割合くらいでしかいないのだ。信用できる人、話の通じる人を見つけることができる可能性は
残念ながら0%から0%の確立くらいの間でし見つけることができない、コミュニケーションを計ることにおいて、
日本人に対しては絶望することしかできないと感じている。それは単純に、「神の教養」が失われているからとしか言いようがない。
私はユダヤ人というひとたちがいると知った時に、はじめて自分と同じ教養があるひとたちがいる知った感覚がした。
例えば私はこう思うのだけれど、私はここまで長々とした文章を書いたわけだけれど
同じ日本人であっても、同じ日本語を話している人は決していない。ひとりひとり違う言語を話している。
一度として同じ話が話されたことがない。それを感じることができているだろうか?ざんねんながら
多くの日本人に長文を読んでもらうことを試みたのだけれど、自分の中で存在している自分の視野での関連を見つけて、
どれだけ長い文章を書いても相手の話をどうしたら自分の知ってる小さな話に置き換えられるかしか想像することしかできないのだ。
日本人は、他人の精神の繁栄を攻撃する頭しか持っていない。私はたったひとりで、信用できる日本人は
ひとりも存在せず、たったひとりで、無駄に日本語のスペシャリストになり、こうして日本語で長文を書いているのだけれど
なにか報われることがあるだろうか?と疑問に感じている。
ユダヤの教育でも、ひとつとして同じ事例はなく個々を分別するという、そういう教育はあるのだという話を聞いた。
日本人はまさしくユダヤと対極で「みんな同じ」だとひとまとめにしようとして、その心の教育が損なわれている。
「ユダヤ教育」という言い方があるけれど、まさしく日本とあべこべなのだ。
日本人は外国語の習得が苦手だというけれど「自分と違う!」って感じたときのパニックが大きいのではないかと思う。
もちろん、1から100まで、ひとつでもあなたと共通点あったことないけど?と言いたいところだけれど
どうしてそれが日本人にとっては、喧嘩にならなくてはいけないのだろう?こんな恐ろしい民族だけは
本当に相手にできないと思っている、私は1から100の事項を挙げて、そのひとつでもあなたと共通点はないだろう、
それを受け止めてくれるっていうのが。私という他者に対する『礼儀』と『愛』ではないのか?
それが理解できない日本人という人種は精神的な攻撃マシーンの悍ましい民族にしか見えない。
だから日本人という人種は、「キリストを信じれば皆一緒ミンナイッショミンナイッショ」という悍ましい
精神破壊マシーンであることを思いついた時のみ瞳を煌めかせて突進することぐらいしかできない知能しかないように感じる。
日本人の知能でもキリスト教は浸透できたのだろうと思える。
聖書議論というひとつでも、海外ではもっと豊かないろんな話を個々でしているという事実を
日本人はちゃんと知らなくてはいけないだろう。
日本人でヘブライ語がわかるキリスト教と言えば、とてもお偉い専門の人かのような印象を受けるかもしれない、
しかしそもそもイスラエルという国では全員がヘブライ語を話すのだ。
割と最近知って、最近見たものだったのだけれど
Redditという海外のSNSがある。
facebookのようなものだと思う。そこにあるJudaismというコミュニティがあって
異邦人が横からユダヤとはなんなのかってぶりぶり話しているような質の悪い物とは違う
実際にユダヤ人のひとたちが、インターネットのこういうコミュニティサイトを使って、
聖書に対する議論をいろいろと心行くまで話したりしているのだけれど、
これが、最近、日本語で自動的な翻訳された状態で表示されるようになった。
ユダヤ関係の検索を日本語でした時に、たどりついてその話を日本語で読んで、
時代はここまで進んだのかという気持ちになったのだけれど
中では自分は超正統派だ。と自己紹介しているひとたちもいるし、
え?超正統派ってインターネットって触ってよかったんだっけ?とか驚くくらいに
まじめな話をしっかりと話し込んでいる、これがSNSでの質問と回答なのか?という、
日本では聖書を教えている側だという偉そうな立場のキリスト教徒の何者かの人がもっと質の悪い質疑応答しかできないだろう。
それをユダヤでは『単なる個人』がインターネットの質問と回答。という形で
ここまで話し込んでいるのかと目を見開く気持ちになった。
神様の民族とはまさしくユダヤのことで、日本人のキリスト教というのがいかに底辺かがわかるはずだ。
だから聖書はユダヤ人の者である。という事実を日本人はもっと知らなくてはいけない。
恥知らずな日本の底辺のキリスト教の団体に任せてはいけないと思ってる。