こんにちは。Reiです。
私はカウンセラーとして、就労移行支援所で多くの方と関わる中で、「発達障害」という言葉に少し違和感を抱くようになりました。診断名として必要な場面もありますし、この言葉があることで安心できる方がいることも、もちろん理解しています。けれど実際にお会いしてきた方々の姿や、脳の働き方を調べていく中で、「障害」という言葉が本人のイメージより先に独り歩きしてしまっているように感じる場面が増えてきたのです。
本来は“発達の偏り”や“脳の個性”とも言える部分が、社会の仕組みとのミスマッチによって「困りごと」として現れているだけなのに、言葉の印象が強すぎて、自分を必要以上に否定してしまう人も少なくありません。
今日は、私が日々のカウンセリングの現場で感じてきたことや、発達特性の背景にある脳の仕組みについて深掘りしたことをもとに、「発達障害」という言葉を少し別の角度から見てみるお話をしたいと思います。
1. 発達障害という言葉が生まれた背景
「発達障害」という言葉は、もともと“支援につなげるための仕組み”として発展してきました。特性によって日常生活に困りごとが生じている人へ、必要なサポートや制度を届けるための“入り口”として、医学・教育・福祉の分野で使われ始めた言葉です。
背景をたどると、1970〜80年代ごろまでは発達のつまずきや特性はもっと細かく分類されており、名称も現在とは異なっていました。しかし、診断名がバラバラであったことで支援につながりにくい状況が生まれ、社会全体で枠組みを整理する必要性が高まっていきました。そこで2000年代に入り、制度や法律の整備とともに、それらをひとまとめに扱う言葉として「発達障害」が広く使われるようになったのです。
日本では特に、診断名があることで就労支援や福祉サービスにつながりやすくなるという制度上の事情があり、「発達障害」という言葉は“支援を受けるための通行証”のような役割を果たすことも少なくありませんでした。この点が、海外で個別の診断名だけが使われるケースとは大きく異なる、日本特有の事情といえます。
ただ、その日本独自のまとめ方が、時に大きなラベルとして強く印象づけられてしまい、“その人の能力や人格”と結びつけられてしまう場面も増えてきました。本来は脳の働き方の特性と環境のミスマッチによって生じる困りごとに名前をつけただけなのに、“障害”という言葉が一人歩きし、本人の自己評価を押し下げてしまうことがあるのです。
私が就労移行支援所で関わってきた多くの方々も、「診断がついたから困っている」のではなく、「診断名をどう受け止めたらいいのか」「社会の仕組みと自分の特性が合っていないことがつらい」と感じています。本来は支援につなげるために生まれた言葉が、時には“生きづらさを大きく感じさせてしまうラベル”として作用してしまう――この現象こそが、私が現在の「発達障害」という言葉に違和感を覚える理由のひとつでもあります。
2.発達障害の理解はここまで進んでいる
発達特性についての理解は、この20年ほどで大きく進んできました。かつては「できないこと」「問題行動」と捉えられていたことが、実は 脳の情報処理の特徴 によって起きている自然な反応であることが、研究の進展とともに明確になってきたのです。
たとえば、注意が散りやすい、物事に強く集中しすぎる、音や光に敏感といった特性は、“性格”ではなく 脳の配線(ニューロンのつながり方)の違い によって説明されるようになりました。こうした科学的な理解の進展によって、以前よりもずっと「特性」として扱われるようになり、本人の努力不足として責められることが少なくなっています。
また、日本では「発達障害」という枠でひとまとめにされがちな特性も、国際的には ADHD(注意欠如・多動症)・ASD(自閉スペクトラム症)・SLD/LD(限局性学習症/学習障害)・DCD(発達性協調運動症) といった具合に、それぞれまったく異なる神経学的背景を持つものとして扱われています。これは、海外では“発達のちがいをまとめて一つの概念にする”という考え方がもともと存在しないためです。
発達特性を持つ人は「発達の障害」ではないという考え方
近年広がっている理解では、発達特性のある人は“発達が遅れている”のではなく、発達の質が違っているだけ と捉えられています。つまり、困りごとが生じるのは本人の能力の問題ではなく、環境のほうがその特性に合っていないからです。
この考え方は、発達特性を持つ方と実際に関わっていると非常によく実感します。特性そのものは「できる/できない」という単純な話ではなく、脳の処理の仕方・注意の向き方・刺激への反応のしやすさ など、あくまで“脳の得意・不得意のパターン”として現れているだけなのです。
たとえば、集中しやすさ・敏感さ・独自の発想力・深いこだわりなど、特性の多くは本来プラスにもマイナスにも働きます。環境や関わる人との相性が合えば強みとして発揮され、合わなければ困りごととして現れるだけなのです。
さらに近年は、脳科学の研究によって「発達特性があるから能力が低い」という考え方が誤っていることがより明確になってきました。脳の回路のつながり方が違うことで、情報処理のスピードや手順、得意な認知スタイルが独自の形で表れる という理解が広がっています。
このように発達特性は“障害”ではなく、その人が持つ脳の特徴が、環境によって強みや困りごととして見えるだけ という見方が主流になりつつあります。
ニューロダイバーシティという考え方
こうした理解が広がる中で、ニューロダイバーシティ(神経の多様性) という概念が注目されるようになりました。これは、脳の働き方の違いを“障害”としてではなく、人間の自然なばらつき・多様性のひとつ として捉える考え方です。
ニューロダイバーシティの考え方が広がった背景には、IT業界や研究者、当事者コミュニティの発信があります。特に自閉スペクトラムの当事者が、自分たちを「治すべき存在」ではなく「固有の神経スタイルを持つ人」として尊重してほしいと声を上げたことが大きな転機となりました。
この概念では、発達特性を持つ人を「欠けている人」ではなく、独自の視点・集中力・想像力・問題解決スタイルを持つ存在 として捉えます。たとえば、ASDの人が持つ“深い集中力”や“パターン認識の鋭さ”は、芸術・研究・プログラミングなどの分野で大きな強みとなりますし、ADHDの人の“瞬発的な発想力”や“行動力”は、企画やクリエイティブ分野で生きやすい特性として作用します。
またニューロダイバーシティは、“脳の特性そのもの”ではなく、その特性を社会がどう扱うか にも焦点を当てます。つまり、「困りごと」や「生きづらさ」は個人の能力不足ではなく、環境がその人の脳の働き方に合っていないことで生じる現象 と考えるのです。これは、環境調整や周囲の理解があれば、その特性は十分に力を発揮できるという前向きな視点につながります。
さらにニューロダイバーシティの大事な前提として、「みんな違う」 という考え方があります。これは、発達特性のあるなしに関わらず、そもそも人間の脳の働き方は一人ひとり異なるという視点です。
つまり、ニューロダイバーシティは“特性のある人だけを特別視する概念”ではなく、全員が違う神経スタイルを持っていて、その違いを前提にした社会をつくるべきだ という大きな枠の考え方なのです。
誰もが得意・不得意を持ち、刺激に敏感な部分や鈍感な部分があり、集中しやすいことや物事を深く考えすぎる癖もあります。これは発達特性のある人だけではなく、すべての人に当てはまる“脳の個性”の話 です。
だからこそニューロダイバーシティでは、「特性を持つ人」と「持たない人」という線引きさえも曖昧で、むしろ 連続したスペクトラムの中にみんなが存在している と考えます。
この視点が広がることで、「特性があるから生きづらい」のではなく、その違いに社会がまだ十分に寄り添えていないだけ という見方が自然と受け入れられるようになってきました。これは、環境調整や周囲の理解があれば、その特性は十分に力を発揮できるという前向きな視点につながります。
この考え方は海外だけでなく日本でも徐々に広がり、学校教育、企業のダイバーシティ施策、福祉の現場など、さまざまな場所で価値観の変化を生み始めています。
3.海外での表現と文化の違い
海外では、日本のように発達特性をまとめて「発達障害」と呼ぶ文化はほとんどありません。もともと海外では ADHD(注意欠如・多動症)・ASD(自閉スペクトラム症)・SLD/LD(限局性学習症/学習障害)・DCD(発達性協調運動症) などがそれぞれ独立した診断名として扱われてきたため、「発達のちがい」という大きなくくりを作る必要がなかったのです。
そのため、海外の人が自分の特性を説明するときは、
-
“I have ADHD.”
-
“I’m autistic.”(私は自閉スペクトラム特性がある/私は自閉タイプの人間です)
のように、個別の特性名をそのまま使うのが基本 です。
現在のトレンド|より柔らかい表現へ
近年は、医学的な診断名をそのまま使用するだけではなく、より柔らかく・偏見を生まない表現を選ぶ動きが広がっています。たとえば、
-
neurodivergent(神経のタイプが多様な人)
-
neurotype(神経のタイプ)
-
developmental differences(発達の違い)
といった表現が日常会話やメディアでよく使われるようになっています。
これらの表現には、“障害”という言葉に伴うネガティブなニュアンスを避け、脳の違いを自然な多様性として扱う姿勢 が込められています。
海外ドラマにみる自然な表現
海外ドラマには、発達特性を“障害”として重く扱わず、その人の認知スタイルとして自然に描く作品がいくつもあります。ここでは代表的な例を3つご紹介します。
■ エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY(Elementary)
主人公シャーロックは、自身の特性を “distraction management(自分の注意散漫をよく観察しながら扱う工夫をしている)” と表現します。診断名を使うのではなく、自分の特性をどう扱っていくか という視点が根付いているのが特徴です。
■ ビッグバン★セオリー 〜ギークなボクらの恋愛法則〜(The Big Bang Theory)
シェルドンは作中で診断名を明言されていませんが、ASD的なこだわりや感覚の偏り、独特な対人スタイルが自然に描かれています。周囲の仲間たちがシェルドンの特性を“個性”として受け止めている描写が多く、ラベルに頼らない海外文化の好例と言えます。
■ グッド・ドクター 名医の条件(The Good Doctor)
主人公ショーンは自閉スペクトラム症とサヴァン症候群の特性を持ちながら外科医として働いています。特性による困難と同時に、強みが医療現場で大きな力になる描写も多く、ニューロダイバーシティの視点が分かりやすい作品です。
これらの作品に共通しているのは、特性を病名として“重く語らない”点です。海外では、特性をその人のスタイルとして自然に扱い、困りごとがあれば工夫し、強みがあれば伸ばすという柔らかい視点が広がっています。
その他の海外の例
教育分野では “learning differences(学び方の違い)”、職場では “work style differences(働き方の違い)” といった表現を使い、特性がある人を特別視するのではなく、誰もが違う前提で環境を整える ように工夫されています。
また、当事者コミュニティでは “I’m autistic.” と自称することが尊重されるなど、診断名をアイデンティティとして肯定的に受け止める傾向も広がっています。この点は日本との大きな違いであり、“特性をどう呼ぶか”に対する価値観の多様性が豊かに存在しているのが海外文化の特徴です。
まとめ|「発達障害」という言葉に振り回されなくていい
ここまで、言葉の背景・理解の進化・海外での扱われ方を見てきましたが、今回読者の皆様に伝えたかったのはひとつだけです。
「発達障害」という言葉に、あなた自身の価値まで決めさせなくていい。
私はカウンセラーとして、就労移行支援所で多くの方と関わる中で、本当に多くの「言葉に苦しめられている人たち」を見てきました。診断名が本人の気質や努力とは関係のない“脳の処理の特徴”であるにもかかわらず、強いラベルだけが先に広がってしまい、必要以上に自分を責めてしまう方がとても多いのです。
でも本当は――
-
発達特性はその人が悪いわけではない
-
「障害」かどうかは環境との相性で決まる
-
そもそも脳の働き方は全員違う
-
海外では特性を重く扱わない文化が広がっている
-
特性を呼ぶ言葉すら、自分で選んでいい
この“当たり前の事実”を知るだけで、生きづらさは少し軽くなります。
そして、読者のあなたがもし「発達障害」という言葉に違和感を持っていたとしても、逆に「その言葉で説明すると安心する」という場合でも、どちらも間違いではありません。
大切なのは、どの言葉があなたの心にとっていちばん優しいか。
言葉は本来、あなたを縛るためのものではなく、あなたの理解を助けるためにあるものです。だから、自分の特性をどう呼ぶかは、あなたが決めていいのです。
今回の記事は、私自身がカウンセリングの現場で見てきた“脳の仕組みと人の生きづらさ”のリアルと、そこから感じた違和感をもとに書きました。もし、あなたが自分の特性や診断名との付き合い方で悩んでいるなら、いつでも相談してくださいね。あなたの感じていることは、必ず整理できますし、ひとりで抱える必要はありません。
毎月先着5名様まで
60分3,000円(税込)
↓
なんと今だけ!
カウンセリング初体験
応援キャンペーン
【超特別価格】
60分:1,500円(税込)
【さらに特別プレゼント!】
あなたのこころのタイプ診断書
差し上げます
