竹生島の歴史をひも解く

竹生島の歴史をひも解く

滋賀県長浜市、琵琶湖の竹生島に残された古文書『竹生島宝厳寺文書』に記された歴代の寺僧等の事績を明らかにすることによって、謎多き竹生島の歴史の一端をひも解きます。学術論文を目指していません。私が知っている竹生島の歴史を後世に残したいという一心で書いています。

 惣持寺第7世で西方院初代となった実英〔大永5年(1525)94才で入寂〕は、近江国高島郡海津に西方院家を開基した。実英のこの行動は、彼の師匠であるアクティブ実雄(竹生島常行院中興祖、神照寺無量寿院創建、惣持寺第6世)の影響が大である。実雄が「竹生島真言始祖」と呼ばれる所以である。

 その後、西方院第3代の伝清(惣持寺第8世実意の弟子)は、根来寺律乗院の忠雄から付法を受けるなど新義真言宗の教学を深めていく。

竹生島祭礼図(東京国立博物館蔵)複製

赤矢印が西方院

 

 西方院4代目及日は海津にあった西方院を竹生島に移転させた。戦国の戦禍から逃れるためか?時に天文23年(1554)から永禄元年(1558)の頃と思われる。竹生島に初めて真言宗の院坊が成立したのである。だが、竹生島全山が真言宗になったわけではない。当初は、あくまで西方院一院だけが真言寺院であった。

 その後も、西方院第10代幸誉の時代まで惣持寺との繋がりを維持していたが、第11代の祐尊が何らの故障により島を出て菅浦に芲蔵坊を構えることになり、わずか約100年間で西方院は廃絶することになった。しかし、竹生島初の学頭として全山に及ぼした影響は極めて大きい。西方院の100年は、後に全山新義真言宗となる道を開いた100年であった。