3月の下旬、スーパーの帰り道。
いつも通りの様でいて少し違う並木道。
桜が、満開だ。
優しく肌をかすめる風にもう春なのだな、と感じる。
春といえば出会いと別れの季節とも言うが、社会人2年目から3年目になる私にはたいして変化は訪れない。
近くの公園から、子供たちの楽しそうなはしゃぎ声が聞こえる。
このふわふわとした雰囲気が、ずんと重くのしかかってくる。
周りが浮かれれば浮かれるほど、自分だけが取り残されて深く沈んでいくように思える。
たかが春だ。こんなもの毎年やってくる。
それなのに周りの人間たちはこれから迎えるであろう新しい生活に期待をした輝いた目をしている。
いざ迎えてみれば思ったほどの感動もなにも無いというのに。
ああ、いらいらする。
何がそんなに楽しいのだ。どうせすぐに現実に突き戻される。
ならば最初から期待などしないほうが良いだろうに。
500mほどの並木道が、今日はいつもより長く感じる。
その間にも美しく咲き誇るさくらはひらひらと可愛らしげに花びらを散らし私の視界をピンク色に染める。
自分はひねくれた考え方をしている、その自覚はある。
ただ少し疲れすぎているのだ。
毎日早起きして会社に出勤して上司に怒られながら大量の責務をこなし、家に帰っても掃除洗濯料理の家事の山。
だから周りの浮き足立ったムードが許せないのだ。
もう、早く桜が散ってしまえばいいのに。
電車が来て、ドアが開く。人が降りるのを待ってから乗り込む。
入って正面左側の真ん中、手すりの横の席が空いていた。少し待って誰も座ろうとする人がいないのを確認してから、そこに座る。間も無く発車メロディーが流れ、扉が閉まり電車が発車する。勢いで身体が少し右に傾いた。

手提げ鞄の中からペットボトルを取り出し、半分ほど残っていたミルクティーを一息で飲み干した。
空になったペットボトルを鞄に戻し、アナウンスを聞きながらぼんやりと広告を眺める。が、どれもよく頭には入ってこなかった。
何気無く目線を下げると向かいの席の会社員らしき男性と目があってしまったので更に下を見た。自らの膝、鞄、その上に組んだ手が見える。

一度、ぎゅっと目を閉じた。目の前は真っ暗になった。それから白や赤のバチバチした光のようなものが瞼の裏で暴れる。その状態のままグッと肩をあげ大きく息を吸った。目を開けて、ゆっくりと吐く。すると、頭にかかっていた霞のようなものが晴れてやっと冴えてきたような感じがした。
ふと、顔を上げ正面を見据える。また会社員の男が私を見たような気がしたが、私はさらに奥を見ていたので目は合わなかった。見つめる先の奥の奥、ずっと遠いところにさっきまでいた劇場の舞台がフラッシュバックして見えた。

「…凄かった」

20分遅れでやっと言葉が出てきた。実に約3時間ぶりに発した言葉である。
気付けば、周りの乗客達が一斉に訝しげな目を私に向けている。どうやら思ったよりも大きな声で言ってしまったらしい。ばつが悪いので再び自分の手を見る。
それにしても、なんて劇だ。素晴らしいとか、カッコ良かったとか、そういうものでは無い。
凄い、スゴイ、すごい。言葉で表すとただ凄いとしか言えない。こんなに胸がざわつくのは大学の合格発表以来だと思う。

もう。そう、そうだ。
なんだ、あれは。
彼は一体、何者なんだ。



視界の縁に涙が滲む
喉の奥がじわじわと熱くなり声にならない言葉で詰まる。
歩むペースが若干落ちる。
ほんの些細なことにも打ちひしがれ、もういっそ死んでしまいたいとさえ思ってしまう。
そうなればもう、感情は負の方へと転がり雪だまのようにぐんぐんとかさを増してゆくばかりである。
ついに涙は頬を伝い地面に落ちたが周囲の人の視線など私には気にする余裕もなく、濡れた瞳を拭うことさえしなかった。
喉いっぱいに詰まった言葉はもう押さえつけようもなく、嗚咽という形になって口から漏れた。