1960年代初頭の日本の厚労省は、発展途上国並みの対応で、毒性のあるサリドマイドを許可し続けていた。その後押しもあり、大日本製薬も胃薬にサリドマイドを混ぜて販売続行。
これまでの経過・・・
1961年11月26日

西ドイツのG社は、世界中で販売されていた自社製のサリドマイドの販売中止、そして全サリドマイドの回収を発表しました。
ですが、日本では、レンツ医師が発したサリドマイドには薬害があるという警告に対し、科学的根拠がないと、販売継続を許可。
つわりに効果があると信じてサリドマイドを服用し続ける妊婦。胎児が耳、腕、足を失うとは知らないまま・・・
12月4日
西ドイツのG社が、日本で販売されていた自社のサリドマイドを回収すると通告してきました。
が、無視する厚生省と大日本製薬。
▼ 劣悪西ドイツ製薬会社と無能な大日本製薬
1962年
1月12日 - 自社製のサリドマイドを販売していた大日本製薬は、学術課長を西ドイツに派遣します。
学術課長:大学や研究機関において、学術振興、研究支援、地域連携、カリキュラム評価、学生指導など、学術・教育に関する幅広い事務・企画を統括する管理職

学術課長は製薬会社を訪問し、レンツ医師と会えるよう斡旋を依頼しました。
が、レンツ医師とは敵対関係にあった製薬会社は、「レンツ医師が、一〇〇の日本人に会うわけがない」と斡旋を断ってきた。(〇の部分は、写真記事の文字が不鮮明で解読不能)
1月30日 - 同課長は、レンツ博士と面談することができないまま、ドイツ製薬会社から渡された「レンツ博士の警告には科学的根拠がない」という見解を携えて帰国。
★ 後の国家レベルでの裁判では、レンツ医師は、日本側からの接触はなかったと証言しています。もしも北里柴三郎だったら、自らレンツ医師の研究室のドアをたたいていた!
▼ サリドマイドの後発薬を許可した厚労省
2月6日 - 厚生省が大日本製薬から報告を受け取る。
2月 厚生省は、別会社が申請していたサリドマイドの後発薬の販売を許可。
後の裁判で、当時の製薬課長は、後発薬を認可した理由を問われて、「(責任者として自ら決裁したことを)覚えておりません」と証言。
▼ 厚労省の隠ぺい工作?
5月 厚生省は、再び別会社の後発薬を認可。その頃は、大日本製薬のサリドマイドの出荷停止をするかどうかを検討していた時期。なぜ許可したのかは不明。
後の証言では、この情報は、故意に国民に伏せてきた。
▼ マスコミの力
5月16日 新聞でサリドマイドの被害が報道される。
5月17日 - 大日本製薬が、製品の出荷を停止。
朝日新聞夕刊のスクープ記事「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」が、日本におけるサリドマイド事件の第一報とされる。
大日本製薬は、サリドマイドの出荷は停止したが、薬局などからの回収はしなかった。なので、サリドマイドは普通に販売され続けていた。
◎ レンツ医師が警告し、西欧諸国でサリドマイドの販売中止と回収が行われたのは、1961年11月。
日本は、販売し続けた。結果、1962年から1969年まで、死産、奇形児出産の被害が続行した。

▼ マスコミは・・・
5月18日 - 朝日新聞は朝刊記事「イソミン問題の背景」に「悪影響の実例、日本ではない」と記し、日本国内のサリドマイド被害者の存在を否定[。
5月25日 - 厚生省からの通達は、「サリドマイド製剤について」、「国内ではまだ患者についての報告が一件もない」。
5月29日 - 大日本製薬は、新聞各紙に鎮静・催眠剤「イソミンについて」謹告を掲載。
「妊娠初期三ヶ月の御婦人は、この間のみ服用をさけられた方が望ましい」。
結局この時点で、販売中止の決定はなされなかった。それまでに出荷された製品は回収されることなく、店頭でも販売され続けた。

▼ マスコミ
あのとき、マスコミは、大衆の見方だった? 敵だった?