潰瘍性大腸炎 & クローン病&過敏性腸症候群の改善・完治・根治

潰瘍性大腸炎 & クローン病&過敏性腸症候群の改善・完治・根治

                               ★ 仲間同士の情報交換サイト! ★

メリークリスマス!

 

バンクーバーのクリスマス ナイトマーケット

 

白人よりもアジア人、中東人が多いバンクーバーでは、メリークリスマスのあいさつはほとんど聞かれず、

ハッピーホリデーが主流になっています。

 

キリスト教以外の人にとっては、プレゼント交換の日。

 

職場パン部門も、見回せば、クリスチャンはひとりだけで、仏教3人、神道ひとり、アラーひとり。

なにはともあれ、プレゼント交換は楽しい!!

 

バンクーバーのクリスマスは、11%の確率でホワイトクリスマスとのうわさありで、楽しみです!!

 

◎ 雪のマークとホワイトクリスマスの確率。多くの都市が高確率!!

Historical white Christmas

 

ドイツのヤン・シュルテ・ヒレン医師は、ドイツ国外の78か国で病気やけがをした自国民の飛行機による輸送を担当。各国厚生省や外務省、病院との橋渡しという重要な任務を12年に渡り担当。

スイスでは、救急病院に勤務。

インドネシアで地震と津波があった時は、現地に派遣されました。

 

 

ヒレン医師の父親は弁護士。サリドマイド訴訟で10年以上も戦っていた。そのきっかけは、息子であるヒレン医師と姪がサリドマイドの薬害を受けたため。

 

◎ セスナ機のパイロット ヒレン医師

 

 

スイスの緊急医療病院に勤務していたときの写真には、白衣に身を包み、聴診器を胸にした笑顔のヒレン医師が映っていました。

腕の長さがほんのわずかなのに、緊急医療医が務まるわけがない。偽物の写真だと思ってしまい、保存しませんでした。

そのあと、記事をよく読んだら、薬害の被害者のヒレン医師だった。写真、探しましたが、みつからない・・・。

 

▼ 

2007年に西ドイツでヒレン家族と裁判のドラマがテレビで2日間に渡り公開されました。

ヒレン医の子ども時代を演じたのは、女の子、DNAの関係か腕が生まれたときから短かった。女の子を含め主役は名演技で、その年のテレビ放映最優秀賞を受賞しています。

 

 

▼ 裁判は一方的に打ち切り

西ドイツは、サリドマイドの開発販売会社があったことから、世界でとびぬけて被害者が多い国でした。

サリドマイドをめぐる1960年代の裁判は、G製薬会社と司法が結託し、10年後に途中で打ち切られてしまいました。信じられないことです。

裁判中は、身体に損傷を受けた子どもたちは補償金を一切もらえず、親たちは経済的な負担を強いられていました。

その後、賠償金は支払われましたが、先進国の中ではもっともひどい条件でした。

 

2007年当時、サリドマイド事件について知っている人はほとんどいませんでした。ですがドラマが公開されたことで、事実を知った国民が怒り、賠償金が2倍になりました。

 

▼ メッセージ

ヒレン医師は、こう語っています。

みなさん、気をつけてください。

わたしは、睡眠薬による被害を受けただけのことです。

 

腕が短いのは、やっかいですが、車も運転するし、バイクにも乗れる、スキーもします。

結婚し、息子がふたりもできました。

セスナも操縦できる。

 

足がなくて、床を転がってでしか移動できない人たちに比べば、幸運です。

 

注意するべきことは、サプリメントや栄養健康剤、体内に埋め込む人工関節などは、十分な治験を行っていないということです。

▼ 裁判

G社は、多数の障害児出生は、神のなされた業と、一環として無罪を主張。

被害者に内密でこそこそ政府側と協議。

訴えられた幹部の9人に死亡者が増え3人しか残らず、そのうちのひとり会社トップが病気に。このため、裁判が途中で打ち切られてしまった。

 

賠償金が払われたようだがわずか。後に、この事件を扱ったテレビドラマが公開された。大部分の国民は事件のことを知らず、大きな反響が起き、賠償金が2倍になった。

 

加害側は、被害を起こしたことで裁判の時には倒産してしまった会社もある。

一方、大躍進し続ける会社もある。でも、和解したことで、被害者を追加でサポートはしない?

 

オーストラリアは、判決が出るまで40年間、賠償金をまったくもらえなかった。

 

カナダは100人が悲惨な生活を強いられ続けている。

 

胎児を死亡、奇形に追い込んだ世界的な薬害事件サリドマイド。

裁判はどうなったのかですが、各国ごとに費やした年月と保証の度合いが違う。

 

1963(昭和38)年5月以降、全国で訴訟となり、10年後の74年10月、東京地裁で和解が成立した=大阪市東区(現中央区)の淀屋橋。

被害者は、10年間、なんの賠償金も受けられずに過ごした。

 

訴えられていた大日本製薬と政府は、無罪を主張。

 

◎ サリドマイド事件 朝日新聞記事から

1973(昭和48)年10月4日、タスキをかけて、プラカードを掲げ、薬害の原因となった睡眠薬を製造した大日本製薬(現大日本住友製薬)までデモ行進するサリドマイド被害児や家族、支援者たち。

 

 

74年に、大日本製薬と政府は、いきなり被害者の主張を全面的に認め、和解が成立。

この直前に西ドイツは裁判を打ち切っており、日本の患者は負けると思っていた。

なにかひどく不利な証拠が陰でみつかり、和解へもっていった方が傷が浅いと決断?

 

被害者の福祉センターとして財団法人いしずえが設立された。

 

▼ 結論

感想としては、どんなにたくさん人の命が奪われても、ひどい後遺症が残っても、医薬会社は罰せられない。国も責任を問われない。

 

なぜ罰せないかというと、故意に殺害したり障害を起こそうとしたわけではないから。

また、医薬会社が罰せられてしまうと、新薬の開発に消極的になり、医療の発展を阻害するという考え方がある。

 

被害者は、加齢に伴い副作用が悪化したり、見えなかった障害が現れ、苦渋の人生を強いられるようになる。でも、それを十分にカバーする保証が受けられるのかは不明。

 

薬を利用する人、患者は、万が一、薬害が起きたときは、裁判は長期化し、さらに、賠償されるのかどうかは不明ということを知っておく。

壊れてしまったからだや機能が戻ってくるかどうかも、不明。

 

サリドマイド事件と、コロナウイルスのワクチンで被害を受けた人たちの状況が重なっている。

 

高市早苗首相は、コロナウイルスワクチンを打った時、不純物が入っていたため、長く副作用で苦しんだという報道がありました。

重いリウマチも患わっていて、薬に助けられながら職務についている。症状がひどくなっても、車いすで職務を全うすると決めている。

ご主人が寝たきりの生活をしている。

 

将来、再び、国民が健康被害にあった時、高市首相の経験が国政に反映されるよう、こころから願っています。
 

かつて台湾で日本語教師をしていたことがあります。
生徒は、若い人がほとんどだったのですが、40代以上の大人も参加していました。
あるクラスは、日本での留学を目指していました。日本語を習得し、台湾に戻り、それを戦力にキャリアアップしたり、日本食のレストランを持ちたい。
みんな希望に燃えていました。
ひとりの仕事を引退した男性は、ハワイから台湾に長期で遊びに来ていました。
若い子たちから、お父さんと呼ばれて、親しまれていました。

ある日、3人の女の子がわたしのところに来て、お父さんと、家族になtったと話してくれました。
「家族になったの?」
「そうです。なので、ハワイに行ったときは、お父さんの家族に会うつもりです」
まったくの赤の他人が、ある日突然、家族になる。

 


もちろん、戸籍とは関係ありません。でも、家族のように祝い事をしたり、連絡を取り合う。
面白いことを考えたものです。なんだか羨ましいな。自分も参加したいな、と思う反面、なんだか変だなという思いもあり、そのときは、見守りだけにしました。

そして、今は、バンクーバー。
パン部門に17歳の時にインドから来た女の子がいます。猛烈に働き者で、気立てが良い。
ある日、具合が悪くなり、途中で帰ることになりました。
「ひとで大丈夫? 歩けるの?」
「兄に電話して、車で迎えに来てもらうから大丈夫」

あれ? きょうだい いたっけ? ボーイフレンドと従妹がいたのは知っていましたが、きょうだいのことは知りませんでした。

 



後日、そのことを訪ねると、前の職場で出会った同年齢の男の子と、とても気が合い、きょうだい関係になったそうです。

それで、きょうだいの印の同じブレスレットをしているとのこと。

そのとき、台湾の「お父さんと家族になった」の意味がわかりました。

アジアでは、親しい関係になった人と、家族関係になる。

お祝い事をいっしょにしたり、連絡を取り合う。

他人との関係が疎遠になりつつある日本。こんな関係は、もしかすると、ちょっとうっとおしいかもしれない。でも、人のぬくもりが伝わってくる。




 

カナダに引っ越してきて22年。バンクーバーは、雨の都市だと聞かされてきました。秋から春までは雨期で、乾季の夏でも雨が降る。

 

最初の年は、雨降り続き数か月で、観測史上2番目の長雨の冬でした。そのあいだ、太陽の光に当たることができず、ビタミンD不足によるウツを経験。

当時は、太陽の光不足がウツを引き起こすということを知らず、辛い冬でした。

が、晴れの日が続く夏を迎え回復。

 

最近は、猛暑の夏もありましたが、数週間、しのげば大丈夫。このため、日本の長期に渡る夏は、耐える自信はゼロです。

 

昨年は、夏から秋にかけて雨がほとんど降らず、近くの公園の梅やリンゴの木、アパートの窓の向こうにある木が枯れかかるという大打撃を受けました。

 

今年の春、もう咲くことはないだろうと思っていた桃は、わずかでしたが花を咲かせ、りんごは、半分腐りながらも実をみのらせました。

窓の外の8メートルほどの高さの木は、開花の数が半分以下でしたが、咲いてくれてほっとしました。

 

秋になり、一瞬の間にバケツ何倍分も雨が降るスコールが、ちょくちょく起きるようになりました。朝になれば、嘘のように雨が上がり、日中が働く時間帯の人にとってはラッキー。

 

ある休日。窓の外が怒涛のような大雨。数時間後、公園へ散歩に行ったら、土が乾ききっていた。つまり、一点集中の豪雨でした。

 

10月。職場のパン部門の同僚のところに友達から、豪雨で家のそばの道が閉鎖されたと電話連絡あり。職場内に近くに家がある人がいたら、知らせてあげてほしいとのこと。

 

 

◎ 鉄砲水の被害

 

 

 

◎ 小中学生が乗るスクールバスが・・・ 

 

 

最近は、真夜中の大雨で目が覚める。

 

昨日の早朝、雨が降っていなかったのでほっとしました。朝5時半の真っ暗ななかの通勤中、歩道を歩いていたら、足元に強風で折れた木の枝がたくさん散らばっていて、ひっかかって転びそうになりました。

ビル風に巻き込まれたときは、車が通う道路側へと押し出されそうになり、ぞっ!!

 

きょうは、仕事休み。午前11時。すごい音で雨が降っています。

 

雨の神様。どうぞ雨量の調節、もう少々、平均化してくださるとありがたいのですが・・・。

地上に住む民より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

みなさんの中にテレビ番組「うつみ宮土理さんの「ロンパルーム 鏡よ鏡よ鏡さん」で育った方はいらっしゃいますか? 男の子は見ていた?

 

 

元祖はアメリカで、テレビ司会者は、ミス・シェリさんでした。

 

 

1961年、ミス・シェリさんの夫は、ヨーロッパ旅行中に市販の鎮静剤を購入し、残りを自宅に持ち帰りました。

シェリさんは、5回目の妊娠初期に、その薬にサリドマイドが含まれていることを知らずに36錠服用。

サリドマイドは、胎児の奇形がすでに知られていて、医師は中絶を勧めました。彼女は、サリドマイドの危険性を知らせるため、新聞社に匿名で連絡。が、知られてしまい騒ぎに。担当医師が中絶を勧め、許可を得るため裁判命令を求めたことで、騒ぎは広がります。

アメリカは、今でもそうですが、宗教的な理由でいかなる理由があっても中絶に反対する考えが強固です。このため、彼女は、中絶反対や殺害予定の手紙を受けるようになり、ついには、FBIが動き出します。


この騒ぎで、彼女は、ロンパルームの司会者の仕事を失ってしまいます。
シェリさんは、日本で中絶手術を受けようとしましたが、日本領事からビザの発給を拒否されてしまいました。

そのためスウェーデンへ。そこでは彼女の精神的健康を守るため、1962年8月17日に中絶の要請を認可。手術は翌日に行われました。

 

中絶手術を行った産科医は、胎児には足がなく腕も片側だけで、生存は不可能だと告げました。胎児の奇形がひどく性別を判別できないほどでした。

 

シェリさんは、後に、「中絶をしたことは後悔していない。でも深い悲しみが残った」と語っています。

 

▼ 中絶を反対する文化

シェリさんの妊娠中絶は、アメリカの中絶をする権利の歴史において、極めて重要な出来事となりました。当時のギャラップ社の世論調査では、回答者の52%が彼女の行動は正しかったと考えていました。

 

1965年ごろには、アメリカ人の大多数である77%が『母親の健康が危険にさらされている場合』の中絶合法化を望んでいたとされます。

 

昨年度のアメリカ大統領選挙では、中絶を認める派と拒否派に、アメリカが真っ二つに激しく割れました。

拒否を支持する州では、胎児が母体の中で育ちながら死亡していくことがわかっていても、そのことで母体の命が危険にされされたとしても、中絶を認めない州があります。この場合、妊婦はほかの州で出産するしかありません。

強姦やその他の理由であっても、中絶を認めない。

 

日本では考えられないことですが、文化が違うと法律も異なる。

 

▼ 中絶が危険だった時代

中絶は、古くから様々な理由で、危険な方法で行われてきました。日本では、母親が、高いとこから飛び降りた、冷たい川の中で耐えて自分を中絶しようとしていたという話を本人から聞いたことがあります。

 

西欧社会では自宅で、固いヤナギの枝や編み棒で子宮を突いて赤ちゃんをおろしていた。感染症、子宮破裂など、母体にとって危険そのものでした。

 

アメリカでは、堕胎が非合法な州があり、違法で床の上にビニールシートを引いて中絶が行われてきました。

その場は大丈夫でも、そのあと大出血し死亡という事件も起きた。

 

シェリさんは、後にテレビでインタビューを受けたとき、「わたしたちは、ヤナギの枝や編み棒に戻るという危険な時代には戻れない」と話しています。

 

https://en-wikipedia-org.translate.goog/wiki/Sherri_Chessen?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=wapp

 

 

 

▼ 1961年11月 西ドイツ:レンツ医師の調査結果

レンツ医師の報告では、サリドマイドを妊婦が使用した場合、胎児は、80.4%の割合で奇形でした。

 

11月26日、G社は、サリドマイドの販売中止と回収を発表。ほかの国々もそれに続きました。日本は販売続行。

 

1962年

5月25日 - 厚生省からの通達は、「サリドマイド製剤について、国内ではまだ患者についての報告が一件もない」

5月29日 - 日本では、販売中止の決定はなさず、それまでに出荷された製品は回収されることなく、店頭でも販売され続けた。

 

▼ 事実を確認した最初の日本人医師

◎ 北海道大学病院の梶井正(かじいただし)医師

 

1962年ごろ

北海道大学病院の梶井正医師は、札幌市内7か所の病院で最近10か月間に生まれた奇形児7例のうち、5例まで母親がサリドマイドを服用したいたことに気がつきます。時期は不明。

 

◎ 梶井グラフ 1959年9月から1966年4月までのサリドマイド北海道での販売高と影響を受けた出生数を表す

青の棒グラフは、もしも、大日本製薬がサリドマイドの販売中止と回収作業をしていたら、ほぼ全員赤ちゃんは健康に生まれていた。

 

 

5月ごろ?

梶井医師は、重大な事実発見の報告は厚労省でなく、イギリスで発行される世界最高峰の医療雑誌ランセットへ寄稿。

日本政府や薬剤会社は対応しないとわかっていた?

 

寄稿後、北海道庁衛生部(係長応対)と大日本製薬(札幌支店長応対)を訪問。が、両者とも全く何の措置を取ることもなかった。

 

5月17日の朝日新聞夕刊最終版に、社会面四段抜きのこんな特ダネ記事が載った。
「自主的に販売中止/イソミンとプロバンM」
これが、わが国でのサリドマイド事件の第一報だった。

 

7月21日 - 梶井正医師の論文が、イギリスの医学雑誌『The Lncet』(ランセット)に掲載される。

日本国内のサリドマイド被害についての発表は、日本国内でも日本語ではなく、海外で英文で初めて公表されるという異例の恥ずべき事態!

 

その1週間後に大日本製薬から梶井正医師に、長距離電話で論文の内容についての確認の電話あり。

 

▼ 謎

胎児の奇形について最初に気がついたと報告されているのは北海道です。

人口が多い東京や大阪では、産婦人科医らは気がつかなかったのでしょうか?

 

▼ 奇妙な海外ニュース

8月23日 朝日新聞が以下の記事を掲載。

 

サリドマイドを服用していたアメリカ人妊婦がスウェーデンで中絶した。この手術は「愛の手術」と呼ばれると紹介。

新聞タイトルは「やはり奇形児だった  スウェーデンで「愛の手術」 米国人、念願かなう」

 

異様な新聞タイトルです。何が起きていたのか?

シェリ・チェッセン論争

1960年代初頭の日本の厚労省は、発展途上国並みの対応で、毒性のあるサリドマイドを許可し続けていた。その後押しもあり、大日本製薬も胃薬にサリドマイドを混ぜて販売続行。

 

これまでの経過・・・

 

1961年11月26日

西ドイツのG社は、世界中で販売されていた自社製のサリドマイドの販売中止、そして全サリドマイドの回収を発表しました。

 

ですが、日本では、レンツ医師が発したサリドマイドには薬害があるという警告に対し、科学的根拠がないと、販売継続を許可。

 

つわりに効果があると信じてサリドマイドを服用し続ける妊婦。胎児が耳、腕、足を失うとは知らないまま・・・

 

12月4日

西ドイツのG社が、日本で販売されていた自社のサリドマイドを回収すると通告してきました。

が、無視する厚生省と大日本製薬。

 

▼ 劣悪西ドイツ製薬会社と無能な大日本製薬

1962年

 

1月12日 - 自社製のサリドマイドを販売していた大日本製薬は、学術課長を西ドイツに派遣します。

学術課長:大学や研究機関において、学術振興、研究支援、地域連携、カリキュラム評価、学生指導など、学術・教育に関する幅広い事務・企画を統括する管理職

 

学術課長は製薬会社を訪問し、レンツ医師と会えるよう斡旋を依頼しました。

が、レンツ医師とは敵対関係にあった製薬会社は、「レンツ医師が、一〇〇の日本人に会うわけがない」と斡旋を断ってきた。(〇の部分は、写真記事の文字が不鮮明で解読不能)

 

1月30日 - 同課長は、レンツ博士と面談することができないまま、ドイツ製薬会社から渡された「レンツ博士の警告には科学的根拠がない」という見解を携えて帰国。

 

★ 後の国家レベルでの裁判では、レンツ医師は、日本側からの接触はなかったと証言しています。もしも北里柴三郎だったら、自らレンツ医師の研究室のドアをたたいていた!

 

▼ サリドマイドの後発薬を許可した厚労省

2月6日 - 厚生省が大日本製薬から報告を受け取る。

 

2月 厚生省は、別会社が申請していたサリドマイドの後発薬の販売を許可。

後の裁判で、当時の製薬課長は、後発薬を認可した理由を問われて、「(責任者として自ら決裁したことを)覚えておりません」と証言。

 

▼ 厚労省の隠ぺい工作?

5月 厚生省は、再び別会社の後発薬を認可。その頃は、大日本製薬のサリドマイドの出荷停止をするかどうかを検討していた時期。なぜ許可したのかは不明。

後の証言では、この情報は、故意に国民に伏せてきた。

 

▼ マスコミの力

5月16日 新聞でサリドマイドの被害が報道される。

5月17日 - 大日本製薬が、製品の出荷を停止。

朝日新聞夕刊のスクープ記事「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」が、日本におけるサリドマイド事件の第一報とされる。

 

大日本製薬は、サリドマイドの出荷は停止したが、薬局などからの回収はしなかった。なので、サリドマイドは普通に販売され続けていた。

 

◎ レンツ医師が警告し、西欧諸国でサリドマイドの販売中止と回収が行われたのは、1961年11月。

日本は、販売し続けた。結果、1962年から1969年まで、死産、奇形児出産の被害が続行した。

 

 

▼ マスコミは・・・

5月18日 - 朝日新聞は朝刊記事「イソミン問題の背景」に「悪影響の実例、日本ではない」と記し、日本国内のサリドマイド被害者の存在を否定[

 

5月25日 - 厚生省からの通達は、「サリドマイド製剤について」、「国内ではまだ患者についての報告が一件もない」。

 

5月29日 - 大日本製薬は、新聞各紙に鎮静・催眠剤「イソミンについて」謹告を掲載。

「妊娠初期三ヶ月の御婦人は、この間のみ服用をさけられた方が望ましい」。

結局この時点で、販売中止の決定はなされなかった。それまでに出荷された製品は回収されることなく、店頭でも販売され続けた。

 

▼ マスコミ

あのとき、マスコミは、大衆の見方だった? 敵だった?

胎児に奇形を及ぼしたサリドマイド。西ドイツでは、1956年から無料サンプルとして配布され、奇形児の出産が続いていました。

 

1961年

 

11月15日 調査を続けていたレンツ医師は、G社にサリドマイドは胎児に対し、「催奇形性の疑い有り、直ちに全製品を回収すべき」と警告します。

 

▼ 薬の化学物質名と商品名

日本でも 11 月 17 日には、国際通信社を通じてサリドマイドに関するニュースは報道されていました。

が、薬は、サリドマイドではなく、イソミン ®、プロバン M® といった商品名で販売されていました。このため、多くの医師は、イソミン ®、プロバン M®  イコール サリドマイドということに気づけませんでした。

 

◎ 薬には化学物質名=原料名と商品名の2種類がある

例: 

化学物質名=Thalidome(サリドマイド):西ドイツでの商品名Contergan 

サリドマイド: 商品名イソミン®、プロバン M®

 

 

潰瘍性大腸炎/クローン病に使われる薬だと・・・

化学物質名=メサラジン: 商品名 ペンタサ ®、アサコール ®、リアルダ ®

化学物質名=インフレキシマブ: 商品名レミケード ®

 

11月18日

レンツ医師は、小児科学会で大衆薬の鎮静/睡眠剤サリドマイドが、胎児の奇形の原因として疑われると発表。

 

▼ 西ドイツ政府が関与開始

11月20日

 G社とレンツ医師と州政府の保健省代表で三者会談が行われます。

 

11 月 24 日  州内務省で再び話し合い。

11 月 25 日の国際通信社が、「サ リドマイド販売中止」を決定したと誤って報道。 まもなく間違いとして取り消されたが、時すでに遅く、 全世界で報道。

 

▼ スクープ

11月26日

西ドイツの新聞にサリドマイド販売中止の原因についての特ダネ記事が掲載されました。

「薬剤による奇形:世界的に流通している薬に疑惑あり」

同日、G社は、サリドマイドの製造中止と回収を決定。

 

▼ 素早い対応の西ドイツ

西ドイツでは、レンツ医師がサリドマイドは毒だと気がついてから、わずか12日目でG社は製造中止と回収を決定。

日本もそうした?

 

▼ 信じがたい日本政府の判断、製薬会社の対応

11月末ごろ

西ドイツのニュースに対する日本厚生省の反応は、

「レンツ医師の警告には、科学的根拠がない」
宣言後、 新たに別の1社が申請していたサリドマイド製造を承認。

一方、 大日本製薬は、主流だったサリドマイドの睡眠薬を胃腸薬に切り替えて宣伝します。

 

毒を許可、販売し続けた日本は、被害をさらに拡大させていった・・・。

 

▼ 戦い続けるオーストラリアの若い医師

流産について研究していたオーストラリアの若い産婦人科医は、7月にサリドマイドと奇形についてランセットに論文を寄稿しましたが、採用せずの返事が届きます。でも、あきらめず、すぐに短い手紙に書き替え再度ランセットに寄稿していました。

 

12月3日

アメリカのレンツ医師の警告発表直後に、彼の寄稿は雑誌に掲載され、情報は一気に世界に拡散。

 

▼ 愚策が続く日本政府

12 月 4 日

 

西ドイツの製薬会社が、大日本製薬に「西ドイツ製のサリドマイド」を回収すると通告してきました。

 

12月6日
大日本製薬は厚生省に相談。が、再び「レンツ医師警告」には科学的根拠がないとの判断で販売は継続されました。

 

▼ 感想

当時の厚生省は、医療については素人集団が運営していた?? 

1960年代。サリドマイドに毒性があることを知りながら、事実を否定し販売を続けようとあがく西ドイツのG社。

 

▼ 

1961年

7月

オーストラリアの流産について研究していた若い産婦人科医マックブライドは、サリドマイドの薬害が広がるのを防ぐため、被害報告や動物実験についての結果を論文にまとめ、世界で最も権威あるイギリスの医療雑誌ランセットに寄稿します。

が、結果は不採用でした。実績がなかったことが影響した? 

 

◎ マックブライド産婦人科医(写真は1971年ごろのもので健康な赤ちゃんを抱いている)

 

 

◎ 医療雑誌ランセット

一般の人にはなじみがありませんが、医師でこの雑誌名を知らない人がいたら、もぐりです。

 

 

▼ 生まれてきた赤ちゃんたちに両腕がなかった

西ドイツでは、1959年ごろからそれまでにほとんど見られなかった新しいタイプの新生児の奇形が恐ろしいほどの勢いで増えていることが報告されていました。

 

青年弁護士カール・シュルテ・ヒレンさんは、妹の出産、そしてすぐあとに妻が出産することになっていて、その日を楽しみにしていました。

が、生まれたきたふたりの赤ちゃんは、肩から直接に手があったのです。

ひどいショックを受つつ、なんとしてでも原因を突き止めたかった。

 

ヒレンさんは、6月にハンブルク大学小児科の人類遺伝子専門家のレンツ医師を訪ね、そのことを相談します。

 

★ この特集の最後に、ヒレンさんの息子さんが大人になったとき、どんな職業に就いたか紹介します。なので、覚えていてください!!

 

◎ ハンブルク大学小児科の人類遺伝子専門家のレンツ医師

 

 

ことの重大さにレンツ医師は、すぐにでも調査を始めたかったのですが、多忙のためできずにいました。

11月にやっと時間ができ、車を飛ばして現地へ向かいます。

 

最初に訪問した3人の奇形の子どもをもつ家庭で、母親がサリドマイドを服用していることが判明します。

 

11月15日 レンツ医師は、G社に、「サリドマイドに催奇形性の疑いがある。直ちに全製品を回収すべきだ」と警告します。

11月18日 さらに、小児科学会で大衆薬のサリドマイドが、胎児の奇形の原因として疑われると発表。

 

▼ レンツ警告の根拠となったデータ

レンツ医師は、調査の結果を小児科学会で公表しています。

 

妊娠初期におけるサリドマイドの服用あり 

奇形の子ども 17人 健常な子供 0人

 

妊娠初期における薬の服用が確認できず

奇形の子ども3人 健康な子供20人

(うちひとりは、妊娠後期に服用)

 

この数字を見れば、誰もがサリドマイドが原因だとわかる!はず!

 

▼ レンツ医師の小児科学会での発言

「人間としても、市民としても、私は自分の観察した事実について沈黙を守ることは、無責任なことと考えます。

これが、人間的、心理的、法的、金銭的に計り知れない結果を伴うかもしれないことを考えて、私は小児科医、薬理学者と各々相談した後、メーカーに私の観察結果を知らせ、また無害性が確実に立証されるまで、この薬を直ちに回収すべきであるという私見を伝え...」、

「これらの排除が1か月遅れるごとに、甚だしい奇形児は恐らく50ないし100名増えることになるでしょう」

 

日本語訳の出典:栢森良二 「サリドマイド物語」.医歯薬出版,1997.