イワージュにこんにちは 【最終回】 -ガス台、家蜘蛛、柳の精、満月、カーブミラー、水たまり-
ⅹ アキラは夢を見ていた。すさまじくホラーな夢だった。パパがガスの元栓をひねったかと思うと、アキラをいきなり深い穴の底に突き落としたのだ。そしてパパとママと姉はさっさとどこかへ行ってしまった。アキラは穴の底で家族を呼んだが、彼らが二度と戻ってこないことは知っていた。ガスの洩れる「しゅーっ」という音が穴の上から聞こえてきた。目に見えない凶器がアキラの足元に溜まっていく。ひんやりしたガスに触れると、足のうぶ毛が逆立った。アキラはどうにか穴を這い上がろうとしたが、アリジゴクのように砂の斜面は崩れやすく、いくら試みても同じ穴の底に転げ落ちるばかりだった。おまけに穴の底には、とっくに家族の連中が殺してしまったじいさんの死体が埋まっているのだ。じいさんの白い手が、そんな植物ででもあるかのように土からはみだしていた。 そういえば幼稚園生の頃、共働きの両親の仕事が忙しいため、アキラはしばしばじいさんの家に預けられていたのだ。じいさんはとても優しかったが、年のせいで頭が弱りはじめると、突然鬼のように豹変することがあった。目を血走らせたじいさんは、訳もなくアキラを真っ暗な押し入れに閉じこめ、いくら泣いても外に出してくれなかった。押し入れのなかにはばかでかい家蜘蛛がいて、そいつがすばしっこく走り回っては、アキラを絶えず脅かした。アキラは必死に戸を叩いて泣き叫んだが、じいさんは助けだしてくれなかった……。 アキラはどうにか砂の斜面を這い上がり、穴の上に手をかけた。両手の爪は全部はげていた。裸足の足は毒ガスに触ったせいで早くも腐り始めていた。穴の外には荒野が広がっていた。見渡す限りの平らな荒野。そんななかに、白い車がぽつんと置かれていた。中古車らしく、ところどころ錆びついていたし、片っぽのバックミラーは壊れてだらんとぶらさがっていた。道路の曲り角にあるカーブミラーも、ぽつんと立っていた。アキラを殺そうとした古いガス台も置かれていた。耳が痛いくらいに静かだった。 その頃、薔薇の精はガーネットを抱えて町を飛び回っていた。この赤い宝石を、早くイワージュに届けてあげたかった。ここまでの疲れをものともせず、角を曲がり、坂道をのぼり、彼女は懸命に飛んでいた。イワージュに会ったら、二人であの懐かしいイワージュ・タウンに帰ろう、そしていつまでも二人で幸せに暮らそう、彼女はけなげにそう思っていた。 と、裏通りの柳の木の枝で、しくしくと泣き声をあげる老婆の姿。体のそこかしこに枯れた柳の葉っぱを垂れさげていた。どうやらこの老婆も妖精のようだ。昔は人間界にも、多くの木々や花に妖精が住み着いていたものなのだ。「おばあさん、どうして泣いていらっしゃるの?」と薔薇の精は尋ねた。しかし老婆は泣いているばかりで答えない。「この世界にもまだ妖精が住んでいたのですね」と薔薇の精は笑顔で話しかけた。すると老婆は「あたしが最後の生き残りだよ」と答えた。「どうして泣いていらっしゃるのですか?」と薔薇の精。しかし老婆は泣いているばかり。可愛らしい薔薇の精は困ってしまって、ついに柳の木のほうへ寄っていった。彼女が羽根を畳んで老婆の隣に優しく寄り添うと、とたんに老婆はくつくつ笑いだしたのだ。「どうしてお笑いになるの? なにかございまして?」と薔薇の精は不思議そうに尋ねた。「ああ、ございましてよ。かわいいお嬢ちゃんがねえ、この老婆の手に落ちたのさ」と老婆はおかしくてたまらないというふうに答えた。「あたしはこの通り年でねえ、あたしもこの柳の木も、もう暫くの命ってとこだったんだよ。でも、あんたのおかげで、またいつかの青い林檎のような若々しい肉体に戻れるのさ」 そこで薔薇の精は、しまった、と思った。彼女は罠にはめられたのだ。慌てて逃げだそうとしたが、柳の周囲には見えない壁があるかのように、彼女を跳ね返した。「この木のまわりには結界が張ってあるんだよ。この木の木陰に入った者は、永久に外には出られないのさ」と老婆はいった。それから老婆は素早い動作で薔薇の精をとっつかまえ、彼女の白く細い首に、先の尖ったストローを突き刺した。そして、ちゅうちゅうと生気を吸い取り、吸い終わると、抜け殻になった薔薇の精の体を地面に放り捨てた。薔薇の精の体は脱ぎ捨てたシャツのようにしわしわになって、木の根元に丸まった。彼女の股間に咲いていた薔薇の花は、残らず花びらを散らしていた。ガーネットは彼女の光を失った目の、すぐ前に転がっていた。 生気を奪い取った柳の精は、光り輝かんばかりに活き活きと蘇り、美しい緑色の髪を持つ娘になった。体じゅうに青々とした柳の葉っぱを垂れさげていた。「うふふっ、あたしを悪く思わないでちょうだいね。悪いのは、女たちを狂わせる時間ってやつだよ」そういうと、柳の精は横笛を取り出して吹きはじめた。それは喜びの曲だったが、すこし悲しげだった。柳の木の遥か真上には、満月がこうこうと照り輝いていた。 そしてその頃、イワージュは猫の足をつかんでばりばりと引きちぎり、その肉を食らいはじめたところだった。口のまわりの毛からは、新鮮な猫の血が滴っていた。イワージュは一心不乱に食事にふけっていたが、ふと頭をもたげた。笛の音色が聞こえてきたのだ。イワージュは猫の足を片手にじっと耳を傾けていたが、空の高みに満月が輝いているのに気づいた。それを見ると、イワージュは「ほ、ほ、ほうーっ」という、今まで誰も聞いたことのないかすれた遠吠えをあげた。 その頃、商店街の魚屋の角では、しょぼくれた野良犬が電信柱の根っこを嗅ぎまわりながら、「クイーン、クイーン」と鳴いていた。おそらくエリザベス女王を懐かしんで……。 ⅺ アキラは白い車の脇に佇んだまま、満月を眺めていた。こんなにものんびり月を眺めるのは久しぶりだった。いや、もしかしたら生まれてはじめてかもしれない。満月は本当にまん丸くて、凍えているみたいに青白かった。そこでウサギが餅をついているようにはとても見えず、むしろガイコツが笑っているように見えた。素晴らしく気色悪くて、美しかった。アキラが立つ荒野の土は、ややぬかるんでいた。昨日の晩から今朝にかけて雨が降ったからだ。アキラの足は泥にまみれていた。パジャマの裾も汚れていた。 と、アキラは車の壊れたバックミラーにも、満月が映っているのに気がついた。また、カーブミラーの鏡面には、バックミラーとそのなかに映る満月が輝いていた。それから、アキラの足元にできた水たまりにも、遥か頭上に輝く満月が鮮やかに映し出されていた。アキラは四つの満月に、右・左・上・下と四つのアングルから包囲されていた。 水たまりの水面に、風もないのに波がたった。波の数は次第に増えていった。そうしてそこに映る満月の像がゆらゆらと揺らいだかと思うと、突如としてそこから毛むくじゃらの腕が飛びだしたのだ。アキラは驚いて尻もちをついた。水たまりの満月からは、長い腕につづいて、不細工な怪物の顔がぬっと現れた。赤い瞳を燃えあがらせる、片目の怪物だった。イワージュは秘密の通路からすっかり姿を現すと、尻もちをついて目を白黒させているアキラのほうへ、一歩、一歩と歩み寄ってきた。アキラは逃げようともしなかった。膝ががくがくと震えていた。頭のなかが真っ白になっていた。 イワージュは手を伸ばして、その先端についている鍵爪を、アキラの右目に突っ込んだ。そして眼球をえぐり取ると、それを自分の右目の部分に空いていた穴ぼこにはめこんだ。イワージュの顔には、まっ赤に燃える左目と、アキラの黒めがちな右目とが並んでいた。その右目のほうがアキラを見て、にやりと笑ったように思えたのは、本当なのかウソなのか分からない。いずれにしても大事な宝物を取り返したイワージュは、あのイワージュ・タウンに戻り、その後もう二度と人間界に足を踏み入れることはなかった。 これがイワージュの物語の全てであり、この他に一言も付け足すことはないのだ。 The End