産まれたときは喫茶店の息子だった。

結構恵まれた家に産まれ、当時では珍しいであろうビデオカメラで、まだ生まれて間もない俺をあやしているお袋とばぁちゃんがそこに映っていた。


似合わないヒゲを生やしたオヤジが、必死で言葉を我慢している。
彼なりのプロ根性なのであろう(笑)

所々に編集が施され、彼等なりの興奮っていうかを抑えてあって、何年も過ぎた後にこのビデオを観ることになる前提で撮影をしていた模様(笑)


6時間にも渡るビデオには、フルヌードの俺が延々と記録されていた。

3年くらいを6時間に凝縮していて、当時の家の中もよくわかった。

パソコン?マイコン?
みたいなのが置いてあって、部屋の中にはアンバランスとも思える中南米風の飾りが多数。

喫茶店の店内には木目調のテーブルや棚が置かれ、どことなく高級感があった。

2歳の誕生日を祝う家族とスタッフと親族。

マイクを手に歌謡曲を歌う俺。

アンバランスが気になるところだけど、その頃から唄は大好きだったんだと思う(笑)


両親は朝から夜遅くまで店を開けていた。

物心ついた時には、祖母と一緒に祖母の家で暮らしていた。

あまりに両親に会う機会が無かったため、『おばあちゃん』っていうのが『おかあさん』であり、『おかあさん』を指し示す言葉が『おばあちゃん』なのか、『おばあちゃん』ってのはあだ名なのか?という混乱に日々悩まされた。

たまに迎えに来るオヤジとお袋の家に入るとき『お邪魔します』って言っていたのも、『両親』っていう認識があまり無かったからかな?なんて思ったりする。

親族に聞けばメシの時は正座して、外行きの礼儀正しい子だったと言われる。

そんな俺を見てお袋は泣いていたらしい。

わかる気もする。


そうやって過ごした幼少期。

寝ても覚めてもばぁちゃんと一緒だった。

いろんな事を教えてくれた。

料亭みたいなのをやってたばぁちゃん。

幼稚園のころから包丁握らされたりしてた。

寿司職人だったじいちゃんの話を毎日のように聞かされながら、いろんなものを作った。


いろんな事を教えてくれた。


ち○毛が生えたら市役所に『大人になりました』って持って行けば5000円くれるぞ!

とか


変なことも凄く多かったけどね(笑)


風呂は毎日『塩山温泉』へ浸かりに行った。


雨の日も風の日も雪の日も欠かしたことはなかった。


霊感の強いばぁちゃんと歩いていると、不思議なことがたくさん起きた。

道行くヒトみんなに挨拶しなさいってのがばぁちゃんの教えだったもんで、いつものように『こんにちわー』って声をかけたら、『おまんにも見えるだな(笑)』って言われた事があった。

怖くなって振り返ると、ソコには誰もいなくて肝を冷やした。

近所の寺で、21時頃子供の声が大量に聞こえてきて、だんだんコッチに近づいてくるその声に、ばぁちゃんは俺を抱き上げて走り始めた。

『ど…どーしたの?』って聞くと、『ありゃマズいあせる』なんて返ってきて。

子ども心に同じくらいの子供の声がたくさん聞こえてたから、友達になれるかな?なんて思ってた俺に、『連れてかれちゃー困るだよ!』なんて言ってた時もあった。

変わった事も多かったけど、俺の10歳の誕生日のすぐ後に、忘れられない事件が起きた。


真夜中2時くらい。

とっくに床についてた俺。

いつもなら途中で目を覚ますことなどなく、朝まで爆睡なのに、この日だけ起きた。

ちょうどばぁちゃんが部屋から出ていこうとするところだった。

『どこ行くの?』

いつもと様子の違うばぁちゃんに気付いた俺が話しかけると、ボーっとした目で振り返り、

『お迎えが来た』

って一言。

ただならぬ雰囲気だったので、服を目一杯引っ張って

『行っちゃダメだよ』

って止めてた。

もの凄い力で引きずられてゆく俺。

玄関を開けるとモヤの中に人影があって、ソレが曾祖母や祖母の弟。亡くなっている人たちだって事がすぐにわかって泣き叫んだ。

『だって…呼んでるよ?』

見たことのないキョトンとした目で俺を見るばぁちゃん。

気を失うようにその場に倒れ込むと、俺もその場で意識が途絶えた。

目を覚ましたら朝だった。

二月の終わりで、もの凄い寒さ。
同じようなタイミングでばぁちゃんも目を覚ましたみたい。


どうしてココで寝ていたのかと不思議がってたばぁちゃんに、こんなことがあって凄く怖かったんだよって話したら真っ青な顔をして立ちすくんだ。

そこから毎日2回ずつズロースを変えるようになった。

『私が倒れたときに、救急のヒトがキタネェばばあだって思ったらイヤだから』

って、明らかに死を意識し始めた。

信じたくなかったけど、物凄く元気だったばぁちゃんが日に日に死を強く意識していた。

『死』という言葉を毎日口にするようになった。

病院へは毎日行っていたみたい。
普通に過ぎてく毎日を、どんな気持ちで過ごしていたのか考えると、胸が苦しくなる。


3月10日
いつもと変わらない朝。

味噌汁の匂いと、一定のリズムで刻まれる包丁の音。

明らかにいつもと同じなのに、いつもと違う雰囲気。

一緒に朝食を食べ、小さなダイヤル式の赤いテレビを二人で見てた。

身支度を整え、学校へ行く準備をして、立ち上がった俺。

異様な空気が引き止めてくる。

今日は学校へ行くな。

そんな俺を追い出すかのようにばぁちゃんは笑った。

『気をつけて行ってこーしよ』

『ありがとう』

俺は何も言ってないのに、ありがとうって。

何かを悟ったように呟いた。


胸騒ぎがするよ。


そう思いながらも家を追い出される。

『早く行けし!』

後ろ髪を引かれる感じと、気のせいだの自問自答

ゆっくりと学校へ向かった。


学校にはいつもと同じ空気があって、朝の出来事が薄れていった。

『今日どーする?』

『サッカーしよっか!』


そんな流れで家につき、ばぁちゃんの亡骸と対面した。


後々知ったのだが、この日もばぁちゃんは病院へ行き、検査入院を勧められたそう。

小さな病院の先生が、無理矢理でも引き止めて入院させれば助かったかもしれなかった。

ゴメンね。

って俺の頭を撫でながら申し訳無さそうに言ってくれた。


近所のおばちゃんもお昼頃話したときは元気に見えたのよ!
って言ってた。

飲みかけのインスタントコーヒーの入ったばぁちゃんのカップ。

亡くなったときにこたつの上に置いてあった。

取り乱した様子もなく眠ったように旅だったばぁちゃんには、何かしらの予感があったのかもしれない。




一段落して両親が引っ越してきた。

ばぁちゃんと過ごした家を離れたく無かったから。

離れて住んでいた両親は、広い家を引き払い、俺の願いを受け入れてくれた。


もうすぐこの家を出ていくけど、ばぁちゃんと過ごした期間よりずっと長く過ごしたこの家を引き払うけど、それでも良いかい?

なんて仏壇に手をあわせた。

何の音もしないけど、なんか笑ってくれた気がした。


年が2011年に変わった頃。

お袋が引っ越しを提案して、引っ越す先もモヤの中だったのだが、大家さんの好意で引っ越し先が決まった。

同じ大家さんの違う物件。

3月10日
鍵を渡された。

箱根からまた実家に戻ってきましたよ汗

大きい荷物を運び入れるために帰ってきましたよチョキ

柱に刻まれた成長の跡だとか、度重なるリフォームで完全に消えちまったけど、この家に後何回帰ってこられるかなって思うと、胸がやっぱり苦しくなります。


床が抜けて、柱が基礎から離れてるようなボロ屋だけど、29年を生きた家。

次に住むのは独身のオッサンらしいけど、問題だらけのこの家がもう少し壊されずに残ってくれるのはありがたい。

山梨~箱根の往復もしんどいけど、この家の匂いをもう少し吸い込んで、忘れないように生きていきたいっておもいます。

あれから19年。

馴染めなかった両親ともうまくやれるようになったし(笑)

新しい家で、今度は何が起きるやらって期待と不安も楽しみになってる。

俺の3畳のプレハブは、物置として残せるらしいし、なんかホッとした。

変わるけど変わらないもの。

変えなくちゃならないもの。

過去が大好きだって思うけど、現在は過去になり、それも好きだって思えるように現在を大切にしなきゃいかんなって思う。


一文字打ち終えた今も、すぐそばにある過去。

今度は俺がありがとうって言ってこの家を去る。

あ!それと、店があまりにも暇なので、異動することが決まりました!

が。

どこに行っても状況が変わらないのと、月末にたくさん山梨で仕事がもらえたため、4月まで山梨に戻ります。

週末には一旦寮を引き払い、帰ってきますパー

実家の引っ越しもあるので好都合だ。

前借り出来る月末には壊したドアの修理も出来そうだし、新生活スタートまで、また少しインターバルに入りますニコニコ


ってことで、少し寝て作業をして、箱根に戻って荷物を詰めて。


3月11日。
頑張りますかニコニコ


あ!12日。
保田のワンマンライブが新宿たかのやで行われます。

こんな状況で、行けなくなってしまったけど、行ける人は顔出してあげてくださいチョキ

長文失礼しましたニコニコ汗

動くぞーーー!
平成4年3月10日
推定時刻午後2時~3時
『急性心不全』


祖母皆子がこの世を旅立ちました。

奇しくも一年前の3月9日には、祖母の弟がこの世を去り、一周忌法要を週末に行おうかという話の最中でした。

大のばぁちゃん子だったので、この日のことは鮮明に覚えております。


小学4年ももうすぐ終わりに差し掛かり、中学お受験を考えていたもんで、そろそろ志望校を決めなきゃなんて塾でも煽られていた時期。

近所の親友と『何して遊ぶ~?』なんて言いながら、道に転がってた石を、交互に蹴りながらの帰り道。

実家の裏にある幼稚園の庭でサッカーでもしようってことになって、彼の家に寄りボールを持って帰宅した時だった。

ガラガラ…。
ただいまー。

…。

首の辺りから広がる痣

左手を真っ直ぐ頭の上に伸ばして亡くなっている祖母がそこにいた。

子ども心に祖母が死んでるってことはすぐにわかった。

アタマはすぐにパニックになり、祖母の亡骸の奥の部屋にある黒電話に近づくことが出来なかった。

なんというか。
廊下を塞ぐようにして横たわっている祖母の亡骸を跨ぐことがいけないことのように思えて、ソコを通ることが出来なかった。


親友もすぐに状況を察知してくれて、走って数秒の彼の家で電話を借りた。


警察、救急車、両親と親族に電話をさせてもらった。

死という現実を突きつけられて、永遠の別れってもんが頭の中で消化できるまで、不思議と涙は出ないもんで、子供ながらに冷静を装っていた気がする。

親類や警察、救急隊員が到着するとさ。

子供ってのはお邪魔虫になるもんで、家の前の道路の端に親友と二人で座ってた。

お互い経験したことのない空気の重さに、気を使いながらも一言二言話しかけてくれる親友の言葉が何より嬉しかったのを覚えている。
そして親友のお母さんも心配して来てくれた。

近所の人たちも
『おばあちゃんけ?』
『たくちゃん』
言葉を選んでくれてたのがわかった。

頷くことしか出来なかったけど。

母親が到着したのは1時間が過ぎた頃だった。

甲府で婦人服を売ってた母親は、少し取り乱した様子。

両目のシャドーが不自然に延びていて、彼女が泣きながらタクシーに飛び乗ったのが想像できた。


事件性はありませんね。


警察の人たちはそう告げて、お袋たちと難しい話をしていた。


今でこそ『脳溢血』とか『くも膜下出血』だとか言われりゃわかるけど、19年も前にはそれを即座に判断することは困難だったみたいで、司法解剖しますか?とか言われていたみたい。


俺もお袋ももちろん答えはNOだった。


だってさ。
死んでまでメス入れさせたくなかったんだよね。

死因不確定の場合、急性心不全と表記するってのが主流だったみたいで、祖母の死因は『急性心不全』とされた。

叔母は泣き崩れ、必死で祖母に呼びかけた。

俺も鼻の奥をツーンとさせるモノを必死でこらえた。

親戚が次々に集まってくる。

子ども心ながらにみんなに挨拶をしなければって思った。

10歳のガキンチョは、妙な使命感に駆られていた。


アレから19年が過ぎ、毎年床上浸水に悩まされた実家から引っ越す事になった。

3月10日。
鍵が届いた。

なんか色んな巡り合わせというか、時間の悪戯というか(笑)

考えざるを得ない。
そんな1日。


クソ長文を書こうと思う。

山梨~箱根間を行ったり来たり。
時間はたっぷりあるから。
寒いと言えば負けになる気がして、あくまで『暑い』と言い続けてたワタクシです音符


クリスマスツリーMerry Christmasクリスマスツリー


Christmas eveの公園は氷点下の世界でしたよにゃー


あのね。ギターの冷たさが酷くてね(笑)
普段から苦手なギターはもっととんでもなく苦手になれましたチョキ


そんな寒い中たくさんの人たちに来ていただいて、嬉しかったですよ音符


ゆーや達が最年少だと思ってたのに、それよりも若い子が来たのです(笑)

イブの奇跡ですなにゃー

ほっとレモン貰ったりシャンメリー(ノンアルコール)貰ったり、ケンジが嫌がらせの如くメグミルクくれたり(笑)


寒いのにコールドなパック牛乳ですぜあせる奥さん!


ただでさえお腹の弱いデブなのにねガーン


それでも楽しいクリスマスにしてもらったからOKですな音符音符


今週はもう少し歌いに行けるかなにゃー


そいじゃ音符
チョキ