しばらくブログの更新が滞ってしまいました。
現在、サイトリニューアルやパンフレットの作成や新商品リリースの準備で色々と。。。
REGINA LOCUSの場合、商品開発(処方内容・要求性能)キャッチコピーから商品写真の撮り方、商品説明、シリーズごとのイメージ画像、デザイン、ボトルデザイン、サイトデザイン、サイト作成
全て私一人で行います。
なので、新商品開発というのは、意外と大変なんですね。
キャッチコピーとかは、パッと浮かんでこないので
デザインもパッと浮かんでこないので
進まないときは、一日の進捗が0という日もあります。
さて、こんな記事を見つけました。
http://gqjapan.jp/life/travel/20161129/american-express-card-bus-tour
新宿、神楽坂、湯島で学ぶ「大人の粋」 アメックスのバスツアーで男を磨く!
“粋”とは自然に身につくものではなく、学んで身につけるものだ。スタイリストの近藤昌さんが案内するアメリカン・エキスプレス(アメックス)のバスツアーに参加。大人の男だけが知る東京を巡った。
という記事。
とっさに思ったことは
「それはいかんでしょ!」
粋というのは、学んで身に付けるものではあるが、
これが「粋」です。とマニュアル的に出されたものを
コピーして「これが粋」だ!というものではない。
と考えています。
ファッション界の重鎮が出てきて色々「粋」を指南する。
(重鎮と言われている時点で、その人は終わっているのですけれども。。。失礼な表現ですが。現在絶賛活躍中で業界の最前線にいて、最新情報を発信し、得ている人は、「重鎮」とは表現されないわけです)
というのは、違うと思いますね。
粋というのは、人生の芸術であると考えています。
芸術というのは、これが「モナリザ」だ!と言って
それをそのまま書き写して、これが芸術だ!とはならないわけです。
自分の中の美学を生み出し、それを磨き上げ、独自色を出し、
それを表現していくことが芸術である。
粋というのも、その人の歩んだ人生や思考や嗜好、
色々試して磨き上げ、そして独自に生み出したものが粋であり、芸術である。
「ネイビースーツを着こなしてこそジェントルマン。」
という表現があった。
ネイビースーツを着れば良いのか?ということが言える。
なぜネイビースーツなのか?
その裏には、ドレスコードというものへの理解が必要だ。
ややオフィシャルなパーティーなどでは、ドレスコードに「ダークスーツ」という記載がある。
ダークスーツとは何か?
一般にはチャコールグレー系のスーツがダークスーツと言われるが、
実は、知っている人は、
高級な生地を使ったネイビースーツは「ダークスーツ」になるということ。
それでも、ネイビースーツはオフィシャルな色が強い。
欧米の各国首脳がサミットなどに出席する際は男性ならネイビースーツだろう。
そして、普段のビジネスシーンでも使えるという
A-Z的なスーツである。
一般的に生地はsuper100s程度のものが量販店で売られている。
しかし、super150sというかなり番手の高い(細い糸という意味)生地は
見た目にも、艶と生地のしなやかさが全く異なる。
それは、ダークスーツと言える、主賓に対して失礼のない服装となる。
ネイビーのスーツを着こなすということは、生地からこだわって、
そして、各テーラーごとにベースの型があり、その型が一番良いところを見つける
という非常に手間と時間と金のかかる経緯が必要。
ベースの型の違いというのは非常に大きい。
量販店のスーツとオーダスーツ、各店のオーダースーツを着比べてみてほしい。
同じように見えても、形が全く違うのだ。
その中から、自分の美学に合うものを探し出し、
自分の雰囲気に合うものを探し出してこそ、
着こなすということができる。
もちろん、マナーや作法を知ってることは当たり前。
その上での話。
ネイビースーツを着こなすということは、一例に過ぎないが、
その奥にある芸術性を発見し、自分のものにするということだと思う。
マナーや作法という制限の中で、許される範囲の独自の芸術性を仕込んでこそ
「大人の粋」というもの。
それは、自分から言うものでもなく、何も言わずに、
分かる人には「おっ、こいつ!できる!」と分かってもらえば良いし、
それが「大人の粋」
粋というものに、答えはない。
十人十色の人生があるということは、十人十色の美学があり、
十人十色の粋がある。
しかし、それは色々試し、探し、独自の芸術を作り上げていくということだと思う。
もちろん、全部「粋」ということはあり得ない。
粋であるところもあれば、粋でないところもある。
しかし、教科書的な画一的、総花的な粋はあり得ないのだ。
なぜなら、それは十人十色だから。
そして、言わないこと。
「粋」の反対は「野暮」って言葉があり、
粋だと教えられて、それを粋だと主張することは「野暮」だ。
粋なものを、これは粋だと人に言うことは「野暮」だ。
まぁそんなことを思いました。
最近、非常に気になっていることがあります。
上の話と関連することですが、
創造した芸術なのか、与えられた芸術なのか。
昨年、マイナーどころでロシア、モスクワとサンクトベテルブルクに行きました。
そこでみたのは、旧ソ連時代の威厳を感じさせる建築物の数々。
でかい、豪華。
しかし、どこかで違和感を感じた。



確かに、旧ソ連時代の公共エリアは非常に豪華。
しかし、違和感を感じるのは、それと対照的に文化やファッションに全く興味のない人々。
なぜ?
という疑問が湧く。
一見、文化的な都市に見えるが、人々は全く文化的ではない。
カフェやレストランも全く文化的ではない。
上の話とリンクするが、それは与えられた芸術であるからか?
と自分なりに仮説を立ててみた。
サンクトは確かにバレエや交響楽団などもあり、
一見文化的な気もするが、なぜか、違和感を感じる。
なぜか、画一的なのだ。
フランス、パリの街並みを見たときに、あれ?
サンクトベテルブルクとそっくりじゃない??
と感じだのだが、どちらが古いかといえば、もちろんパリ。
うーん、その答えを見つけるためには、パリへ行くしかないだろう。
ということで、フランス語を勉強中です。
どんなに頑張っても、芸術性は与えられないし、
コピーもできない。
ということだろうなどと思いつつ。
無駄に長くなってしまった駄文をそろそろ終わらせよう。。。