中学3年生になっても僕は漠然と「バンドやってみてーなー」くらいには思っても、実際に手を出すことはなかった。僕の周りにも楽器をやろうとしている連中はいたかもしれないが、実際にアクティブに始めていた連中は僕の周りには皆無だった。そして中学3年生ともなれば否が応でも受験という洗礼を受けることになる。

前にも書いたが、僕の実家は所謂新興住宅地。その学区に通う生徒の親は同じ程度の家を購入できるほどの経済力を持っている。家業なるものがある家庭もない。そしてそれはある種の横並び思想になる。少なくとも僕の通っていた中学校で高校以外の選択肢を選ぶことはあり得なかった。僕も当時はそれは当たり前のことだと思っていた。

幸か不幸か僕は少なくとも勉強という意味で苦労したことはなかった。少なくとも中学3年くらいまでの段階では死にものぐるいで勉強した記憶はまったくないし、それでも学年では成績はかなり上位にいた。しかも僕の通っていた学校は市内でも有数の勉強ができる学校らしかった。その中でも上位の成績であったことは少なくとも僕にとっては当然のことだった。

夏休みを迎えたくらいからは当然のように高校受験へと邁進することになった。受験生にとって1ヶ月もの夏休みは貴重な時間だ。しっかりと志望校も決め、受験に臨むものの第一志望の某大学付属の有名校は残念ながら不合格。高校は自分の学区で一番偏差値の高い、公立高校へと進学することになる。ここで僕の人生は大きく舵を切ることになるが、もちろん僕はその当時はそんなことは知るよしもない。


そして、このとき受験勉強をする傍ら一人の同級生のことが印象に残っている。
彼は当時からめちゃくちゃピアノがうまかった。そして演奏だけでなく、作曲コンクールみたいなものにも応募してしっかりと賞を受賞したりもしていた。
彼はピアノ以外のことでは、勉強もスポーツも決して目立つ存在ではなかったが、殊ピアノだけは別の話。そんな彼は某大学付属の高校へと進学するという。大学付属といっても音楽大学付属の高校だ。所謂「音高」というやつ。その時は「そういう進学先もあるのか」という感じで、別段仲のよかった訳ではない僕は彼に深い事情を聞くこともなく、卒業することになる。

彼に再会するのはここから5年後の話だ。

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当時の神奈川県に住んでいた中学生なら中2ともなると、否が応でも受験を意識させられる。受験を意識するという意味では他の都道府県でも同じだろうが、当時の神奈川県には悪名高き「アチーブメントテスト(通称ア・テスト)」というものがあった。achievement = 達成という意味では、通常の全県学力テストと同様と考えるのが当然だろうが、2年生の3学期に執り行われるこのテストがそのまま翌年の高校受験の合否判定に反映されるとなると話は大きく変わってくる。

所謂「神奈川県方式」というやつで、今でもよく覚えているのだが、このア・テストが合否判定の内25%をしめる。ちなみに内申点とあわせると75%にもなり、入試での一発逆転は不可能。しかもこのア・テストが曲者であるのは「英国数理社」の主要5教科以外の実技4教科「美術・音楽・技術家庭・保健体育」にも筆記試験が課されていること。そして全9教科(確か各50点満点だったと思う)を評定という名の偏差値で割り振る。記憶が正しければ主要5課が各10点で50点満点。実技4科が10点換算した後半減して20点満点で合計70点満点に換算していた。

とにかく、なにが困るって実技4教科のペーパーテストがあるということだった。当然勉強しなければいけないわけで、とくにさっぱりだったのが何を隠そう「音楽」だった。音楽のペーパーテストで出る問題の中で特にちんぷんかんだったのが所謂楽典ってやつだ。致し方ないので、ほぼ一夜漬けでなんとか理屈のさわり位を理解して本番のテストに。なんとかヤマを張ったところが見事的中して、はずれたところは勘で乗り越えてテストは終了。

結果、50点満点中42点くらいだったような気がします。うん、がんばった。
この一夜漬けで覚えた楽典の知識がのちに役に立つとはもちろんこのとき夢にも思わなかった。

そうやって僕の中学2年生は終わっていく。

中学2年生の時担任だった先生のことを思い出すことがある。

・・・はっきりいって、思いっきりいじめられていた。もちろん生徒に、だ。
小太り、中肉中背でめがねをかけた天然パーマの、中年の男の先生だったが、はっきり言って生意気盛りの生徒を扱えるようなタイプではなかった。しかも当時の僕がいたクラスはおそらく学年でも、一番問題児が集まっていたクラスだった。


今の言い方をすれば、マネジメントができない。
だから余計に生徒たちはつけあがる。
ますますマネジメントできなくなる。
という典型的な悪循環だった。


僕たちの世代ではもう校内暴力という言葉は終わっていたが、今風の言葉で言えば学級崩壊にちかい状態だったんだと思う。なにしろ行事一つとってもまったく統率が取れていない。授業中もみんな好き勝手やっている。しかもいろんなものの矛先はすべてその担任の先生に向かう。

授業中の私語は止まらない。平気でみんなの前で先生が呼び捨てで罵倒される。あげく黒板にものが飛ぶ。

4月に担任を受け持ってから3月にクラス替えがあるまでの1年間で、その先生は髪型も服装も、目つきも変わってしまった。おそらくものすごいストレスだったんだろう。今思っても申し訳ないことをしたと思っている。

その先生は結局その3月をもって他の学校に異動されることになった。おそらくご自身で希望を出されたのだろう。僕たちの卒業を見ることなく、その先生は僕たちの母校を去っていった。



その先生にはひょんなことから10年後に一つの曲を介して再会することになる。


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