ラマダンが終わり、少し外の雰囲気が柔らかくなった。相変わらず砂埃はいつもの様に絶えず舞い、せっかく掃除をしたリビングルームを容赦なく少しずつ、確実に覆っていく。

 

坂本龍一がこの世を去ってから、1年が経った。彼が亡くなってから、やたらと死について考える。いや、考えるというより、思いを馳せると言った方がちょうどいい。考えてみたところで、結局理解する、もしくはできるものではないだろうし、ふと時間があるときに自分の身近な存在として認識する、そういったところか。

 

死が身近に迫る時、人は周りへの「感謝」と自分の人生に対するいくつかの「後悔」を口にするという。おそらくは、どちらも死に到達した時点では、「感謝」とか「後悔」という言葉の境は曖昧になり、どちらもただひたすらに無となって、当の本人には何も残らないのだろうと思う。 

 

そうは言いながら、こうして強烈に自分の言葉を残したいと思うに至ったのは、坂本龍一の死から1年が経ち、彼の音楽を聴き、また彼の本を読むたびに、坂本龍一という故人を通して死を、その対象として正面から向かい合う様になったからだと思う。

 

それはまた、少しずつ老いていく両親、成長する甥っ子や姪っ子、これら二つの異なるグループの命が同じ道にありながら、それぞれが異なる人生のステージにあるという身近な事実も、影響しているに違いない。一方は人生も終わりに差し掛かり死に向かい、また一方はこれから人生をいよいよスタートする。

 

仕事柄よく人生について考える。紛争を逃れて命の危機を感じながら隣国に逃れてきた人たち、そしてそれを受けれいる人々。はたまた、そんなこととは全く無縁に、不自由なく日々の生活を淡々と機械的に過ごす人たち。運命と言ってしまえばそれまでだが、そうした運命にも、それぞれの人生を異なるベクトルに向けるだけの、少しの余白はあってもいい。そうであって欲しいし、そうでないなら人生はあまりにも野蛮に設計されている。そう感じる。

 

夜のアザーンが始まった。意味は分からずとも、どこか向こうの世界に届く、何かがある様な気がしてならない。坂本龍一には、どう響いただろう。