映画『生きてるだけで、愛。』 | From Rabbit House

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前々から観たいと思っていたけれど、ようやく観ました『生きてるだけで、愛。』

 

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趣里と菅田将暉の実力派俳優が演じる同棲カップルの物語。

 

ちょっと私にはメンタル系の病気のことは解らないけれど、生きづらさは なんとなく解る。

 

生きるって しんどい。生きるって疲れる。

 

それは病気、病気じゃないにかかわらず共通すること。

 

※もしメンタル系で病んでいる方が検索等で こちらに辿り着かれた場合は、以下は読まずに そっ閉じ(回れ右)してください。

 

 

 

恐らく双極性障害の寧子(趣里)は普通の日常生活を送ることが難しい。

 

睡眠障害があるようで寝坊をしないで仕事に行くことも、家事(料理)をすることも。

 

パニックになって複数のタスクを同時に こなせないようだ。

 

ひとつ躓くと一気に破滅(破壊)行動にでる。

 

 

ちゃんとやろうと思っているのに、皆が当たり前にやっていることができずにイライラする。

 

そして何も聞いてくれない多忙寡黙な恋人・津奈木(菅田将暉)にも当たってしまう。

 

 

津奈木はといえば、下世話なゴシップ雑誌の編集者。

 

本人も元々やりたい仕事ではないので、ある時 会社で爆発してしまう。

 

 

二人同時に仕事を辞め、初めてお互い向き合って本音で語り合う。

 

寧子「あんたは あたしと別れられるから良いよね、あたしは(こんな病気の)あたしと別れられないんだよね、一生」

 

津奈木「寧子のこと、もっと知りたかった」

 

言葉に出してようやく お互い解り合えたかのように見えたけれども、寧子は「心底 解ってもらえない寂しさ、虚しさ」を感じている顔つきで涙を流すのだった(↑に貼った画像の顔がラストシーン)

 

 

印象的なのは 寧子が働いていたカフェで、少しだけ心を開いたオーナー夫婦らに やはり自分を理解してもらえなくて(何気ない会話「ウォシュレットって怖くないですか?」が引き金)

 

確かに「何が?」って普通の感覚なら思うけれど、寧子の話を聞いてみると「怖い」と思うのも ひとつひとつ理由があることが解る(急にピューッとどこに水が飛ぶか分からないとか。水圧が強かったらどうしよう?水は石なんかも切ることができる・・など)

 

しかし、それらを聞いても「そんなわけないじゃん」って普通の人なら思ってしまう(実際スタッフらに「本気でそう思っているのか?」と笑われてしまう)

 

まぁ普通ってなに?ってことなんだけど、この寧子の発想は病気が起因なのか?ただの性格なのかも判らない。

 

 

籠城していたトイレを破壊して、着衣を1枚ずつ脱ぎながら街中を走り続ける寧子。

 

なんで全裸になったのかも不明だけれど、要するに一種の破滅行動=「心の解放」を見た目で分かりやすくした演出なんだろうか?(原作もそうなのか?)

 

 

 

正直私には ちょっと共感しづらい世界だったので、津奈木に「なんで寧子と付き合ってるんだろう?辛抱強いな」とか思ったり

 

(最後に寧子からの質問で答えが一応 示されるものの、あまり判然とはしない。文学青年らしい表現ではあったけど)

 

表面的には優しい彼氏に対して「なんで、そんなに いつも怒ってるんだろう」と寧子にもやもやしたりもやもや

 

(私からすると津奈木は無気力と言えば無気力だけど、寧子に十分寄り添っていると感じた。

 

仕事も続かないのなら生活費は津奈木に頼っているのでしょう。

 

病気は仕方のないことだけど、家のことも満足にできないのに(掃除もせず汚部屋だし、料理もせず津奈木が買ってきたお弁当を食べている)なぜ津奈木にあれだけ強く言えるのかが分からない。それも病気のせいなの?)

 

 

観ていて結構フラストレーションの溜まる映画だったけれどコメントを読むと同じような病気の方には寧子の気持ちが解るらしいので、相互理解は なかなか難しいのかもしれないなぁと思いました。

 

 

薬や療養で感情のコントロールができるならば一番良いんだろうけど、私(がこの病気)だったら やっぱり人と積極的に関わるのが怖くなっちゃうかも。

 

でも根気よく対話を続ければ、ウォシュレットの件のように相手(寧子)の考え方の癖みたいなものは解る。

 

解らないなら解ろうとする姿勢が大事なのかな?

 

 

結局、この映画も「コミュニケーション(対話)の大切さ」をテーマとした映画なんだろうなぁ。

 

趣里の横顔は とても綺麗で、演技も魅力的でした気づき