永遠のテーマ❓宙ぶらりんに耐えるのだ。
自分の中で「収束した。。。」と思っていた”課題”が実は心で燻ってた。。。ことにここ数日間で気づかされた。
二人姉妹の姉である私。2つ下の妹は結婚して家を出ている。
母は二者(姉妹)を比較して選択、どちらか一方を特別視し、溺愛・執着するというパターンの人だった。
我が家の場合、母に選ばれた子どもは”姉(=私)。
過保護で過干渉、私が「〇〇がしたい」と伝えたことは大抵叶えてくれた。
感謝の気持ちはあったけれど、今となっては、選ばれなかった妹の心の傷の上に成り立っていたのでないか、とすら思う。
私はきっと「母の望む子ども像」を演じていたし、親にとっての”いい子”であり続けようとしたのだと思う。
母の願望をいつも読み取ろうと必死だったし、「先回りして準備すること」が当たり前になっていた。
そうでなければ、愛されないのではないか?という恐怖があったのかもしれない。
この『選択する』という行為は時として残酷だ。
昔観た『ソフィーの選択』という洋画を思い出した。ユダヤ人のソフィーがホロコーストに二人の子どもと
共に収容されることになり、「どちらを生かすか、二人のうちの一方を選べ」と言われて”選択する”場面から始まる。
このソフィの選択は「こちらの子を生かす」という意味があるのと同時に「残された子の死」を意味する。
私が地元を離れて、病院に勤務していた5年間に妹は母からの言葉の暴力を受け続けていた。
「お前じゃない」という気持ちが常に母にあって、そこから発せられる言葉の刃は妹の心をズタズタに切り裂いた。
しかも、姉の私に一度も漏らしたことはない。
姉の希望を守りたい、その為に私が耐え抜けばいいのだ……と。
しかし、そのストレスが身体的な病気という形で出てしまった。
数年間、両親と絶縁していた妹だったが、父の急逝があり母と再会。
「これはもしや父からの贈り物?」とお気楽に考えていた私だった。
が、やはり妹は傷が疼くのか、その後は母との関りを絶っている。
そして今、姉の私とも会うことを避けている。
「姉に罪はない。でも”愛された子ども(姉)”を見ると、母から言われたことの苦
悩の記憶が蘇ってくる」って先日初めて言われた……。
じゃあ、私ができることって何もないじゃん!
きょうだいって親の愛を巡る永遠のライバルって言われているけど、本当なの?
この場合、被告人(?)席に座る母に尋問したりしたいけれど、
母はあまりに年老いていて、非力で、小さい存在になってしまった。
じゃあ、どこに、誰に、ぶつければいいの⁈
出口が見えないよ~💦
今の私に必要なのは「曖昧さ、宙ぶらりんに耐える力]
なんだろうな。。。。。。
今こそLet's『ネガティブ・ケイパビリティ』!
状況を正確に把握できない、先がまったく見えない、すぐには答えを出せない……どうにも対処できない場合、襲ってくるのは極度の不安と無力感ではないでしょうか。 そんなときに支えとなる概念が、ネガティブ・ケイパビリティです。
「ネガティブ・ケイパビリティ」は、「宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く」という、見えにくい力です。

。。。。。と、頭では理解していても、私の葛藤はこれからも続く―――