こんばんは。 Red-ips です。
えーと
今日も期日が入っていてお仕事頑張ってきました。
仕事あるのがありがたい。
ありがたいったらありがたい。
仕事があるお陰でマンガも描けるんだから・・・。
ステレオグラム交差法。神戸ホームズ館。
それはともかく
裁判所の帰り道、小さな子供達が引率の人に引き連れられて横断歩道を手を上げて渡っているのを見ました。
一見、ほほえましいだけの光景ですが
これは、恐らく車高の高い車の運転席からは低い位置が見づらいから、運転手に存在を認識させ注意を喚起するための行為なんでしょうね。
つまり子供が身を守るためのひとつの手段。
けれど子供達はそれを知っているんでしょうかね。
私が子供の頃、オトナはよく分からない行為を子供に対して要求してきました。
けど、必要性が分からないので、オトナが見ていないところでは平然とそれを破ってきた。
子供ってそういうものなんじゃないかな。
必要性が分からない子供は、自ら横断歩道では手を上げないでしょう。
オトナはやっていない行為だし。
だから今思うに
子供だと思って、すべきことを言うだけではなく、必要性を知らせることは大事なんじゃないかな。自分で自分を守れるようにするために。
オトナは、どうしてオトナになると、自分が子供だったときのことを忘れて、平然と嫌なオトナになれるのだろう。
子供の頃に、あんなオトナになりたくないと思っていたオトナに、みんながなってしまう。なぜだろう。
駅の待合室で、スマホをいじっているお母さんと小さな子供を見ました。
子供は退屈そうにちょろちょろ回って、親は基本スマホに夢中でも、ときどき子供を注意していました。
まあ、注意も大事かも知れないけど・・・
子供にとって「ただじっとしている」というのがどんなに苦痛か分からないだろうか。忘れちゃったのかな。
少なくとも子供には、いじるべきスマホはない。
オトナは電車を待つことをそれほど苦痛には思わない。
それは、オトナに忍耐力があるから、というのもあるかも知れないけど・・・
ちょっと違う。
オトナは、予測で動けるからなんです。
オトナは、まず今「待つ」という行為の目的を知っている。
電車が来るまで待っている。目的地に行くために電車を待っている。
目的が何のためにあるのかを知っている。
だから「待つ」ことの意味を知っているので、ガマンが出来る。
そして、次の電車がどれだけ待てば来るかを経験上感覚的に知っているから、特に不安に思うこともなく、無限を意識することもない。
けど子供はギリギリ「電車を待つ」という認識はあっても、どれだけ待つのか想像もつかないことがある。
電車を待つ経験が少ないから。
どれくらい長い時間、このままでいるのか。
目的地も知らないことも多い。
先が見えない中で待つことの苦痛は大きい。
自分の子供の頃を思い出せば分かることじゃないかな。
オトナに連れられて、どこに行くかも分からないまま移動させられた。
遊園地? 動物園? 親戚の家?
どれでもいい。そんな名詞にも意味はない。
だって、その名詞の持つ意味も知らない。
オトナが当たり前に知っていることを子供はまだ知らない。
子供の退屈を、子供の不安を、子供の苦痛を、私達は味わったハズなのに、なぜオトナになると忘れてしまうんだろうか。
子供が何を考えているのか分からなくなってしまうのか。
子供の立場に立って考える時間も必要なんじゃないかな。
子供の頃は、決して楽しい思い出ばかりじゃなかったことを。
子供は、とても小さくて不安な生き物なんだと。
何も分からないまま、この世界に独り放り出された孤独な生物。
守ってあげられるのはオトナだけなのに、なんてオトナは頼りないんだ。