クリスチャンになって良かったことといえば、呪術的な考え方から解放されたことがある。
19くらいのときに、全身がアトピーで覆われたことがあった。全身が痒く、ただれ、そのときは何か縁起の悪いことでもしたのだろうかと暗く沈んでいた。小学校のときにゴジラの前をして蟻を何匹も踏み殺したからかなとか、自分の人生の悪事を振り返ってた。振り返ってみれば様々な悪行があったわけで、いくらかの〝善行”分を差し引いても、悪行の方が上回る有様・・・。これからの人生、どれだけの〝善行”を行えば、〝病”は癒されるのかと暗くなったものだ。
このアトピーは社会人になるころには癒えることになるのだが、当時は本当に苦しんでた。
クリスチャンになったのは23歳のイースターの日だったのだが、洗礼槽につかるときもアトピーが癒えてなかった。
クリスチャンになっても、日本で育ったボクの頭にある思考回路は苦しいときがくると、何かが悪かったからこうなるんだという考え方に支配されていた。
当たり前なのだが、これでは堂々巡りでいつまでたっても善行が悪行を上回ることがない。
キリストが十字架にかかって死んだのが私の罪の贖罪のため、それがすべての呪いを背負った。
これを100パーセント信じてなかったのかもしれない。
自分の善行が悪行を上回ることができ、それによって、人生に幸せを呼び込むことができるかもしれないなんて大それたことを少し思っていたのかもしれない。
今年はキリスト教界の不祥事が沢山あった年だった。そこで気づかされたのは、自分のクリスチャンライフを〝他人まかせ”にしていてはいけないということであった。もともとプロテスタントは万人祭司制の性質を持つ、こんなことをいうのもあれだが、同じボートに乗ってるからといって信頼を置く操縦士が間違った方向に舵をとることはありうるのだ。自分の人生が間違った方向に行かないようにするには、やはり、自分が知っておかなければならないことがある。それが聖書で神が何をわたしたちに語っているのか知ることなのだなと最近思わされている。
私たちの罪を帳消しにするために、キリストが十字架にかかり、この世のすべての呪いを受けた。
それは、私たちに救いと解放を与えるためであった。
その方が来られたことを思い出すクリスマス。
結婚生活ここ数年。食いスゴスのようだった。それはアカンかった・・・。