八十庭高校、一般科目棟。
鞄を背負った男子学生が、放課後の校舎内を一人で歩いていた。
たくさんの学生たちで賑わう学生出入口をそのまま通り過ぎ、教員用玄関から外に出て、そのまま電子計算機同好会の部室へと向かった。
部室に入り、中に置いてある何台かのパソコンのうちの一台を起動させると、男子学生はすぐにインターネットに繋げて、あるホームページを開いた。
そこには、「インターネット利用のオンラインゲーム【アミリアン】サービス終了のお知らせ」と書かれた案内が出ていた。ゲームの公式ホームページにも同じことが書かれていた。男子学生はそのゲームクライアントを起動させ、自分のアカウントでログインした。
「ガノート・フェイオン」というキャラクター名が画面に表示された。それを選んでスタートさせた。
ゲームの画面内に映るキャラクターの姿はほとんど自分だけだった。ときどき一人か二人、走り去っていくのが見えた。
どこのチャット欄にも誰の発言もなかった。
「発っ展途上国」という文字が右下に小さく映っていた。
メンバー数が4人となっていた。
他の3人の最終ログイン時間は十年以上前の日付のままで止まっていた。
何もかもがあのときのままだ。
男子学生はそれだけを確認すると、ログアウトして履歴を消してパソコンの電源を切った。
突然、誰かが部室の扉をノックする音が聞こえた。
「渡辺君、ちょっといいかな」
須藤教授の声だ。何故、ここがわかったのだろう。無言で扉を開けると須藤教授があらたまった様子でそこに立っていた。
「クラスの学生に聞いたらここに入っていくのを見たと言うから。少しだけ話をしてもいいかな」
渡辺と呼ばれた学生は無言のままパソコンの前の椅子へと戻り、須藤教授もそのとなりにあるパソコンの前のスツールに腰掛けた。
この部屋の本来の預かり主である部員三名は近くのパチンコ店に行くという話を聞いたので今日は誰も来ないはずだ。周りには部品だけ取られたあとの残骸なのか、それとも作り途中なのかよくわからないパソコンの基盤らしきものや、いつのものなのかもよくわからないフロッピーディスクなどが散らばっていた。
須藤教授は渡辺の方に体を向けて話し始めた。
「私の専攻科でもないのにこうして色々言うのは余計なことかもしれないけど、君のような社会人が一回りほども年の違う学生たちと同じ教室にいるのは正直にいうと苦痛だろう。学位の取得のためということらしいが、君の学力なら大学にだって行けるだろう」
渡辺は電源の途絶えたパソコンの黒い画面を見ながら何かを考えていた。教授の話は前置きの時点で内容が理解できた。
「どうしてここに編入してきたんだ?」
とても明るい口調で警戒心は感じられなかった。
景色が淀む音が聞こえた。板張りの床を伝って真っ黒な鷹が四隅に座った。向かいの一般科目棟の給水が突然途絶え、教員や何人かの学生が屋上の貯水槽を見上げる姿が窓から見えた。
須藤は剣道と居合の高位有段者だ。ここには丸腰で来た。そういった領域まで踏み込んだものならば、だいたいが共通の対人感覚のようなものを持っていて、並の人間が相手ならその感覚だけで相手を制することもできる。
何故、自分はここに来たのだろう。
何故、自分はいま口を開いたのだろう。
須藤は生まれて初めて、その優越した感覚と、これまで当たり前のようにしていた安全感を呪った。
「何がおっしゃりたいのですか」
渡辺の声を、何度も心で反復していた。どこから聞こえてきた声なのかよくわからなかった。正面で渡辺の全身をとらえながら、側面しか見せていないはずの渡辺に身体操作の感覚を限りなく奪われた。四隅にいる鷹は、屋外の場合は単独になる。「清浄展開」と呼ばれる空間制圧の裏技だ。
パソコンの排熱ファンの音が静かに鳴っていた。どうやら一台だけずっとつけっぱなしになっているようだった。
須藤はスツールの上に座ったままだった。窓の外ではもう日が暮れかかっていた。部屋の扉は開いていた。帰りがけの女子学生に声をかけられるまで、須藤はずっと、とりとめもなくスクリーンセーバーを眺めていた。
渡辺功。
翌日、彼の名前で管理棟あてに退学届が出された。
ようやく見つけた。
あのとき誓った。必ず助けだすと。
道を与えられた。
人になれなかった自分に歩く道を与えられた。
だけど閉まったあの扉は自分のものにはならなかった。
だからずっと探した。
お前と同じ病の名前だった。
扉を開く、軋む音が鳴り響いた。