冬に着る標準服は、この学校の学生であるという自覚をほんの少しだけ持ち上げた。
朝の支度を整え、玄関のドアを開けて外に出ると、冬の冷たい空気が目の前の景色から伝わってきた。
最近になってからは、家の前に出ても木葉の姿がないことがよくある。そのときは仕方がないから、そのまま行ってしまう。これまでも、自分の方が早くて木葉が来るのを待つ、ということはほとんどなかった。いつの間にか、こういう流れになってきてしまった。
木葉とはもうすぐで丸二年、一緒に過ごしてきたことになる。夜子の元へやってきて、そして去っていった友人たちの中では、二年という歳月は異例だ。夜子はそんな木葉に対して、不思議と素直に感謝することができた。
やっぱり病気のせいなのかな
それとも、そういう時期がきたのかな
寂しい気持ちはあっても、木葉を責めるような気持ちは湧かなかった。
誰とも喋らずに、講義を受け、そのままどこにも寄らずに帰ってくる。そんな日が多くなっていた。
もともと、これが当たり前なんだ
そこに戻っただけなんだ
いつもの通学路を一人で歩く。今日もきっとそんな日になるはずだ。
学校へ向かう途中の大通りにファストフードの店が一軒だけあり、この日の朝はその店の駐車場の隅の方に見慣れない他の学校の生徒が数人、屯しているのが見えた。
なんだろう
夜子は少しだけ不安な気持ちになった。こんなとき木葉がとなりにいてくれたら、この気持ちも和らいでいたんだろうか。でも、今はいない。夜子はこれまで自分のせいで、木葉が学校で不利になっているんじゃないだろうかとずっと悩んでいた。でも、いざいなくなると、これでよかったとは思いきれず、木葉に対して今まで去っていったものたちとは、その誰とも違う感情があることがわかった。
夜子はいつまでも、いつまでも考えた。その間にも、講義は何事もなく終わっていった。
夜子はあれから部活にもほとんど顔を出さなくなっていた。紺次ともし顔を合わせるようなことがあったら何となく気まずいだろうし、べつに自分はいなくても差しさわりはないだろう、というのが最終的な夜子の判断だった。ただ苦しいだけの学校に、自分は毎日何をしに来ているのだろうか。この講義が終われば、今日もただ帰るだけだ。やっぱり自分とこの教室の全員とは違う。病気と健康とは違う。
虫食いのようにいくつか空いている座席が見えるが、欠席者ではない。学校近くの大通りに同じく面したパチンコ店に揃って繰り出しているのだ。どんな顔をして、心の中はどうなっているんだろう。夜子には想像もつかなかった。
終業のチャイムが鳴った。
帰り支度をし始めると、クラスの男子学生の一人が教室の窓の外を見ながら、
「あれ、もしかして戸川か?」
と言って人影を指さした。そこには確かに木葉の姿が見えていた。
そしてよく見ると、どうやら今朝あのファストフードの店の前で見かけた連中と一緒にいるようだった。男たちに連れられるようにして、正門から外に出ていく様子が見えた。
「一緒にいるの、折原みたいだけど、あいつ私服だな」
男子学生がそう言ったのを聞いて、夜子はとても暗く、沈んだ気分になった。
折原裕樹。木葉と同じクラスの男子学生で、たまたま以前、隣のクラスに行ったときに彼に冷やかされたのを覚えている。確かに木葉のような性格の者に夜子は不釣り合いだったかもしれない。そのことは別にしても、色々と問題が囁かれている学生だった。
男たちはどこかの制服姿の者が二人と、折原と、長身の男と、先頭を歩く男の五人組のようだった。
門を出たところで、先頭の男がおもむろに振り向くのが見えた。表情は見えないが、それはとても威圧的で、排他的で、非現実的な立ち姿だった。まるで空間に上手く溶け込めない。半ば強引に周りの空気を自分の色につり合わせているように見えた。
八十庭の敷地にある図書館は一般にも開放されているため、部外者がいてもおかしくはない。だが男の色に合わされた空気は位が一つずれて見えた。それは夜子が初めて目にする「紫色」だった。歩く様子から見ても、とても友好的な間柄には思えない。
今日も一日平穏に、あるいは情けなく、終わるはずだったのに。
予期せぬ事態に気圧されてしまい、何とかして助けないといけない、という変な正義感だけが強迫的に夜子を苦しめていた。みんなは知らぬ顔だ。自分もできれば動きたくない。
木葉はいったいどうしたのだろう
きっと簡単に変わる、なんて言ったからだ
自分の知らない方へと、どんどん離れていってしまう気がした。
もうどうでもいい
心には浮かんだその選択は、実行できなかった。
スマートフォンをポケットから取り出して、並んでいるアプリの一つを開いた。
GPSを利用した、現在地を共有するためのアプリだ。このアプリが開かれるのは、いつ以来だろうか。これは木葉に教えてもらったもので、出会って間もなく一緒に使い始めた。面白半分で始めたのはいいけれど、居場所がわかる、というのが何だか落ち着かなくて、夜子はすぐに隠れてしまった。木葉には他にも友だちがいるだろうし、別にかまわないだろうと、そのときは思った。
画面には木葉の現在地を示すアイコンが表示された。
そうだ、あのときのままだ。
夜子が隠れてから、木葉がこのアプリを使っているところは見たことがなかった。
木葉は人当たりもよく、明るい性格なので好意を寄せるものは少なくない。だけど夜子が知る限り、誰とも親密な関係を築くことはなかった。
木葉は、川の中州に例え子猫が取り残されていたとしても、
「大丈夫じゃない」
と言って通り過ぎるような人間だった。貧困だとか、病気や災害に見舞われた人に対しても、
「しょうがないじゃない、私に何ができるの」
と言って余計な介入は絶対に図らなかった。そういう性格だから、知らないところでこっそりと何かをするようなことはないことも夜子はよく知っていた。
木葉は自分のどこに居心地のよさを感じていたのだろう。いつも疑問には思っていたが、夜子もそのことにはあまり頓着しなかった。
地図アプリは木葉のアイコンだけを表示していた。夜子は他に誰も登録していない。きっと木葉も同じなのだろう。木葉が誰かの姿を思い浮かべながら、このアプリを操作する様は思いつかない。だから夜子がこれを開くとき身構えたのは、木葉の表示が消えていないかどうかということだった。
しかし木葉のアイコンはずっとあのときのままだった。
木葉は何も変わっていない
夜子が思いつく限り出していた不安や疑いは、木葉に全部、否定された気がした。
だけど今は感傷に浸っている場合ではない。木葉の現在地の表示はおそらく車のスピードで移動している。二人とも普段の通学は徒歩だ、車に乗ることはない。きっとあの五人組の誰かの車なのだろう。
私がやるしかない
どうなるかわからないけれど、動くしかないみたいだ。木葉のことだから、余計なことなのかもしれない。
でも、ほんの僅かにでも、そうじゃない場合があるのなら。
こうして何もないはずの一日は、二人の少女に長い長い始まりを告げるのだった。