あれから三週間ほどが過ぎた。
 気がつくと紺次は、朝の制服姿の衣香にひそかに心を寄せるようになっていた。そして、その姿があると必ず挨拶をするようにもなっていた。それは相手が自分に好意を持っているということを知った上での、少し上から目線の声色だったが、衣香はそれについても嫌悪感を持つようなことはなかった。衣香にとっては、紺次という人間が少しだけどわかったし、ときどき視線を逸らすことでそのことは帳消しにしていた。
 きっとプライドが高いのだろう。それは自分への自信の低さの表れなのだろう。誰かにこうして挨拶をするというようなこともあまりないのだろう。
 紺次という人間がわかればわかるほど、それがたとえどんなに悪いところばかりだったとしても、不思議と嫌になるということはなかった。
 衣香にとっては、紺次のそういうところがどうしてそうなのか、それがなんとなくわかったからだ。それほど、衣香自身もずっと押し殺すことしかできない苦しみにひたすら耐えてきた。
 二人の思いは互いに募るばかりで、その出口はいつまでたっても見つからなかった。朝の「おはよう」の一言がすべてだった。

 紺次は、携帯電話を持っていなかった。だから、このあたりの公衆電話のある場所はほとんど記憶していた。といっても、通学途中にある公衆電話は、近所の集会所にある一か所だけになってしまっていたが。
 紺次はテレビさえもほとんど見ることができず、映像にはいつも怯えていた。それは予期せずにやってくるからだ。そのせいで幼い頃からどうしても周りの話題にはついていくことができず、気がつくと一人でいることの方が多くなっていた。
 紺次がどんな映像に怯えていたかというと、それは「停止した映像」に対してだった。現実の世界というのはどんなものでも常に動いているものだから、完全に停止した映像を初めて見たとき、あまりの違和感と不快感に耐えきれず吐いてしまったのだ。両親はそのときの紺次の様子を見て乗り物酔いだと勘違いした。
 そういうことだから、衣香に対する第一印象は実はあまりいいものではなかった。初めはただ緊張しているせいなのだと思ったけれど、衣香のかたまってしまうその姿はあまりにも異様で、まるで鳥が歩いて横断歩道を渡っていくような、あるいはプロの棋士が突然持ち駒を使って積み木をして遊び始めるような、とても非現実的な滑稽さと違和感にあふれていた。
 今のところは大丈夫なようだが、いつか衣香にもあの受け入れがたい不快感が湧いてきてしまうのではないかと、紺次は心のどこかで怖れていた。
 だが、それは杞憂に終わる。紺次の心的ストレスと結びついているのはあくまでも映像だったからだ。写真や風景画は平気だったし、だるまさんがころんだを見ても、とくに不快になるようなこともなかった。

 二人の間には、互いを思う気持ちと同時に、一定の距離感がいつもあった。
 朝の交錯をそうやって重ねていくうちに、いつの間にか季節も変わっていた。それは、ちょうど梅雨がもうすぐで明けようとしていた頃の、晴れた日の朝の出来事だった。
 いつものように、通学の途中で衣香の家の前を通りかかると、そこには制服姿ではなくて、私服姿の衣香の姿があった。
 私服姿はこれまでにも何度か見たことはあった。たいていは白いブラウスに吊りスカートの、どこか幼さが感じられる姿で、スカートには紺や黒、そして水色などがあり、この組み合わせが好きなのだろうと紺次は思った。
 でもこの日は違っていた。

 衣香は薄い青色の袖なしワンピースに麦わら帽子をかぶり、自転車を押して歩く足元にはサンダルが履かれていた。普段は見えることのない白い素肌が朝の光にきらきらと照らされていた。
 紺次の歩く十メートルほど先で衣香は立ち止まり、そして、かたまってしまった。
 最近ではあまり紺次の前でかたまらなくなっていた衣香だったが、このときばかりはこれまでにないくらいにかたまっていた。

 あまりの姿に、紺次も思わず立ち止まりそうになった。いや、もしかしたらこのとき、立ち止まっていた方がよかったのかもしれない。
 ただ何も言わずにかたまったままの姿で見つめてくる衣香に、紺次は「おはよう」の言葉も出せなかった。
 僅か十秒足らずの間に、二人はいつものようにすれ違い、お互い振り向くこともなく通り過ぎていった。

 背中の先には、衣香の後ろ姿がいつまでも感じられた。

 そして、翌朝。
 いつもと同じように衣香の家の前へとやってくる。昨日の晴れ間が嘘のように、この日の空は曇っていた。衣香の姿はない。
 次の日も、その次の日も、衣香が紺次の前に姿を現わすことはなかった。
 どうしたんだろう
 誰かに聞くこともできず、衣香の家の呼び鈴を押すわけにもいかず、なにもできないまま月日だけが流れていった。
 そしてある日のこと。気がつくと、衣香の家の門のところにあった表札が、跡形もなく剥がされて消えていた。
 表札があった場所には何もなく、その跡は、まるで全部が幻であったかのように紺次の心に深々と突き刺さってきた。
 もう、会えない
 紺次はこのとき、これまでの人生でおそらく初めての喪失を味わった。そして、深い後悔の念に駆られた。

 もう取り戻すことはできない
 失意のなかで、あることに気がついた。それは、停止画面への順応がいつのまにかになされていたことだ。
 停止した映像がほとんど苦ではない。
 心境が大きく変わったせいだろうか。あれ以上のショックだということなのだろうか。
 いずれにせよ、紺次の心にできた空洞がそれで埋まることはなかった。

 あのとき、衣香は何故あのような格好をして、あの朝、すれ違ったのだろうか。精神病を抱えている。多感な年頃でもある。あるいはそんなことも関係なく、衣香はそうしたのだろうか。紺次にはわからなかった。

 

 そして季節は変わり、やがて冬を迎えた。

 街の様子は止まることなく変わっていく。通学途中のあの景色も、すっかり色をなくしてしまった。

 思いを寄せたあの姿も、自転車も、もうそこにはなく、冷たい雨戸だけがあった。

 

 次に何が起こるかはわからない。

 何もわからないで、当たり前だと思っていたあの頃が、とても懐かしく、切なく感じられた。

 雪の降りそうな空の下、あざやかな風景画のごとく、あのときの衣香の姿は、いつまでも紺次の心のなかに映り続けていた。