能うかぎり善を行ない
何にも優りて不覊を重んじ
たとえ王座の側にてもあれ
絶えて真理を裏切らざれ。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
(1792年)
- 能う(あたう)かぎり善を行ない
- 自分にできる精一杯の力で、世の中や人のために良いことをしなさい。
- 何にも優りて不覊(ふき)を重んじ
- 何よりも「自由であること(何ものにも縛られないこと)」を大切にしなさい。
- たとえ王座の側にてもあれ、絶えて真理を裏切らざれ
- たとえ相手が強大な権力者(王)であっても、決して自分の中の正義や真実を曲げてはならない。
バーンスタイン指揮(ファイナル・コンサート)
1990年8月19日にタングルウッド音楽祭にてボストン交響楽団を指揮したベートーヴェン『交響曲第7番第2楽章』
バーンスタインのファイナル・コンサート
10月に亡くなるわずか2ヶ月前の演奏で、バーンスタインは重い病(肺がん)おして指揮台に立った。
(解説)バーンスタインのファイナル・コンサート
1990年8月19日、タングルウッド音楽祭でのボストン交響楽団との演奏は、レナード・バーンスタインの「最後のコンサート」として知られています。病身を押して指揮したこのベートーヴェン『交響曲第7番』は、異例の遅いテンポと深い感情移入により、厳粛で歴史的な名演として伝説的なライヴ録音を残しました。
これは一夜の演奏記録ではない。
一人の人間が、生の極限に立ちながら、芸術の使命をあらためて証言した、精神史の一章である。
タングルウッドの夏の夕暮れ、バーンスタインの肉体はすでに衰え、病はその呼吸を縛っていた。
だが精神は屈することなく、彼はベートーヴェン《交響曲第七番》の中に、人間が苦悩を生き抜くための倫理を見出そうとした。
そこにあったのは、解釈の巧みさではない。
魂の告白、いや、魂そのものの闘争であった。
異様なまでに遅いテンポは、奇をてらった意図によるものではない。
ロマン・ロランが語ったように、偉大な精神は疾走しない。
耐えながら、前へ進む。
音は一歩一歩、重い足取りで進み、沈黙は音楽の敵ではなく、むしろ思想の伴走者として響いていた。
そこに流れていたのは、肉体の時間ではなく、精神の時間である。
ベートーヴェンにとって、歓喜とは享楽ではない。
苦悩を貫き、それでもなお立ち上がる意志の名である。
この夜の第七交響曲は、舞踏の熱狂を脱ぎ捨て、運命と向き合いながら歩み続ける人間の行進へと姿を変えた。
バーンスタインは勝利を叫ばず、抵抗を誇示することもない。
ただ「生き抜いた者」の沈黙を、音に託したのである。
ロランが愛した英雄とは、外的な勝利を収めた者ではない。
自己の内に巣くう苦悩と和解し、それを精神の光へと鍛え上げた者である。バーンスタインはこの夜、指揮台の上で指揮者であることを超え、一人の人間としてベートーヴェンと並び立った。
二つの時代、二つの肉体、しかし一つの精神。
この演奏が「最後のコンサート」と呼ばれる理由は、死が近かったからではない。
芸術がここにおいて、生の意味を語り尽くしたからである。
苦悩は沈黙に敗れず、精神は衰弱に屈しない。
音楽はこの夜、再び人間の尊厳を証明した。

