前記事に捕捉。
そもそも、言論の自由は、何にも侵されぬ権利である。
而して。
為政者に対し、完全なる反対意志を持つ事さえ、啓蒙運動も含め、権利行使する事は、保障されなければならないのである。
為政者が、道を誤っていると感じる時に、それを指弾し、追及する事が、自由に出来ない社会は、健全ではないだろう。
但し。
事実として、剣なき言論は、圧倒的な敵対的な暴力に対して、民衆の盾になる事は出来ないのも確かな現実である。
傲慢を指摘出来るのは確かな事だが、そもそもの話は、理想的な社会の安寧は、残念だが、国家の暴力装置である、軍事力を持たなければ、訪れないのも事実だと云う事である。
地域性を汲む事は、地政学的な戦略性の排他を意味する事に繋がるのも、又、事実なのである。
モラルとすれば、特定地域の苦痛、煩悶を理解する事が可能だが、国体、国家の安定と国民の利益の保障は、イデオロギーに関係無く、保たなければならない。
従って、安全保障上、米国との関係性を蔑ろにする訳にはいかず、戦略性を鑑みるならば、沖縄県に軍事基地を敷かなければならないのである。
だが。
もしも、沖縄県の県民の総意が、脱米軍、脱日本国であり、親中、或いは、独立して国家として振る舞いたい、と云うなら、そもそもの話は違って来よう。
既に、70年余の時間を経たとは云え、その地域的な戦略性の高さから、現在の日本の領土に於いて、唯一、米軍の上陸作戦を実行され、戦火の果てに占領、統治される経験を知っているのは、沖縄県だけである。
従って。
時間を経た今も、半占領地域としての生活を訴える者が居るのは、当然だと云える。
さて。
呼称こそ違っているが、沖縄県の返還以前の米軍と、現在、駐留している米軍とに、実質的な違いは無い。
然し、もしも、沖縄県が、独立し琉球国となったなら、そのイデオロギーが問題なのではなく、独立して現行の経済的な力を維持する事が、困難な社会になる事が、多分、琉球国民衆の不幸の元になるのは、確実な事だろう。
更に。
米国が、72年5月15日に統治権を日本に返還した本当の理由は、自国の軍事力を維持し、基地を維持し続ける実質的な経済的負担を軽減し、且つ、日米安保条約を締結した事で、在日米国基地の経済的負担を日本に負わせる為に過ぎない。
米国が、どんなに云いきかせたとしても、実質的に沖縄の人々から見れば、統治下の時代と、さした変化を感じないのは、当然だと云える。
実質的に、米軍基地内に、戦術兵器としての核が在る事は、誰もが知る、公然の秘密であり、全ての戦略性戦艦、戦闘機等にも、間違いなく通常兵器以外の武器も在ろう。
従って、日本の敵対的な国々から見れば、戦術的に相対し、実質的に仮想戦闘を考えなければならない主体は、米国であり、在日米軍なのは間違いない。
そこで、安倍政権が、進める憲法9条の新解釈は、日本の主体的な軍事行動を可能にするばかりではなく、米国基地に対する仮想敵国からの攻撃を、現状の法解釈のままでは、充分に生かす事が出来ない、世界規模では、五指に入る軍事力を持つ、自衛隊が張り子の虎になってしまうからなのだろう。
殊更、問題視される集団自衛権の話だが、本当は、米国が、自衛隊の実戦参加を望み、自国の軍隊の警備活動を援助し、更には、尖兵の一箇戦闘隊として期待値を持たれているからであろう。
勿論、日本を主体的に自国の軍事力を持って、守護警備する事は、独立した国家ならば、当たり前の事なのだが。
あまりに、長い間、日本は、第二次大戦の負を背負い過ぎて来た。
現状を考えるならば、幾ら、安保条約を持つ同盟国だとは云え、自国を、楽々と再占領出来得る戦力を維持した他国の軍隊が、戦略性を以って、領土に居座り続けるのを、許しているのだから、真の独立国だとは云えまい。
私達は、その負担を考えてみる事をしない。
沖縄県の人々の苦悩を知りつつ、見て見ぬフリをして、ずっと、バイアメリカーナで暮らしている。
政治家は、未だに、不毛な綱引き、言葉遊びに明け暮れ、イデオロギーを弄び、大国の機嫌だけを気にしている。
左派野党、現状の沖縄の地方自治の主体も、そんな現況を持つ、日本を叩く事で、民衆の支持を得ているが、本質的な政治的解決策を持たないのは、支持する民衆を騙す事と同義だと、私は思う。
戦争には、反対だ。
それは解る。理解出来るし、大賛成だが。
けれども、数多の敵国からの、軍事的侵略や、驚異を抑止し、曲がりなりにも、経済的独立を維持して来れたのは、左派や、真の保守が、実質的に忌み嫌う、米国軍隊であり、その保有している〝核〟だと云う事実は、曲げられないのだ。
事実を無視し、理想的な生き方を提示するフリをする、現況の理想主義者を気取る左派団体よりも、実質的に、現状を生き延びる為に国家を模索し続ける、安倍政権の方が、より具体的な執政者に感じるのは、私だけだろうか。