昨日は二度目のロミジュリ観劇。
今回もあみジュリでした。

星組と雪組の表現の違いなのか、、
私が星組版を含め、四度目のロミジュリだったからか、
大劇場の席の関係で音響が良かったからか、
よくわかりませんが、
今までと違った印象を持ちました。

まずスペクタクル・ミュージカルの意味が良くわかりました。
これは一人ひとりのソロが1名を除き、
星組版よりしっかりと歌えているからだと思います。
1月3日に観た時より格段と進化しているように感じました。
スペクタクル・ミュージカルって海外文学の構造と同じですね。
海外文学は登場人物一人一人を主人公にした章が必ずあり、
そこで、彼/彼女の生い立ちなり思想なりが語られます。
一方、日本文学の場合は私小説なので、あくまでも主人公中心で
他の登場人物は主人公からみた記述しかない。
今回のロミジュリでそれぞれの登場人物が
自分の思いをたっぷりと歌います。
それぞれがそれぞれの正義を持っている。
それが集まるとなぜかそれぞれの意に反し、不幸に繋がっていく。
個人主義の国フランスらしいミュージカルです。

愛と死。

死はやけにアクティヴ。
全ての運命を支配している。
だって、死は何もしなくても近づいてくる存在だから。
生きていることが死に向かうことだから。
古くからの憎しみのままに身を委ねること、
慣習に身を委ねることが予定調和な死・・・
そしては、死は男。

愛はやけにパッシヴ。
誰かが行動を起こさないと愛は始まらない。
抵抗することが愛の始まりであり、
抑圧された女性が愛の象徴。

ロミオは男でありながら、闘いを好まない中性的な存在。
ジュリエットは女性ながら、慣習に抵抗する存在。
彼/彼女の父親たち男性は疑うことなく憎しみあう。
彼/彼女の母親たち女性は闘いは嫌だと思いながら、
行動できないでいる。

最後は二人の愛が両家の和解を促す。
二人は死によって死に勝った。
死んでしまえば、死の支配から逃れられ、
永遠の愛を手にいれることができる。

でも、残念ながら、今回の雪組の死(彩風)は表現力不足。
星組の死(真風)のように全体を支配している感がない。
そう、トート(死)らしさがないのです。
特にロミオが毒薬を手にいれるシーンが象徴的。
毒を売ったのが死であることがわからない。
私は星組版を観ているので、わかるけど
雪組版を初めて観た人は見落とすのではないかと感じた。

まだみみジュリを観ていないけど
マーキューシオの歌と死が課題かな?