二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
ここを考えてみたいと思います私なりに。新改訳です
二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
冠とはとても聖書では重要です、勿論終末においても
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。
神は私の栄光を私からはぎ取り、私の頭から冠を取り去られた。
私はそれを肩に負い、冠のように、それをこの身に結びつけ、
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。
あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています。
あなたは、あなたのしもべの契約を廃棄し、彼の冠を地に捨てて汚しておられます。
あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
わたしは彼の敵に恥を着せる。しかし、彼の上には、彼の冠が光り輝くであろう。」
それはあなたの頭に麗しい花輪を与え、光栄の冠をあなたに授けよう。」
あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。
王と王母に告げよ。「低い座に着け。あなたがたの頭から、あなたがたの輝かしい冠が落ちたから。」
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
ピリピl 4: 1
そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。
私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、{彼をあなたの御手のわざの上に置かれました。}
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
たとえば
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
朽ちない冠として語られています、自分のものだ!これは自分のものだ!実際そうなるためにあらゆることについて自制するのですが、しかし黙示録の長老たちはちょっと違います、というか達観しているというか、徹底的に神様の前にひれ伏しています。
二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
ひれ伏し 拝み
主を拝んでいます これはいいことか?勿論いいことでこれ以外はありえません。
申命記: 4:19
また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。
たとえでは、星にたとえられているクリスチャンに魅せられて拝んでいるクリスチャンが大勢いますが我々は拝まずに主にだけ拝み、仕えていましょう。高き所、聖なる高台は神の民がなかなか除かない、除きにくい場所です。(旧約聖書参照)
彼は、父の歩んだすべての道に歩み、父が仕えた偶像に仕え、それらを拝み、
偶像(アイドル)を拝み、仕えるクリスチャン多いです、ギブアンドテイク的な、拝めば何か良いものがもらえる的信仰とはキリスト教ではありません。
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
みことばをおこなう 聖書に書いてあります↑
今もリバイバルといっては聖霊の賜物といってサタニストがはやらした霊現象を聖霊と勘違いして人に勧める人達が多いのですが、http://ameblo.jp/rebanonn/theme-10010468416.html
また拝むように、仕えるようにと かような時代にも主にのみ拝み仕えましょう。
二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
そもそも冠自体、もっと言えばその前の御言葉、聖書自体我々から出たものではなく主のものです。
誰かの前に何かを投げ出す時、投げ出したものを投げ出されたほうの人に委託する、好きにしていい、預ける、自分の管轄から離れる。
そんな感じで受け取っています。
別の箇所で言うのなら、やもめの献金やこことも似ています。
なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。
義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。
ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。
全幅の信頼、委ねる気持ち そういうのが無いと黙示録の長老のようでは無いですね、人間に委ね、信頼し冠を投げ出すなんてことは私もしませんよ、神様に委ねるのです。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
ですから、クリスチャンを拝んだり、魅せられて仕えたりしませんように。
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」