「わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。』」
それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。
その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。
イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。
主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」
そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。
ここを見て行こうと思います、いたってシンプルですがとても大事な事が書かれているのです
「わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。』」
それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。
その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。
イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。
旧約ではこうでしたが新約では、パンはみことば神様の事です(たとえでは)
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
というわけでみことば、いのちのパンについてみていこうと思います。
主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」
そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。
主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。
1 自分の食べる分だけ集める
翻って教会関係を見ますと、自分の食べる分の聖書のみことばを集めないですし
また逆に、自分の食べる分以上集めています リックウォレンの本など沢山読んでいて、聖書が何を語っているのか、聖書のたとえとか解らずじまいになっています なぜか?自分の食べる分以上集めているからです。
2 各自で集める
各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」
これも今の教会での常識的なことから外れています、外れているのはわれわれ新約の民であって聖書ではありません。
いまはなんというか、クリスチャンの集まりの中で聖書を読みパンを集める
そして、教会に行ってパンを集める、つまり 各自で集めているのではないのです、ひとりになって集める この事に現在忘れている大きなポイントがあるように感じています。
結果、あらゆる偽りのしるしと奇跡がクリスチャンの間柄で蔓延する旨 聖書に書かれてあるのに、各自パンを集めていないのですっかり敵の術中にはまっているのです。
当然といえば当然の成り行きです。
3 集める量が決まっている
ひとり当たり一オメルずつ、
ただ無秩序に集めればよい どんな量でも良い 秩序正しく決められた量があることがわかります。
4 人数に応じて集める
あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。
世の中ではひとりで沢山、つまり数十人分も食べる人がいますが、聖書のパンでは人数に応じて集める事が命令されています。
各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」
そしてここです、「各自」「自分の天幕にいる者のために」
今は教会に行って、「パンを下さい下さい」と自分の事ばかり、自分が満腹になったらそれでいい
そんなニュアンスを私なんかは受けているのですが。
聖書は逆の事を書かれていまして、自分のことではなく天幕(教会)にいる者のためにパンを集める 事が書かれています、聖書的だろうか?聖書的です
すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。
だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
詩篇:146: 7
しいたげられる者のためにさばきを行ない、飢えた者にパンを与える方。主は捕われ人を解放される。
テマの地の住民よ。渇いている者に会って、水をやれ。のがれて来た者にパンを与えてやれ。
わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。
飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。
他にもありますが、パンに関する箇所は「みことば」のたとえとしてみると実は新約のクリスチャンに向けて書かれている事がわかります。勿論ここもです。
わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです。
わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。
各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」
自分だけ聖書を読んでるからいい、集めているから そういうことではなくて、自分の属している教会のクリスチャンのために聖書を読み、パンを与える という事を捕らえていきましょう、メッセージする人は何で聖書を読んでいるのだろう?皆さんのために集めている事を思い大切にしましょうね。かといって、それでいいではなく、みなさんもこのようになってくださいね。
各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」
混ぜ物をして売るような人は別ですけど
私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。
そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。