そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
こんにちは、この箇所を見ていきたいと思います「たとえ」で 一般的にこの箇所は『神の目に君は高価で尊い』とか『生きているだけで大丈夫』など人間を大切にしている教会で盛んに使われている箇所ですが さらに深く見て行こうと思います、御霊に属することをひたすらかんがえます。
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
一般的に、もっと 肉的に見ると衣食住のことが書かれていることがわかります 主は全能なので主のみ心を行なえば勿論くださいます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
思い煩わずにいて、明日の心配はしなくて大丈夫!あすのことはあす その日つまり、今日の労苦は今日で十分あるから、明日の事で思い煩うのはやめよう、神の国と神の義を求めよう!
勿論そう思っていますがもっと、霊的な事柄に目を向けます
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
それらの日 それぞれの日 否 つまり複数ではなく 『その日』 単数なのです。
今日は 2010 6/20日曜 今日がその日だとすると、なるほど 労苦はあったな~ と思うわけです。
そして今日をその日として裁いてしまい、それ以上の事柄を穀物(みことば)の計量枡(量り)を少なくしてみてしまうのです。
その日に関して 単数であり 労苦が十分にある という定義に従って他の聖書箇所を参照にしてみて行きます。
だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。
その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
神の日とその日との関連性が書かれています 他にも単数の日として キリストの日 主の日 などあります
私が書きたい事は その日をいつとするか? というクリスチャンの心がけです
会社勤めのクリスチャンなら 朝をおきて その日を聖書のその日ととするのか
学校に行ったり、色々場所があるでしょうが 朝起きてその日をその日とするのか?
自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまった クリスチャンの考える事では考えている事が違ってくるのです。
つまり、何処に集中してクリスチャン生活を送っていくのかで違ってくるように感じています。
世の肉的なその日の労苦に集中するのか
それとも聖書で書かれている 神の日 キリストの日 主の日 その日に集中するのか
あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
ここで書かれているではありませんか。
この世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
つまり、世の煩い(わず)のために沈み込む事 と その日の関連があり
その日を上記のその日→ 世の煩(わず)らいのために沈み込む(皆さんその日の世の煩いで沈んでいませんか?)
に定義し決定してしまうと、聖書での霊的な意味合いの その日への備えが怠る可能性があることが理解できます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
そして、聖書のその日は 労苦はその日その日に、十分あります。
約してみますと、その日 といわれている期間に 労苦が十分あるよ。 というメッセージを受け取る事が出来ます。
そういうことが理解できると、今日2010 6/20の労苦に目を留めないで 聖書の語る労苦の日に集中する事ができませんか。
というわけで、聖書の語る苦難の日なる期間に備える事が懸命です
その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。
だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、
その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。
そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。
そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる。』とか、『ほら、あそこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。
キリストの意味はヘブライ語で「油を注がれた(塗られた)者」 現在、自称聖霊に満ち、しるしや奇跡をする人たちに多くの人たちが惑わされています。 その一部が、サタニスト(悪魔礼拝者である事の証拠がこのHPにあります!)↓
http://ameblo.jp/rebanonn/entry-10150675896.html
↑現在教会で聖霊といっているが実は悪霊を使うサタニストに欲が孕んだクリスチャンがその聖霊ください!欲しい! と心に思ってか、あるいは騙されているのか クリスチャンなのに悪霊を受けている現状があります。
世のその日のみに集中せず 聖書で言われている『その日』なる期間に備えましょう!
(ますます神様の事が好きになりました)