そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
24:25
さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。
だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。
24:27
人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。
こんばんは、有名な所ですが さらに「隠された事」を探っていきます。
そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
聖書は クリスチャンがおもに読むものです。
世の中には キリストを自称してる人が日本にもいますが・・・
教会で『キリストがここにいる』 『そこにいる』 とは聞かないものです
霊的盲人でも すぐにおかしいと気づくのです。 そして
まだまだそんな事はおこってない 『平和だ、安全だ』となります。
さて、 一転『たとえ』と イエス・キリスト の事を探っていきます。
ヨハネ福 1:41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。 (新共同約)
キリストは救世主 を意味する言葉で、基督、クリスト、ハリストス 、クライストとも表記する。ヘブライ語のメシア (「(油を)塗られた者」の意。
キリストwikiから
聖書では 油を注がれた後に聖霊が下りました。油と聖霊が関連つけられているのです。
サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。
神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
以下もです
あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。
キリスト 油注がれた者
キリスト 聖霊が注がれた者 ともう一方の霊的な意味合いでのことが見えてきます。
父 子 聖霊三位一体でも、キリストは聖霊でもある 事を裏付けています。
ルカ 4:18
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」
イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
そうすると ここのもう一つの隠された意味 が見えてきます。
そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
つまり 日本語での キリスト と言う発音以外に
油注がれた、聖霊に満たされている、霊に満たされている という人物について書かれている事を見るのです。
確かにキリストがそこにいる、あそこにいる と言う話も警戒すべきですが、隠れた意味合いとして
油注がれた、聖霊に満たされている、霊に満たされている人
等の『霊的な意味』について警戒するべきです。
そうすると
動画でもあるとおり すでに出てきています
http://ameblo.jp/rebanonn/theme-10010468416.html
もちろん 発音では『キリストがいる』とは言われず
油注がれた者、霊の賜物に優れている、偉大な などと言われています。
そして
24:24
にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
この箇所も成就しています。
人を倒して笑うようにしてみせたり、金歯にしてみせたり等々
実は悪霊の働きなのですが 大きなしるしや不思議なこと を見て
欲が孕んで 大切な聖霊を汚れたものとみなしています
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
汚れていると感じなければ、他にそれを増やしたりしないものなのです
口では『聖霊が汚れてる』などと言いませんが。
行いによって否定しているのです 皆さんはそういうことを絶対にしないでください。
24:25
さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。
だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。
24:27
人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。
これらの事に負けず、信仰による忍耐をしましょう。
神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
エレミヤの部屋では聖書のたとえ クリスチャンとしての歩み方など有益な事がたくさん書かれています 是非ご覧ください。