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東日本大震災から、11日で3カ月となった。東京電力の下請け会社で働き、震災当日、福島第1原子力発電所内にいた田村智則さん(48)=福島県浪江町=は、避難先の大和市内でふるさとに帰れない日々を過ごしている。「以前のように友人たちと過ごせる暮らしに戻りたい」。先の見えない生活の中で、生まれ育った故郷への思いは募るばかりだ。
3月11日午後2時46分—。突き上げるような強い揺れが全身を襲った。当時、田村さんは4号機のタービン建屋の地下で、放射性物質の測定作業に当たっていた。
停電で真っ暗になり、コンクリートの粉じんが舞った。立っていられないほどの揺れの中、壁に寄りかかりながら出口を目指した。「生きて帰れないかもしれない」。粉じんを吸い込まないよう、作業着の袖を口に当てながら、暗闇の中、死を覚悟した。
「早く出してくれ」。たどり着いた建屋の出口付近では、作業員らの怒号が飛び交っていた。外に出るために必要な放射性物質の有無を確認する検査が行われていたが、殺到する作業員に追いつかない。しびれを切らして外に飛び出す人もいた。
翌日早朝、自宅にいた田村さんは避難指示を知らせる行政無線を耳にした。父(76)と長男(18)を連れ、県内の知人宅に泊まることにした。「1、2日で自宅に戻れるだろう」。約20年間働き、原発の安全性を疑わなかっただけに、当初は楽観視していた。だが、その予想は裏切られ、原発の状態は悪化の一途をたどる。
「ここには、いられないかもしれない」。12日午後、1号機建屋の水素爆発を伝えるテレビ映像に背筋が凍った。想像したこともない光景だった。14日には3号機建屋も爆発した。
事態の悪化にすぐ家族を車に乗せ、座間市内の親戚宅に向かった。いまも父を看病するため、大和市の支援を受け、同市内のアパートで避難生活を続けている。
「まだ、福島に帰らないの?」。4月から新潟県内で働く長男からは、電話のたびにこう聞かれる。帰りたいとは思う。しかし、原発から放出された放射性物質の除染のめどは立たず、故郷・浪江町は警戒区域に指定されたままだ。
「長い間戻れないのだったら、大和で職を見つけて生活した方がいいのかもしれない」。田村さんの胸中は揺れることもある。しかし、簡単に割り切ることはできない。
「コメと野菜を育てて、釣った魚を食べれば生活できる。やはり、たとえ体を壊したとしても帰りたい」。故郷への思いが断たれることはない。
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