何もしなくてもいい日だった。厳密に言えばすべきことばかりだった。でも、今日じゃなくてもよかった。だから何もしなかった。

昼に起きて、昼からバキを見ていた。逃げていたのかもしれない。マッチョな男たちが「敗北を知りたい」と言っていた。

眼科に電話した。コンタクトの取り寄せの連絡だ。ここ一週間ぐらいやろうと思っていたけど、今日じゃなくてもいいとずっと思っていた。やっと今日に重い腰をあげた。我ながらなかなか偉い。

振込の用事があったので、コンビニに行った。今日じゃなくてもよかった。それでも今日行こうと思った。

振込が終わって、お菓子コーナーへ向かった。気になったスナックを手にする度、本当にこれが必要なのか考えた。結果、何も要らなかった。その後、酒類のコーナーへ向かった。気になるアルコールを手に取る度、本当にこれを飲みたいか考えた。結果、何も要らなかった。何も要らないことに気が付いた。結局、本当に要ったカフェラテとタバコ、アイスクリームを買った。外に出て空を見上げると、秋の夕焼けが雲を染めていた。段々雲は茜色と影のコントラストを湛え、鮮やかな階梯をなしていた。寒いほどの夕風が、半袖の腕を裂いた。まるで自傷行為のようにアイスクリームを舐めた。気持ちがよかった。ススキが擦れる音と共に、枯れ草が宙に舞う。絵にかいたような秋と感傷に酔った。

帰り道、ハザードランプを炊いた軽トラが路肩に停車していた。迂回する際に何があったのか覗いてみると、雌鹿がうずくまっていた。丸い目をしていて、まだ周りを見渡していた。軽トラのフロントはベコベコになっていた。その時、同時に複数の考えが脳を巡った。あの雌鹿に子どもはいないのか?あの雌鹿の命に別条は?動けないということは少なくとも足は折れているが、足が折れた鹿はどうなる?馬なら死ぬが、鹿は?不思議と軽トラのおじさんへの心配は一切なかった。

家に帰ると、母が先に家に帰っていた。風呂を洗った。その後、またバキを見始めた。コンビニに行く前よりも面白く感じた。

かつて先鋭化していた感性や思考は鈍りを見せ始めた。よく言えば潔癖が治ってきたのだろう。歳のせいか、タバコのせいか、すれたせいか、視野が広がったからか。

お笑いを始めた。学生お笑いだ。コロナ禍でまだ活動はない。敗北を味わいたい。自分の持っているものが、自分の大事にしてきた宝物をガラクタだと言ってほしい。自分は天才ではない。故に敗北と喪失を味わなければ前に進めない。最善を尽くした上で苦汁を舐めたい。

怖い。自分が否定されることが怖い。他者が怖い。自分が脈絡のないただの抽出された存在物として扱われることも、他者を無機物として認識してしまうことも。悲しい。他者をアスファルトの塊と同化させて、素通りしてしまうことが。

雨の匂いが好きだ。それも、傘の差さない雨。人の匂いがしないから。雨の匂いは人を溶かして背景にする。自我の境界を曖昧にする。

犬が好き。愛の獣だから。愚かしくて愛おしい。臭い。人間に似ている。

人が好きだ。服を着ている。二本足で歩き、肥大化した頭脳を抱えている。奇形だ。見れば見るほどヒトという生き物の造形は奇妙だ。地球上の最たる珍獣はヒトだと思う。みんな寂しいのに、誰とも繋がりたがらない。みんな「そこ」に居るのに。愛されたいのに愛さない。愛せないから。

ポルノが好きだ。一人でいいから。誰も傷つけなくていいから。自分が傷つかないから。

ポルノがあまり好きじゃない。道具になるから。道具にしてしまうから。

最近自信がついてきた。得るものより失うものの方が多いことに気が付いたから。最後には独りだと気が付いたから。

最近寂しく感じてきた。別に何も求めてはいない。何かを消費する気もない。何かを奪ってほしい訳でもない。ただそこに漠然とした寂寥があるだけ。

最近昔のことを思い出す。怖いから。前に進みたくないから。明日より多分いいから。

最近日記をつけている。今日より明日をもっといい日にしたいから。こうすれば次にどっちの足を前に出せばいいかわかると気が付いたから。

「今から模様替えしよか!」

いきなり後ろのドアが勢いよく開き、母はそう言った。僕はその時タバコを咥えながら本を読んでいた。あまりに唐突で、危うく根性焼きを作るところだった。時間は午後6時半。母は仕事帰りだったし、模様替えをするには少し遅い時間だった。何を唐突にそんな大掛かりなことを…と思ったが、僕も人のことを言えないぐらいには衝動的に何かをしでかす人間だった。少し考えて、なるほど、俺にはこの人の血が混じっているんだな、とやけに自分の半生に納得した。タバコの火を消して、本に栞を挟んで部屋を出た。

模様替え、といってもそれは家全体ではなく僕の部屋だけだった。前々から自分の部屋の模様替えをしたいと言っていたのを覚えていてくれたらしい。というのも、僕の部屋の真ん中には、やけに場所を取る二段ベッドが鎮座していた。銀色の鉄骨がむき出しで仰々しい上に、照明の光を阻害して部屋全体が薄暗くなる。別段友人が家に来る訳でもない。彼の二段ベッドの存在価値というものは幼少期の憧れと高揚感のみであって、今や無用の長物である。とりあえずそれだけは変えたかった。

早速作業に取り掛かる。鉄骨を解体する作業から入ったが、さすがに長年母子家庭で二人(と一匹)で暮らしていただけあって、息は合っていた。別段仲がいい訳でも話をする訳でもないが、作業は順調に進んだ。骨の折れる作業になると思われたが、終わってみればものの30分で解体と搬送が終わった。長年使い古したカーペットも取り除いた。ベッドの下からは高校時代の時間割表が出てきた。何の思い入れもないから一瞥して捨てた。

せっかくなので、散らかり放題の部屋の整頓も始めた。まずは本。無秩序に並べられた本棚と散乱していた積読を、新しくこさえた本棚に入れていく。大きく分けてフィクション・小説コーナーと古典コーナー、宗教、神話コーナーを作った。聖書はフィクション・小説コーナーに置いた。

その後、散乱した机の整理。酒の空き缶や薬の殻やそれを入れていた空袋、ヘアピン。カスの綾波レイみたいなラインナップだ。でなければメンヘラ。まだ使える薬だけ残して残りは捨てた。その散乱物の中に、元カノからもらったハンドクリームとリップクリームがあった。付き合っていた頃にはもうとっくに使い切っていたが、せっかくもらったものだから取っておいたものだ。別れを決意する時に、整理して処分したはずだった。なぜか手元にまだあった。あの日のことを鮮明に思い出した。あの時の髪型、服の色、空の模様。あの頃に戻りたいとは思わない。けれども、今でも時々思い出す。そして、きっとこれからも思い出してしまうんだと思う。そっと取り出して、押し入れの紙袋にしまった。

次に、もはや物置になっていたカラーボックス。そこは、昔好きだったアイドルマスターのグッズで溢れていた。今はもうすっかり熱は冷めてしまったけど、こうして見てみると幸せだったんだな、と思った。捨てるのも忍びないので、きちんと整理してから物置にしまった。

こうしてわかったことは、僕は物を捨てられない人だということだ。僕はどんな過去があっても忘れられない。そして、その記憶や思い出を愛おしく思う。でも、いつまでも記憶の殻に閉じ籠っているわけにはいかない。だからこそ、僕は物を残している。当然ながら、物それ自体は記憶をしない。だが、人はそれに触れた時に想起することで、褪せたはずの思い出を呼び起こすことができる。たんぽぽの綿毛に触れたように、トンネルから抜け出すように、セピアの記憶は鮮やかに想起され、色づき、没入を促す。僕はしばらく、記憶の海に潜っていた。

その夜、寝る前にYoutubeのチャンネル登録欄の整理もした。昔はまっていたゲーム実況者や動画編集者を眺めていた。ある人はもうすっかり動画を上げていなかったり、黒歴史扱いなのか消してしまっていたり、未だに細々と続けていたり、最大手になっていたり。その人たちのツイッターもチェックした。ある人はまだ別のゲームをしていたり、ある人はもうすっかりリアルに引き戻されていたり。

あの時の熱狂、憧れ。何者かになろうとして、何者にもなれなかった事。あんなに面白いと思っていたことが、今や少しも心が動かなくなってしまった事。乾いたナイロンが水を弾くように、何者にも何事にも心が満たされなくなってしまった事。

なぜか、部屋からは夏の夜明けの匂いがした。

良く晴れた春の日、僕は庭で読書をしていた。小鳥の鳴き声、枯れ草の擦れる音。不規則で暖かいリズムは、より深く思索の道へと導く。

ふと気づくと、その音の中に異質なものを感じた。素っ頓狂で滑稽な音。その正体は、祖母がオカリナを練習している音だった。その音単体であれば可笑しくて微笑ましいものであるかもしれないが、僕は些か不機嫌になった。というのも、僕は彼女をこの世で最も恨んでいる。人間は集中する際は適度な雑音が必要であると言うが、その雑音は多少僕のキャパシティを超えていた。それは耳からのノイズでは飽き足らず、思考の波さえも乱した。手元にあったウォッカを呷り、感覚器官を麻痺させてから再び本に向き合った。

思えば、あんな人間を見たことがない。幼稚で飽き性、極度な自分勝手で「暴力的」とも形容すべきお節介を焼く。近所の人間からは当然のこと、親族全員からも疎まれていた。知性にも品性にも乏しいくせに、宗教儀礼にはうるさい。そのくせ変に打算的な面があって、大学に合格した僕には色目を使うが、高校をダブった親戚の男の子には冷たい。

怪物だ。老女のくせに身長は165cmほどある。体重も80kgを下らないだろう。理性はなく、話は通じない。家庭内のヒエラルキーでは常に頂点に君臨している。僕は幼少から彼女を恐怖と軽蔑とを以て認識している。怪物以外の何者でもない。時々、親族はお歳暮という名の貢物を持って来る。怪物…

だが同時に、彼女は僕の影でもあった。彼女のことを反面教師とみなすということは、彼女の汚点を自らの内に認める、ということを同時に意味する。事実、内省すればするほどに僕は彼女の血を濃く引いているということを認めざるを得ない。

何よりも忌まわしい事実。それは、なぜか彼女の周りからは人が絶えないことだ。その正体が恐怖であったり、事を大きくしたくない「大人の対応」だとしても。そしてこの僕自身、彼女を恨み切れていない。何度も嫌な思いをさせられた。何度も恨んだ。なのに、どこかで彼女のささやかな幸福を願う自分がいた。もう10年はまともに口を利いていない。この理由のない情念は一体どこからやって来るのか。

その日の夜、救急車のサイレンが近所に響いた。彼女は体を壊して寝たきりらしい、そのことをふと思い出した。「まさか」という感情。胸がざわつく。自分では折り合いのつかない感情を抱きながら、ただ窓から漏れ出る青白い光を眺めていた。

後日、そのサイレンは他所の家の不幸を意味していたことを知った。彼女に送り返そうと思い開封していなかったお年玉の封を切った。三万円だった。そのうちの一万円を、財布にしまった。寒い日だった。その後、ぼんやりしながら煙草を吹かして映画を見た。

この本は最古の仏教聖典として知られている。そのため、純度の高いブッダの教えをこの本を通じて知ることができる。私は仏教思想について全くと言っていいほどの素人なのでその仔細については説明を省かせていただきたいのだが、この本を通読して、「こだわらない」「犀の角ように進め」「臆見を排する」という考えが最も心に残った。

前者であるが、こだわり(執着心)は悲しみや苦しみを生む、中庸こそが平穏な境地(涅槃)であるという考えは儒教にも見られるアジア的認識であろうと思われるが、西洋化の進んだ近代日本にも通用する、今こそ立ち返るべき思想なのではないかと思う。今日、我々は物で溢れた日常を過ごしている。町に出れば物で溢れ、タブレットを開けばネットショッピングで何でも手に入る。そのために、取捨選択の自由と選択肢は充実しているが、選択肢が増えると、それだけ選り好みもすることとなる。ブッダ曰く、我々は身の回りにあるもので済ませる、満足するべきである、と。曰く、こだわり(愛執)を持ったそれを喪失した(手に入れられない)時に、人は嘆き、怒り、悲しむ。たしかに、幸福を追求して努力することは重要であるとも考える。それ自体はある程度正しいとも思うし大切なことであると思う。仏教では一切の欲を否定するが、私はそうは思わない。この世界(これは一人称のものでもあり、三人称のものでもある)を進ませる推進力は多くの場合、欲望であると思う。功利主義にも通じる考えであるが、各々の渇望は結果的に巡り廻って社会全体のためになる「場合」もあると思う。その際、個々人は夢や目標を必然的に持つことになるが、そういったものは執念や欲望ともなり、激しい闘争を伴うことにも繋がる。事実、資本主義が行き届いたこの世界では文明の利器が次々と生まれ、身の回りでは物で溢れ、それ自体を見れば快適であるように思われる。しかし、それに乗じて欲が欲を呼び、身に余るほどの富を求め、欲望のための闘争が激化し、人類は生物としての限界を超えようとしている。そして功利主義に裏打ちされたはずの社会はかえって生きづらく、息苦しく、苦しみを生み出し、いたずらに他者を痛めつけては顧みない世界を生み出した。ブッダの生きた2600年前と大して人類は変わっていないのではないか。ここで、我々はもう一度ブッダの教えに立ち返るべきではないだろうか。おそらく、人類はおおよそ愚かなので彼の理想主義には共鳴できないし、私も例にもれず愚かなので不可能だ。だけれども、少しぐらいは仏教の「引き算」を心得れば、個人の平穏や安寧には寄与するのではないだろうか。

「犀の角」についてだが、これはある意味自己正当化であると取られてしまうかもしれない。大雑把にいうと「群れるな」ということだ。人は、ただ群れてしまうと堕落してしまう。自分のするべきことやしたいことを集団の中で見失い、ただ受動的に動いたり、享楽的にだらけてしまう、ということだ。我々は、集団的な狂気を歴史的にも経験的にも知っている。犀の角のように悠然と、自立してただ目的に向かって歩み続ける覚悟と精神力こそ尊いのである。

臆見を排することに関しては言うまでもない。彼は絶対的真理の否定を説いたが、それはソフィストの詭弁とは全く性質を別にする。ソフィストは真理の探究の否定のために相対主義としてそれを説いたが、ブッダは真理の探究のためにそれを説いたのだ。つまり、目の前にあるものだけが真実ではない、我々の信じているものだけが事実ではない、ということであり、絶えず真理を求める努力を怠るな、自分と立場を異にする人間の言説を尊重するべきである、ということだ。フランシス・ベーコンは帰納法を用い偏見や先入観を問題視する4つのイドラを提唱したが、彼の2000年前からブッダは警鐘を鳴らしていた。

以上が私がこの本を読んで心に残ったものの大まかな紹介だ。あまりに大まかすぎて、彼の説法の1/100も伝えられていないと思う。しかし、最も私が関心したものは、この言説が2600年前にされていた、という事実だ。今回紹介しきれなかったが、現代の抱える問題にも適応されそうな箴言や、現代の哲学や心理学にも似通ったような理論をブッダは既に説いていた。彼が「目覚めた人」である所以を感嘆と共に理解した。

僕の地元のブックオフは、ハードオフと併設されている。今日は、実存主義か近代哲学(主にドイツ辺り)の古本を求めてそこへ訪れた。

入店するや否や、店頭に並ぶ大量の物品に圧倒された。これが資本主義と文明がもたらした豊かさなのか。全体的に黄ばんだ店内をずずいと抜けていく。お目当ての哲学コーナーへと、埋もれんばかりの本の山を押しのけるようにして向かっていく。

どこの書店でも、哲学コーナーは店の奥だと相場は決まっている。世間での扱いと同じで、つまはじき者にされているようで少しだけ寂しい。

さて、例外なく最奥に哲学コーナーを見つけた。が、ここも例外なく、取り扱われている量が異常に少ない。他のコーナーと比べるまでもなく、4,5冊程度しかなかった。そしてそういった時に置かれているのは、たいていマイケル・サンデルの本だ。そんな決まりがあるかのように。そして今回も例外なく、それは並んでいた。すべてが予定調和の店内にただただ、けたたましく店内BGMが流れる。なるほど、自分の存在が歓迎されていないということはすぐにわかった。だけれども、それに抗うようにして岩波とちくまのコーナーへ足を運んだ。

存外、掘り出し物があるようだ。せっかく来たのだからと色々と物色していると、店員が店内放送を介して

「いらっしゃいませ!当店は現在~キャンペーン中で~」

云々と、声を張り上げて言っている。マイクを使っているのだから、わざわざ大声を出す必要はないはずだが。それに呼応するように他の店員も「いらっしゃいませ!」だとか、「よろしくお願いします!」だとか喚いている。この人たちは本当にこんな大声でそんなことを喚き立てたいのだろうか。きっとやらされているのだろうな、と半ば憐憫、半ばうんざりとして、本を探すのもそこそこにブックオフのコーナーからは離れた。

なんとなく、ハードオフの方にも立ち寄った。昔懐かしいゲーム機のカセットがあった。なにかめぼしいものがないか探したが、いかにも売れ残りのカセットばかりで、唯一少し気になったのはレイトン教授ぐらいだった。そのゲームコーナーを抜けると、テレビやら無線機やら、見たことのないような電子機器が並ぶ一角があった。特に興味はないので素通りした。そして陶器、子ども用おもちゃも同様に素通りしていくと、古着と家具のコーナーにぶち当たった。服が森のように吊られている。こんな服、誰が買うんだろうかと思ってしまうようなものばかり。靴もあったが、どれも褪せて、使用感たっぷりの物ばかりだ。

この店は、たくさんの物で溢れている。だけれども、何もない。僕は資本主義の象徴の店からそそくさと抜けだした。

結局、3冊の本を買った。貧困層の女性にインタビューした本と、日本神話と欧印神話を比較した本、阿Q正伝の3冊。

夕焼けの空の下、いつもよりも車の速度を10kmぐらい落として、ゆっくりと帰った。なんとなく、悲しくなった。帰りに、久しぶりにビールを買って帰った。

運命という言葉は、個人的に好みではない。それはつまり、僕が可能性の僕(シモベ)でああり、可能性というものの一種の宗教の信者であるからだ。可能性は遍在することを、僕は知っている。万物に、客観的不変性なぞ存在しないと考えている。事物は絶えず流転し、変幻し、変容、変貌、進化に退化、褪せては濃くなり…それらは絶対的にあらゆる蓋然性に富んでいる。僕には、運命という言葉はそれらを否定しているような気がしてならないのだ。予め定められた調和に沿って、この大地が運行しているとは考えられない。考えたくもない。万物は可能性に富み、自らがその選択でもって、自らの道を開拓し、剪定する。それこそが僕の宗教である。僕には、可能性を諦めることができない。

 

例えば、とある川の上流から、一本の枝を流すとする。その枝は川の流れにもがき、抗い、自らの浮力でもってして泳ぐ。それはその道中で、倒木に引っ掛かったり、その身を打つ激流に力尽き、その旅を終えるかもしれない。あるいは、最後には大洋を拝み、見事にその偉業を成し遂げるかもしれない。では、それは果たして運命であろうか。

 

例えば、とある男が、電車すらないあまりに牧歌的な田舎から、摩天楼聳え立ち、あまりに背徳的な光を放つ街に辿り着いたとする。彼には文化的資本も、教育も、たいそれた志も野望も、何もなかった。しかし気が付けば彼は海を渡り、砂漠を踏みしめ、氷漬けの峡谷を臨み、縁もゆかりもない教会で、ニヒリストなくせして十字架の前に跪いていたりした。それは果たして運命だろうか。

 

あの摩天楼の森の中で、数々の出会いがあった。いつの間にか、彼はその出会いに囲まれていた。その一粒一粒が、彼の定規を破壊し、血肉となり、それらは邂逅というには十分にふさわしいものだった。果たしてこれは、運命だっただろうか。

 

僕は可能性の信者である。運命という言葉を否定しなくてはならない。それを受け入れるということはあってはならない。では、我々は、本当に、完全なる不確定性の中でめぐりあい、変容し、再び出会うのだろうか。我々の出会いは、我々の青春は、我々の絶望は、果たして予定されていたのか?

 

僕は甚だ懐疑的である。ただし、ごく微量に、運命という粒子は我々の間を飛び交っているのかもしれない。その粒子の衝突が、その時に発されるエネルギーが、我々を引き合わせる。そういった事象もあるのかもしれない。ならば、あの時に零れ落ちた運命の粒子というのは、一体何を示唆していたのだろう。蓋然性から見放された我々は、果たして本当に運命から憐れまれる存在だろうか。蓋然性から拾い上げられた我々は、果たして本当に祝福された存在なのか。

 

信じたくもない。運命という存在を。片づけたくもない。運命という言葉で。

 

仮に運命というものがあるとしたら、それは非常に残忍で狡猾で、驕り高ぶり、我々を嘲笑する存在であると確信している。僕はそういう驕った連中には頭を垂れる気は毛頭もないし、むしろその鼻をへし折ってやりたいし、唾を吐きかけてやりたいのだ。ああ運命、それは高みで我々を見下ろす。その笑みからこぼれる歯は肉を引き裂くナイフであるが、果たして我々は噛み砕かれる存在であるのか?我々に、どうして捕食者を睨み返さない道理があるだろうか。どうして我々が馴らされた羊になる必要があるだろうか。

 

時に、この世界は残酷でできていると考えてしまう時がある。それは一体、誰の仕業だろうか。一体、本当にその残酷に犯人はいるのだろうか。罰されるべき者は、裁かれるべき者はいるのだろうか。このあまりに主観的な世界に住む僕には、まだ何にもわからない。それでも、僕は可能性を諦めたくはないし、抗うことも忘れたくはない。

 

次に流れ着く岸は、どんな粒子が満ちているのだろうか。

靴を買いました。NIKEの運動靴です。運動靴といえば聞こえは格好悪いですが、これはランニングシューズというカテゴライズです。僕はファッションというものにほとんど興味を持たない人種でありますが、なぜだか靴にだけは執着があって、中でもNIKEが好みでして、時々にNIKEのオンラインショップのカタログを眺めては、そのデザインや配色というものに感心するのです。そこで見つけた気になるスニーカーやらをブックマークして、懐に余裕のある時や、グッと胸に刺さり抜けなくなったものを、治療の一環として購入したりするのです。今回購入したものは、そのカタログではランニングシューズと書かれていましたのでそう呼称しますが、ただし、僕から言わせれば、それは運動靴に他ならないのです。どうも気取ったようで、その呼び方は馴染まないのです。理由は他にもありますが、今回の記事では運動靴としてそれを捉えようとします。

 

その運動靴は紫を基調とした色のようで、しかしよく見てみると赤や青が鱗のように織り交ぜられているので、そう見えるだけのようです。さきほど形容した「鱗のように」というのが僕のキモらしく、僕は無自覚にこういったデザインを好むようで、気が付けば僕の身の回りにはそういった感じのデザインが転がっています。時々、あまりにも好みの靴に出会った時にスマートフォンを持って母に尋ねるのですが、その回答のほとんどが「魚みたい」で片づけられるのです。確かに僕は魚も大好きなのですが、決して「魚っぽいから」といった意見でそれを選んだことはありません。依って、この嗜好はただ一辺倒に魚に支配されているのでなくって、もっと根源的な部分でもって、その延長線上に魚があるのだと思います。

 

他に例を挙げるのであれば、僕は西洋建築に見られるステンドガラスや、イスラーム建築のミニアチュールのような、細かな色が、しかしそれぞれが個の境界を持ちつつも混じりあう、そういったデザインが好みなのです。中でも、サマルカンドのモスクの色などは言いようもなく好みであり、世界史の資料集で取り上げられているのを見てから、ずっとそこを訪れるのを夢みているほどです。早くお金持ちになって行きたい。

 

その嗜好を日々に向けるなれば、夕日を眺めるのが僕の趣味なのですが、夕日というのも細かなグラデーションなのです。あまり夕日を見ない人からすればそれは意外かもしれませんが、夕日とはよく見ればそれは、明らかに個のグラデーションであるのです。ただ一見すると茜色、と片付くその色は、実に注視すると赤、朱、青、緑、藍、紫… と、完全なるたゆたう個の集合であると言わざるを得ず、それがやはりなんとも美しいのです。更に、夕日というのは必ず同じ姿を二度と我々に晒すことはなく、常それは変化し続けるのです。仮にアポロンやヘリオス、ラーやヴィシュヌが「あの夕日になれ」と頼んだって、きっと夕日は拒絶するか、あるいは「なれない」と言うでしょう。あるいは、彼らを飽きさせぬように変化し続けるのを神々と契約したかのように、あの夕日たちは気まぐれに、しかし律義に変化し続けるのです。それが美しくって、面白くって、人々は夕日を見るんだと思います。多分、神々も我々と同じような気持ちで、同じ夕日を見ていると思います。この靴は、きっと夕日に馴染んでくれると思います。

 

さて、靴に話を戻しますと、この靴を購入した理由というのはそれだけでなく(別にデザインが好きすぎて衝動買いしたとか、浪費癖がまた爆発したとか、そういうのでは決して、まったく、本当に、全然違いますからね)、医者から「君は運動をした方がいい」とアドバイスを頂きましたし、僕もちょうど何か運動を、と考えていたものの、それに適した靴というのがあまりなかったので(あんなにいっぱい靴持ってるのに)、この靴を手に入れたのです。僕がこの靴を運動靴と呼称するのは、そういった背景もあるのです。だから、再度強調すると、僕はそういった背景があって、必要であったから、この靴を購入したのです。そういうことにしておいてください。給料入ってたし。

 

しかし果たして、僕は根っからのインドアですから、靴というものも本来ならばそこまでの必要がありません。しかし、どうしても靴だけは買ってしまうのです。それは僕の根本から来る、外へ出ろ、太陽の光を浴びろという生理的な本能から来るものなのかもしれませんが、結局、気が付けば手元にある靴というのは8足を下らないほどにコレクトしてしまっています。しかし配色や種類というのはてんでバラバラであり、その時々に使い分ける事が出来ているので、決して無駄であるということはないと考えています。僕は今、必死に言い訳をしています。

 

さて、それ以外では、最近読書がはかどっています。読書の秋とはよく言ったものです。僕が読む本、つまり興味というものが多岐に亘るというのは僕を知る人であるのならば既に周知の事実であるとは思いますが、ここ最近ではもっぱら三島由紀夫の「金閣寺」にハマっています。彼の文章はいい意味でくどくていいですね。より良い言葉を使うならば、彼は描写の緻密が、魔力が、執念が、どうもこれまで読んできた文人とは一線を画したものであると思いました。個人的に彼の思想にも共感するところがあり、金閣寺だけにとどまらず、どんどんと彼の著作に触れたい気がします。

 

他の本でいうと、僕は各文明の神話や風俗、民話に興味があるのですが、シュメールの「ギルガメシュ叙事詩」と「イナンナの冥界下り」を読了しましたので、シュメールの理解を深めることもしたいのですが、とりあえずは他の文明に目を向けようと思い、エジプト神話とケルト神話の本を新たに買いました。これはまだ懐中にないのですが、どうしても僕はこの手のものから逃れられないようです。言い換えるのならば、楽しみです(語彙喪失)。しかし、先ずは手元にある古事記の攻略を優先したく思うのですが、どうも気になるポイントが多すぎてなかなか進みません(僕は疑問点や覚えておきたいことをメモしながらこの手の本を読むので)。ああ、また積読が増えた…

 

そういえば、密かに、それはリハビリ程度ではありますが、学業に復帰しようと企画しているものですから、新たなモラトリアムに向けて勉強を少しずつ始めています。本来、この1年は休養の1年にするつもりでいましたが、とある心変わりを起こしましたから、これに従っています。僕の心はいつもこうなのでもう慣れた気でいましたが、なんたって振り回される僕の気にもなってほしいです。まあ、少しばかり考えることがあっての決断ですが。この時期から始めて果たして間に合うかはわかりませんが、レット・イット・ビーは僕の十八番ですから、まあなんなりと受け入れます。どんな運命でも。

 

陽炎は溶けて、ヒグラシは夕焼けを歓待することはなくなりました。あれだけ憎んだ夏も、過ぎればせいせいするような、少し寂しいような。次には少し冷えた風が山に朱や紅を運んで、物語は終末へと向かう季節。七二候とか二四節季とか覚えようかな。似非雅人になれるし。

 

あと、オススメの本とか映画とか、何でもいいので教えてください。僕の興味心は今、絶好に飢えています。

 

以上、駄文、駄日記でした。

時に、人は僕の事を「闇が深そう」だとか言ったりする。人間とは不思議なもので、その外面というのは、内面を映し出していることが多い。その実、僕は非常に剣呑で内向的な性質を持っていると自負しているし、人は一瞥にしてそれを見抜く。だが、「闇が深い」とはどういったことだろうか。僕は闇が深いと自称したこともなければ、認知したことすらない。では、人々の言う「闇」とは一体何を指しているのだろうか。ただの根暗な性質ということのシノニムであろうか。本当にそうであろうか。

 

我々は、日々の中で十字架を背負うことを宿命づけられている。仮にまだ十字架を持たない者があるのならば、それはあまりに幼いからか、あまりにも透き通っていたり、小さすぎたり、軽すぎたりして、知覚することが出来ていないだけだろう。人々は日々、十字架を背負いながら活動する。僕は「闇」を「十字架」と仮定する。僕は十字架を、その者に課されたカルマであると考える。そのカルマは、過去から追いすがってくる呪いの手だけでなく、深く刻まれた喜びや執着、その歴史全てを包括した存在であると考える。

 

では再び問う、諸君が度々僕に投げかける「闇」とは、一体何だ?闇が深いとは、一体何を指している?

 

先ほども申し上げたが、闇とは、十字架とは、その人である。十字架に自らを乗せ、彼ら自身をも背負って歩く。もはや、その十字架自体が「彼」ですらあるのだ。ならば、その反証として、諸君自らの十字架の一切を投げ捨ててみよ!一体そこに何が残る?残るのは抜け殻としての肉体、十字架を背負うための、その縄の引手としての肉体でしかない!では、船を失った船引どもは一体どうなるだろう。手持無沙汰に、ただその湖畔で呆然と立ち尽くすほかないだろう。

 

僕は未だ幼い。幼すぎるので、その十字架の正体に、その十字架の示唆することに気が付かないままに生活している。十分にこの十字架に振り回されて生きてきたにも関わらず、この十字架は一切の正体を隠蔽しているのである。その色も、大きさも。何度問うても、その十字架はガタガタと身を震わせるばかりである。そのクセ、この十字架はこの引手にぎゃあぎゃあと指図するのだ。引手が幼ければ、十字架も幼いのか。

 

この十字架の、何が重いだろうか。この、見もできない十字架は、諸君には見えていると言うのか?なんと愚かしい、なんたる思い上がりか!僕の経験上の話ではあるが、ただのこの引手を一見しただけで、その十字架を見ることのできると言った人間ほど、愚者が多い。僕の隣で歩みを共にしてくれる者ほど、自らすすんで隣で歩んでみたくなる者ほど、その十字架に触れない者が多い。なぜなら、彼らは人の十字架に触れる方法を知っている、あるいは本能的にそう学んでいるから。そして彼らは、人の十字架とは実に、それは不謹慎である場合があまりにも多いが、面白いことを知っている。ただ、それは弄ぶでもなく、嘲笑するでもなく、共に祈ったり、共に背負ったりするのだ。

 

そして時に、十字架は命令する、「かの十字架に祈りを捧げよ」、と。

 

それは本能という言葉が相応しいかもしれない。そして、大抵の場合、我々はその命令から逃れる術を持たない。むしろ、寄生虫に支配された芋虫の如くに、その十字架へと歩み寄る。こうした場合、不思議とその十字架の双方というのは惹かれあう。それは、運命という言葉が相応しいかもしれない。そして我々が言うには、「君、ちょっと十字架を見せてくれないか。少しだけ、祈らせてくれないか。」

 

その瞬間にその十字架が変容することがある。否、十字架とはそもそも変容し続ける存在であるが、時折、十字架と十字架とが交じり合う時、触れ合う時。その殻を破り、露出した部分を照らし合わせる時、それは火花を散らし、化学反応的に、全くの異物に変化してしまうことがある。

 

ああ、その火花のなんと美しく、力強く、儚いものか!きっと君たちは知っている、その火花を!その輝きを!その青春を!そして、その時に初めて自分の背負うものを知る者さえもいる。

 

さて、本題に戻ろう。では、この十字架の、僕の闇の、どこが深いのだ?誰がそれを知っている?誰がこの十字架に触れられたか?僕は知っている、この十字架に触れ、祈りをささげてくれた、十字架を変容させてくれた者を。

 

だが、人よ、人々よ、群衆よ!諸君には一体何が見えている?何を見た気でいる?何を知ったぶっている?この肚の底で蠢く、犇めく、この汚泥を見た気でいると言うのか?では君自身の十字架に誓いを立て、答えてみよ。我が十字架は一体に何色か?十字架に架けられた者は一体何者だ?何を叫んでいた?何を欲していた?何を見ていた?さあ、答えてみろ、そこまで言うのならば!掌で弄んだからには!口を開き、喉元に拳を突っ込んででも何か言ってみたらどうなんだ!

 

秋雨が窓を打つ。次に火花が散るのは、いつだろうか。ああ、十字架の近づいてきた音が、聞こえる。

それは彼のみのエゴイズムであるはずだった。それは彼のみの破滅的願望であるはずだった。そのサソリは、暗く、小さく、あまりにみすぼらしい洞穴に住んでいた。そこには僅かに流れ来る雨水を啜ったり、彼の関心ごとを少しばかり貪り、辛うじて生きていた。その身は骨身ばっていて、魂はただ本能的に襲い来る衝動に応えたり、怠惰な官能に触れたりするばかりであって、未だ幸いなるかな、自らが僅かに持ちうる、だがそれも純然と自発的に興ることのなかった矜持への自覚でのみ、腹の底から実存に応えることができた。サソリは厭世に満ち満ち、その毒で以て自らも蝕んでいた。だが、彼はそれで良いと思い込んでいたし、実際、彼にとってそれは些末な事物でしかなかった。

 

彼の毒は身勝手だった。彼はあまりに身勝手であった。彼はあまりに身勝手に与え、施し、侵し、奪い、去っていった。利他ですら利己であることを知っていたのに。

 

時々にその毒にやられた者がその巣穴に近寄ろうとすると、彼はかえって深くその洞穴に閉じこもった。彼は決して、それはごく稀な例を除き、その醜い表皮と魂とを見せたくはなかったのである。

 

転じて、彼はあまりに破滅的で衝動的であった。一時に、その性分を矯正しようとしたことが幾度とあったが、どうにも治らないらしい。「角を矯めて牛を殺す」という諺通りになったことも何度かあった。ただ、そんな彼にも未だ希望する者が居ることは知っていたので、仕方なしに生きてみたものの、やはりどうも本能(それはいわゆる一般の本能でなく、彼が独特に獲得したものであり、それは獣性に従うものでなく、むしろあまりに人間的である)から逃れることができなかったようだ。しかし道連れの頭数はもうこれまでと決めていたし、これ以上に荷を増やすのも当人からしても面倒であったので、適宜破滅を夢見たし、努めてすることと言えば気休め程度の知識の集積である。ただそうしてようやく堆積したものは、あまりに子供っぽくて、あまりに浅くって、あまりに非生産的であった。

 

ある日、彼は夕陽を見た。黄色く塗られたその夕陽は、どうしてか彼の心に留まった。理由はわからない。好き者の夕陽だなあと、そう思ったのは覚えている。

 

そこから、彼と夕陽との対話が始まった。陽が落ちる頃に、サソリは巣から這い出して、対して夕陽もこちらを興味ありげに覗き込むのだ。いままでならば、きっとまたその踵を返し、巣に帰って行ったに違いないのに。どうもサソリが気付くには、その黄色い夕陽と、彼の外骨格の下、血肉というのは同じくして黄色であると、そう気が付いたらしい。ただ、その黄色いのも、ただ黄色いのではなく、それはグラデーションであり、時にその鮮烈さは、彼からして全くの異物でもあった。それもまたどうやらおかしくって、彼は夕陽に語り掛けるのだった。

 

彼は本能で夕陽と話した。否、正しくは、彼は本能の隠し方がわからなかった。彼の本能は、破滅的だった。それは、毒虫の哲学であり、怠惰な夜の待ち方であった。それに彼女を付き合わせるわけにはいかなかった。少なくとも、初め、彼はそう考えていた。彼にも、まだ少しの理性があった。

 

なぜなら、夕陽は落ちなければならなかった。本来、そう神と契約したはずの夕陽を、その夕陽の落ちるのを、彼の本能に触れれば邪魔してしまう。わかっていたはずだった。否、わかるはずだった。だが悲しいかな、彼の毒は嘘を許さない毒だった。すっかりと、彼は本能で語ってしまった。 

 

そうするうちに、彼は気づいてしまった。かの夕陽は、この本能に興味がある。この退廃と没落、夜を見る眼、それは厭世の眼、突発的に発せられる衝動と狂気と、破滅に。気づいてしまったのだ、彼女は確かに、それら本能に少しばかり惹かれてすらいたのだ。

 

そして彼は気が付いた。自らも、その陽光に、空を染め上げたその色に、それは決して一見にしては計り知れない色の深さに心地よさを感じ、その一端を理解してしまったのだ。それは、彼と同じ色をしながらも、しかし全く別の物質でできていた。

 

そして本能は、彼女の黄昏の哀愁を追いかけてしまった。逃すまいと、追いかけてしまった。その本質が何で出来ているのかはわからない。利己的な利他なのか、もっと単純な、忘れかけていた獣性から来る何かか。

 

月の眼が僕たちを睨んだ。サソリは、急に破滅が怖くなった。サソリは、道連れを破滅に追いやることを、自ら信じて疑わなかった運命を、本能を受け入れることに、突然に窮するようになった。

 

これは果たして悲劇だろうか。近視の悲劇で済むだろうか。遠視の喜劇に転んでくれるだろうか。

 

アンタレスは赤く輝く星である。その身は、燃えたがっている。