732冊目『朴正煕の時代 韓国の近代化と経済発展』(東京大学出版会) | 図書礼賛!

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本書は、朴正煕体制の経済政策を論じた本格的な学術書だが、経済用語もろくに知らず、半可通な知識しかない私にとってはだいぶ難渋した本だった。とりあえず素人なりに本書のエッセンスを抽出しておこう。朴正煕が成し遂げた高度経済成長は、「漢江の奇跡」と呼ばれる。多くの韓国人が誇らしく感じる、この韓国現代史に燦燦と輝く功績は、まさに「奇跡」という名にふさわしいものだった。そのことを理解するために、まず植民地支配から解放された朝鮮半島の「初期設定」を確認しておこう。朝鮮半島の悲劇は、帝国日本の敗戦によって宗主国が退いた後でもすぐに独立を享受したわけではないことにある。ソ連は対日戦を布告した日に、朝鮮半島北部に攻め入り、1948年8月20日には平壌と元山を制圧したわけだが、これに対抗するように米国は仁川へ上陸し、38度線以南を米軍政下に置いた。南北分断の起原である。経済的な観点から見たときに、この南北分断統治は、韓国にとって非常に不利であった。というのも、朝鮮半島の豊富な地下資源や、日本統治下で発展した重化学工業の施設の大部分は北に存在していたからである。実際、1945年時点の電力出力の86%が、北に依存している状態だった。一方で、韓国は主な産業は農業であり、天然資源も工業設備も乏しい。まさに、「韓国経済は文字通り『無一文からの出発』であった」(212頁)

 

これほどシビアな状況から、いかにして韓国は経済大国になったのか。自然資源に恵まれておらず、なおかつ国内市場が狭小な韓国にとって、取れる選択肢はひとつしかなかった。外国から輸入した素材を、同じく輸入した資本財を用いて加工した製造品を輸出に向けるという加工貿易型の経済戦略である。韓国の高度成長の特徴は、輸入期から輸入代替期を経て、輸出期へという、通常の先進国であれば数十年かかる経済発展のプロセスを短時間で成し遂げたことである。そして、輸出志向型工業化の結果、1977年には、「輸出100憶ドル」のスローガンを見事に達成した。では、この経済発展の舵取りを握った朴正煕の手腕とはどういうものだったか。朴正煕は、まず経済企画院を創設し、経済関係省庁を監督、指導する権限を与え、その長官には副首相が主任し、開発行政を強力に一元化した。そして、新官僚機構を創設する上で、守旧的な両班の官僚を排除し、有能な若手の実務官僚を幅広く登用したのである。彼らは米国帰りのエコノミストであり、経済政策を立案し、韓国の近代化を支えた。「朴正煕時代にいたって、韓国は能力を持つ人間が正当な評価を受けて上方に動員される「垂直的社会移動」によって特徴づけられる開かれた社会となった。経済企画院はこの垂直的移動の頂点に位置し、多様な階層出身の優秀な頭脳がここに集い、韓国における有能な官僚集団として機能した」(218頁)

 

また渡辺利夫は、軍事政権だったからこそ、奇跡のような経済成長が可能だったと主張する(第6章「朴時代における経済開発への挑戦」)。軍事クーデターは、儒教的風土の中で育ってきた韓国の伝統的な政治を打ち破り、利益追求を目的とした政治構造が正当化された。これは、私欲、利益追求を蔑視する儒教的政治とは正反対の政治であり、そういう意味でまさに軍事政権の誕生は、朝鮮半島の伝統政治に照らしても革命的な出来事だった。また、軍隊こそエリートの供給源でもあった。韓国陸軍士官学校では、政治学、経済学、国土開発等、国防に関わる新知識を授ける場所であり、そこで身に付けた合理的思考が、第一次経済開発五か年計画(1962‐1966)を可能にした。軍の出現こそ、韓国の近代化への大きな貢献であった。さらには、冷戦構造それ自体も韓国の近代化を後押しした。朴正煕は、韓国の民主化よりも経済成長を優先させた。なぜなら南侵をうかがう北の存在がある以上、それを跳ね返す国力がなければならないからである。特に米国のカーター政権による在日米軍撤退問題が浮上したことで、韓国の国民意識においても強国化を志向するようになった。「『滅共統一』が現代韓国の重化学工業化の重要な理念として機能したのである」(232頁)。こうして韓国は、経済合理性を追求できる唯一のファクターであった軍事政権によって、未曾有の経済成長を成し遂げたのである。

 

さて、問題なのは、朴正煕体制をどう評価すべきかである。経済面から言えば、漢江の奇跡を達成した朴正煕が偉大な人物であることは間違いない。一方で、経済成長の功績の朴正煕個人に過剰に帰すべきではないという意見もある。例えば、ハーバード国際開発研究所と韓国開発研究院の「共同研究」では、朴政権下の韓国の経済発展は、市場に任せていた方がもっと効果的であったのであり、そもそも政府の介入は必要ではなかった、という結論を下した(第五章「『偉大な人物』と韓国の工業化」)。その他にも、朴正煕が民主化よりも強国化を優先するあまり、独裁的に振舞ったことも評価はできないだろう。1969年には三選禁止条項を改定し、三選に成功し、1972年には大統領の権限をさらに強化する維新体制を確立した。戒厳令の連発、国家保安法による拘束等、こうした抑圧体制のなかで、労働者は過酷な環境で働かされ、大学が軍事訓練の場となり、多くの民主活動家が犠牲になってしまった歴史を決して忘れてはいけないだろう。気鋭の政治学者、漢洪九は、朴正煕体制とは、北が敵だと言いながら、実は国内で自国民相手に戦争をしていたに過ぎないと言っている。そういう意味で、朴正煕体制の評価の難しさは、経済成長か民主化かという選択を強いられる構造そのものにある。この問題をめぐって韓国内保守者は、次のような時間差によって朴体制を評価する。「韓国の政治的民主化を花開かせる『先行条件』を整備したのが、朴正煕政権下の国家資本主義体制もしくは権威主義開発体制の経済的成功にあったことは明らかだろう」(261頁)。つまり、経済発展したからこそ、中流が形成され、多元的な社会が可能になったというものである。「植民地近代化論」とは違った、「維新体制近代化論」とも言うべきものだが、こうした議論は韓国内でどれほど力を持ち得ているのだろうか。今後の研究課題としたい。