開口一番はそれじゃない事件
夜9時半。あまりにむしゃくしゃして夫の顔も見たくないので、近所の薬局に買い物に行くことにした。ファンデーション用の刷毛を買う必要があったので、徒歩で向かう。せめて自転車でくればよかったが、後の祭り。前回おいしかったレモンサワーも購入し、飲みながら歩いた。さて、どこへ向かおうか。一駅出たら居酒屋はたくさんあるだろう。ただ、最寄り駅までが結構遠い。二車線の通りまで来て、越えて駅に向かうべきか迷う。ベンチに腰を掛けて、缶をあおった。こうしている間に車が突っ込んできて、運よく死ねたりしないだろうか。もう何もかも馬鹿らしくて、全部がどうでもいい。火星まで飛んでいけたらいいが、なかなか火星は遠い。散歩中の犬を3匹くらい見送って、携帯を確認したが、夫からの連絡は一切ない。かりそめの反省もしていないということだ。飲み終えたところで方針を決めた。とりあえず最寄ってない最寄り駅に行き、駅前に新しくオープンしたバルを偵察することにした。店内は落ち着いた雰囲気だった。紅茶ハイなんて初めて見たから、とりあえず注文した。『マレー鉄道の謎』を読み始めて、全然殺人事件が起きない一章を読み終えた。二章も読み終えたかったが、汗だくで冷房にあたったのでみるみる体温が下がりとにかく寒い。仕方がないのでラストオーダーを20分すぎたところでお暇することにした。どうせ帰るにしたって30分は歩くのだ。(最寄り駅から30分歩く。健康だね~。)コンビニに寄ってトイレを借り、一服でもするかと煙草を眺めたが、どうせなら電子タバコに手を出してみよう。スターターキットとかいうのがすごく安い。唯一知っているアイコスではないが、アイコスに似たものだろうか。店員はアルバイトだろうか、若い女性が、躯体の色が「ピンクしかないんですよ〜」と言ったが、ピンクで大丈夫だ。何を買えば吸えるかわからなかったから、タバコ自体を問うたら二種類くらい答えてくれた。じゃあそっちで、というと、「あ」と言ってレジを離れる。なんだろうと思っていたら「さっき無料券出たんですよ」と、前の客が残していったらしい券を、レシートの屑籠から拾い上げてタダにしてくれる。店長かバイトリーダーかわからないが、女性よりももう少し年配の男性が、不安そうにこちらを見ていた。あるいは咎めたかったのか。とんでもない一日だと思っていたが、深夜のコンビニバイトは親切だった。帰りの道中で吸いたかったが、こういうものは初手で充電が必要になる。モバイル充電器も持っていなかったから、お預けだ。そんなこんなで帰宅中、家々から漏れるそっとした明かりの美しさに心奪われていたところ、リビングのドアが開いているに違いないくらいどばどばと明かりが漏れていて美しくない家に着く。我が家だ。音を聞きつけて玄関に現れた夫が、目をつりあげて「誰といたの?」と言う。反省をしていないどころか、浮気を疑っているのだ。馬鹿かコイツは。脳みそがお花畑でできているのか。どこにそんなラブロマンスを感じる要素があったのか知らないが、敏感なはずの嗅覚が人間味の方面には全く機能していなくて言葉も出ない。本当に開口一番はそれでいいのか。私との婚姻生活を続ける気を少しも感じない。まず、関係を取り直そうとするならば、仮にでも謝罪するものだろうし、あるいは無視して寝ていてもかまわない。深夜はお互いそっとしておいて、翌日に立て直すということもあろう。もし私を心配するならば「夜遅くに怖い思いをしなかったか」などと声をかけるものではないのか。そもそも、誰のせいで家を出ざるを得なくなったのか、本当にコイツは何もわかっていないのではないか。私の怒りが理解できないことは仕方ない。譲ってそこは認められないとしても「君の怒りは理解できないが、もし私の顔を見たくないんだったら、私が出ていくから」などと言って家を空けるのがジェントルなのではないか?などと考えていたら、夫のお花畑頭のなかで勝手に話が進み、「言えないってことは、そういうことだね」などと言う。夫のことを紳士的な人間だと思って結婚したが、紳士は加齢と共に失われるようだった。顔に文字が浮かび上がる機能があったら「何言ってんだコイツ」と両頬に浮かび上がって然るべきだったが、もう「思考回路」と呼べるほどの理性を持ち合わせていない夫に何を言っても仕方がない。古文単語も古典文法も覚えていない生徒が模試で創作する独自全訳くらい意味不明な解釈が夫の中で出来上がってしまったのだから、もう何を言っても無理だ。こんなことなら間男1ダースくらい引き連れて帰るべきだったかとヤケクソの思いでいると、夫の気が一応済んだのか、姿が見えなくなった。寝室に行ったらしい。開口一番は本当にそれで良かったのか?夫は真のところ、私の安否など心配していないのだ。自分が安寧して暮らせるこの家屋と夫婦というポジションをほかの「誰か」に奪われるのではないかと心配しているようだった。夫は「あなたのことを信じている」と言うが、信じているのは人間関係の方面には全く機能しないその自分の鼻だけだ。でなければ「誰と」などという言葉が最初に出てくるはずがない。自分が妻を満足させられていないという不安の裏返しなのだろうか。自分の幻影を私に押し付けるのはやめてほしい。後日談。煙草は良かったが、暑くて外で吸っていられない。