こんにちは。
リバース・フロウの清原です。
いよいよ今年も、師走になりましたね。
一年が過ぎゆく速さを、「今年は特に早い」と、毎年同じことを言いながら過ごしていることに、あらためて気づかされます。
皆さまは、体調は壊されていませんか?
さて、今回は、経営者・エグゼクティブに特に意識していただきたいと、強く思うテーマについて書かせていただきます。
「経営者に”キャラ”は必要なのか?」について考察したいと思います。
先日、ある講演の終了後、参加者である某企業の人事担当者の方々に、ご相談をいただきました。
あくまで立ち話程度です。
しかし、相談内容が深刻になるにしたがい、その方たちの使うフレーズで、少し気になることがありました。
その方たちは、ある担当役員(上長)を指して
「あの人は、ああいうキャラだから...」
という言い方をするのです。
1人がこのセリフを口にすると、他の2人が力なく笑い、その後、言葉が続かなくなります。
この雰囲気からして、皆さんが使っていた「キャラ」という言葉は、明らかにネガティブな響きを持っていることがわかりました。
要するに、
「ああいうキャラだから、わかってもらえっこないですよ」
「ああいうキャラだから、話なんて聞いてもらえっこないですよ」
「わかってくださいよ...」。
そこにいた誰もが、私に対してこう言いたいんだろうなあということが、アリアリとわかったわけです。
思わず私も苦笑いをするしかないのが、今になってはたいへん残念でした。
そして同時に、ちょっとした違和感を抱きました。
もし私がその企業様の、くだんのご本人にお会いでき、率直にフィードバックをしてくれと、頼まれたとしましょう。
私なら何と申し上げるか。
「エグゼクティブにもなって、自分の”キャラ”を作っているのは、”甘え”ですね」
もちろん、誰でも”キャラ”を持ち、それは”個性”とも言われることがあります。
個性は強みにもなり、人の役に立つことも大いにあります。
ただ、ビジネスの場で部下が上司を評して言う”キャラ”は、必ずしも”個性”とはイコールにならないようです。
先ほどの参加者の方からご相談を受け、私はあらためて思いました。
経営者・エグゼクティブなら、
”キャラ”を超えた領域で、自分を作り上げなくてはならないのではないか。
つまり、
エグゼクティブとしてふさわしい自分を、早急につくり上げる必要がある
ということです。
もしもその方が、いつまでも現場のリーダー気分で「これが俺のキャラだから」と、周囲のヒンシュクを買っているとすれば、それは”甘え”でしかありません。
そのキャラゆえに、どれほどの、良い提案を見過ごしてきたのでしょう?
そのキャラゆえに、どれほどの、良い情報をスルーさせてきたのでしょう?
そのキャラゆえに、どれほどの、あきらめを周囲に強要してきたのでしょう?
じつに、もったいない。
いえ、それどころでない「害」を、会社にもたらしているといっても過言ではありません。
例えば、
現場のリーダーが集まる会議で、喧々諤々の議論の末、画期的なアイデアがいくつか挙がったとします。
「これは、良いぞ!」と皆が口々に言う。
しかし、誰かがつぶやく。
「いや、待て。A役員のことだから、このアイデアは採択されないよ。だって、失敗は絶対に自分の責任にしない”キャラ”だから...」
そして、誰もが始める、次のような”忖度”。
「そうだな。A役員の”キャラ”からすると、この部分とこの部分はリスクだから、ぜんぶ削ってしまおう」
そして、出来上がった当初のアイデアは、結果、どこにでもあるような平凡なものになり果てている、という具合に。
自分がいない場所で、多くの人に忖度をさせているとは。
エグゼクティブとは、恐ろしい影響力を持っているのです。
また、こんな例もあるのではないでしょうか。
「あのB役員は、人の話を聴かないキャラだから」
「C役員ね。人を信じないキャラだから」
おわかりですよね。
エグゼクティブが自分の”キャラ”に安住して始めると、現場には”害”しか残りません。
だいたいの場合、周囲に「あきらめ」を強要することになるのです。
エグゼクティブが高い報酬をもらうのは、簡単に言ってしまうと、持つべき”責任”が大きいからですよね。
”責任”とは、いったい何でしょうか?
私はそこに、現場のモチベーションを上げる(精神的な衛生面を保全する)責任もあると思っています。
現場のモチベーションを上げるには?
社員にとって働きやすい環境、働きがいある環境をつくることです。
働きがいある環境を作るには?
トップにいる人が、現場の声を聞き、適切な意思決定と責任を負うことです。
では、そこに前出のような、ネガティブな使われ方での”キャラ”はどう活きるのでしょう?
活きないのです。
つまり、
キャラは要らない。
これが結論かと思います。
エグゼクティブなら、キャラを超えた領域で、自分を作り上げることが求められます。
そうでないキャラごっこをしているなら、それは、”甘え”でしかありません。
周囲に、”忖度”を迫る甘えです。
それに、現場を盛り立てる責任を取るつもりがないなら、それほど高い報酬をもらう必要もないでしょう。
私が日ごろエグゼクティブに説く、「行動変容」とは、それくらいの腹の括り方が必要です。
それでもキャラを発揮したいのであれば、当然”ポジティブに働くもの”として活用していただきたいと思います。
近い将来、本当に「AI上司」が、現場の責任者と取って代わることになるかもしれない。
そんな時代です。
人の心を健全に保つことができないエグゼクティブは、今後ますます厳しい視線が向けられることになるのは、間違いありません。
エグゼクティブとしてふさわしい自分。
あらためて考えてみませんか?
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
年末に向けて、ご自愛ください。
追伸:
個性と言えば(次男坊の学校にて)。
中学生の次男坊が、また先生に叱責を受けました。最近、完全に目をつけれられているようです。
聞けばその日、先生が彼に言ったのは、
「あなたね。周りを見てみなさい。誰も、あなたがやってるようなこと、やってないでしょ?
なんで、周りと同じようにしていられないの? ほんとに幼いわね!」
昭和戦後教育。
これが連綿と続けられている場所が、こんなにも身近にありました。
セリフがあまりにあからさまで、思わず笑ってしまいました。
ちなみに彼の通っている中学は「私立」です。
「右へならえ」の教育を受け、言われたことを同じようにやり、人の顔色をうかがい、自分の頭では何も考えなくなる。
戦後教育のなれの果て。。。
こういう人たちを、自分の手でせっせと量産している自覚は、この先生にはあるのでしょうか。
今の世の中を、この先生はどう見ているのでしょうか。
興味本位ですが、一度聞いてみたいと思っています。
幸運に圧しつぶされないためには、
不運に堪える以上に
大きな徳を必要とする。

引用元:【経営コラム】忖度を強要するエグゼクティブ
リバース・フロウの清原です。
いよいよ今年も、師走になりましたね。
一年が過ぎゆく速さを、「今年は特に早い」と、毎年同じことを言いながら過ごしていることに、あらためて気づかされます。
さて、今回は、経営者・エグゼクティブに特に意識していただきたいと、強く思うテーマについて書かせていただきます。
「経営者に”キャラ”は必要なのか?」について考察したいと思います。
先日、ある講演の終了後、参加者である某企業の人事担当者の方々に、ご相談をいただきました。
あくまで立ち話程度です。
しかし、相談内容が深刻になるにしたがい、その方たちの使うフレーズで、少し気になることがありました。
その方たちは、ある担当役員(上長)を指して
「あの人は、ああいうキャラだから...」
という言い方をするのです。
1人がこのセリフを口にすると、他の2人が力なく笑い、その後、言葉が続かなくなります。
この雰囲気からして、皆さんが使っていた「キャラ」という言葉は、明らかにネガティブな響きを持っていることがわかりました。
要するに、
「ああいうキャラだから、わかってもらえっこないですよ」
「ああいうキャラだから、話なんて聞いてもらえっこないですよ」
「わかってくださいよ...」。
そこにいた誰もが、私に対してこう言いたいんだろうなあということが、アリアリとわかったわけです。
思わず私も苦笑いをするしかないのが、今になってはたいへん残念でした。
そして同時に、ちょっとした違和感を抱きました。
もし私がその企業様の、くだんのご本人にお会いでき、率直にフィードバックをしてくれと、頼まれたとしましょう。
私なら何と申し上げるか。
「エグゼクティブにもなって、自分の”キャラ”を作っているのは、”甘え”ですね」
もちろん、誰でも”キャラ”を持ち、それは”個性”とも言われることがあります。
個性は強みにもなり、人の役に立つことも大いにあります。
ただ、ビジネスの場で部下が上司を評して言う”キャラ”は、必ずしも”個性”とはイコールにならないようです。
先ほどの参加者の方からご相談を受け、私はあらためて思いました。
経営者・エグゼクティブなら、
”キャラ”を超えた領域で、自分を作り上げなくてはならないのではないか。
つまり、
エグゼクティブとしてふさわしい自分を、早急につくり上げる必要がある
ということです。
もしもその方が、いつまでも現場のリーダー気分で「これが俺のキャラだから」と、周囲のヒンシュクを買っているとすれば、それは”甘え”でしかありません。
そのキャラゆえに、どれほどの、良い提案を見過ごしてきたのでしょう?
そのキャラゆえに、どれほどの、良い情報をスルーさせてきたのでしょう?
そのキャラゆえに、どれほどの、あきらめを周囲に強要してきたのでしょう?
じつに、もったいない。
いえ、それどころでない「害」を、会社にもたらしているといっても過言ではありません。
例えば、
現場のリーダーが集まる会議で、喧々諤々の議論の末、画期的なアイデアがいくつか挙がったとします。
「これは、良いぞ!」と皆が口々に言う。
しかし、誰かがつぶやく。
「いや、待て。A役員のことだから、このアイデアは採択されないよ。だって、失敗は絶対に自分の責任にしない”キャラ”だから...」
そして、誰もが始める、次のような”忖度”。
「そうだな。A役員の”キャラ”からすると、この部分とこの部分はリスクだから、ぜんぶ削ってしまおう」
そして、出来上がった当初のアイデアは、結果、どこにでもあるような平凡なものになり果てている、という具合に。
自分がいない場所で、多くの人に忖度をさせているとは。
エグゼクティブとは、恐ろしい影響力を持っているのです。
また、こんな例もあるのではないでしょうか。
「あのB役員は、人の話を聴かないキャラだから」
「C役員ね。人を信じないキャラだから」
おわかりですよね。
エグゼクティブが自分の”キャラ”に安住して始めると、現場には”害”しか残りません。
だいたいの場合、周囲に「あきらめ」を強要することになるのです。
エグゼクティブが高い報酬をもらうのは、簡単に言ってしまうと、持つべき”責任”が大きいからですよね。
”責任”とは、いったい何でしょうか?
私はそこに、現場のモチベーションを上げる(精神的な衛生面を保全する)責任もあると思っています。
現場のモチベーションを上げるには?
社員にとって働きやすい環境、働きがいある環境をつくることです。
働きがいある環境を作るには?
トップにいる人が、現場の声を聞き、適切な意思決定と責任を負うことです。
では、そこに前出のような、ネガティブな使われ方での”キャラ”はどう活きるのでしょう?
活きないのです。
つまり、
キャラは要らない。
これが結論かと思います。
エグゼクティブなら、キャラを超えた領域で、自分を作り上げることが求められます。
そうでないキャラごっこをしているなら、それは、”甘え”でしかありません。
周囲に、”忖度”を迫る甘えです。
それに、現場を盛り立てる責任を取るつもりがないなら、それほど高い報酬をもらう必要もないでしょう。
私が日ごろエグゼクティブに説く、「行動変容」とは、それくらいの腹の括り方が必要です。
それでもキャラを発揮したいのであれば、当然”ポジティブに働くもの”として活用していただきたいと思います。
近い将来、本当に「AI上司」が、現場の責任者と取って代わることになるかもしれない。
そんな時代です。
人の心を健全に保つことができないエグゼクティブは、今後ますます厳しい視線が向けられることになるのは、間違いありません。
エグゼクティブとしてふさわしい自分。
あらためて考えてみませんか?
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
年末に向けて、ご自愛ください。
追伸:
個性と言えば(次男坊の学校にて)。
中学生の次男坊が、また先生に叱責を受けました。最近、完全に目をつけれられているようです。
聞けばその日、先生が彼に言ったのは、
「あなたね。周りを見てみなさい。誰も、あなたがやってるようなこと、やってないでしょ?
なんで、周りと同じようにしていられないの? ほんとに幼いわね!」
昭和戦後教育。
これが連綿と続けられている場所が、こんなにも身近にありました。
セリフがあまりにあからさまで、思わず笑ってしまいました。
ちなみに彼の通っている中学は「私立」です。
「右へならえ」の教育を受け、言われたことを同じようにやり、人の顔色をうかがい、自分の頭では何も考えなくなる。
戦後教育のなれの果て。。。
こういう人たちを、自分の手でせっせと量産している自覚は、この先生にはあるのでしょうか。
今の世の中を、この先生はどう見ているのでしょうか。
興味本位ですが、一度聞いてみたいと思っています。
~人生とビジネスをフローにするために★☆
◆◇◆ 今週の箴言(しんげん)◆◇◆
(ラ・ロシュフコーより)
◆◇◆ 今週の箴言(しんげん)◆◇◆
(ラ・ロシュフコーより)
幸運に圧しつぶされないためには、
不運に堪える以上に
大きな徳を必要とする。

引用元:【経営コラム】忖度を強要するエグゼクティブ
