茶道速水流直門花橘会会長・茶道速水流滌源会岡山支部幹事長
石 田 裕 祥 様
今日は速水流の歴史とそれに関わる人々についてお話し致します。速水流は江戸時代後期に創始され,その祖は速水宗達と申しまして,京都御所の西出水と呼ばれるあたりの医家の出であります。幼少より医には興味がなく,儒学・和学・漢学を修めるなど学者肌の性格の人だったようです。後に裏千家中興の祖とも呼ばれる裏千家八代一燈宗室の門人となり,21歳程にして早くも茶人として名を挙げたといわれます。千家は町流,織部流や遠州流は武家流に対し,速水流は聖護院宮盈仁(みつひと)親王(光格天皇の弟の宮)の信頼も厚く,公家流ともいえます。また一条家との繋がりも深く一条道香公から「滌源」(てきげん)の扁額を賜り,これにより家元宅を「滌源居」と呼びます。現在は京都・平野神社の南東角,北野天満宮の西にあり,両神社の森が借景になっております。また,同親王から「大日本茶道博士」の称号も下賜されています。相手の理解と尊敬に基づく「敬和清寂」を掲げ「清恭安徐」という落ち着いた世界観をその背景に抱いています。後に宗達は,光格天皇から盈仁親王を介して後西天皇の御物の茶入れ「初瀬」を賜っています。また,盈仁親王から杓を用いない作法はないかとの下問に対し,大徳利を使った「脱杓点法」を編み出しました。これは,利休に招かれた秀吉が茶葉を手土産に持ってきたとき,利休のとった優れた対応の仕方の逸話に拠るところでしょうか。
さて,天明元年と申しますから1781年11月,宗達は,備前岡山藩池田家の茶道指南を請われたこともあり,初めて下向・岡山に立ち寄ります。このとき,池田治政公自ら後楽園で濃茶を振る舞われました。会席の中立でふと外を見ると三羽の鶴が遊んでいるのが目に入り,「君がすむちとせの庭にちぎりおく・・・」と和歌を詠んだと伝えられております。12月には餞別の茶事が催されています。このころはまだ茶道流派としては確立していなかったと思われますが,宗達の日記によりますと,5ヶ月後に備前藩を再訪しておりまして,1787年頃には流儀として形ができたものと思われます。
二代目宗曄(そうよう; 1771-1825)は父宗達に引き続き聖護院の宮盈仁親王の茶道指南役を努め,宮からは『守拙』の号を賜っています。同時に,父の理念を世に広めようと努力しました。二代宗曄の二男として生まれた三代宗筧(そうけん; 1813-1876)は,13歳の時父を失い,また18歳の時には聖護院宮盈仁親王をも失いました。この宗筧の時,本拠「滌源居」を現在の地に移しています。宗筧の三男が四代宗汲(そうきゅう; 1840-1924)で旅の好きな方だったようです。また庭づくりにも優れていて,児島の塩田王野崎家の茶庭や京都光悦寺の庭を手がけ,特に光悦垣は宗汲好みと呼ばれています。
宗汲には男子がいなかったため,長女柳(りゅう; 1887-1945)が父亡き後宗清と名乗り五代目を継ぎ,大徳寺の伝衣(でんね)和尚の庇護を受けました。この時代に同門会の滌源会が組織されました。六代目宗仁(そうじん; 1899-1984)は宗汲の次女で宗清の妹である青(せい)の婿であり,1948年に家元を襲名・継承しました。学者肌の方でした。次の七代目宗樂(そうがく; 1941--)は,中学時代に六代目宗仁の養子となり,1987年に家元を襲名しています。私(石田)は宗仁宗匠とも交流があり,また宗樂宗匠に師事しましたけれども,宗樂宗匠は他の宗匠とは少しタイプが異なる方だと感じています。そのご子息,八代宗燕(そうえん; 1983--)宗匠は人柄の良い方で2019年3月家元を襲名したばかりです。
ここまでいろいろお話をしてまいりましたが,私は,一人でも多くの方が,台所でもどこでもお茶を点てて一服する,そういう方が増えてくれれば良いなと,思って茶の道に勤しんでおります。本日はご静聴ありがとうございました。
2019年9月7日
広報委員会 尾坂明義・石津日出雄