例会~会員の話を聞こう  18.10.12例会 

 

「老法医学者の回想」  石津 日出雄 会員

 

おはようございます。石津です。私はもう“終わった人”なのですが、事件がらみの医者「法医」としてこれまで自分の辿ってきた道を振り返って、話をさせて頂きたいと思います。 イニシエーションスピーチのようになりますが、新しい会員もおられますので、私の方からの改

めての自己紹介と思ってご容赦下さい。

 

 私の生れは愛媛県の伊予三島、現在の四国中央市です。地元の県立三島高校を出て、岡山大学医学部で学び、昭和40年卒業しました。半世紀以上前です。当時は医師国家試験を受ける前に1年間の実地修練インターンがありました。郷里には産婦人科医院がなかったものですから、産婦人科の教室へ入れてもらって、ゆくゆくは郷里へ帰って開業するつもりでした。

 

ただし、私は産婦人科の大学院に進学したかったのです。大学院にこだわった動機は、後に香川大学経済学部教授になった本家の従兄が、-ツ橋大学経済の大学院、大学より上の大学院へ行って勉強したと、いつも伯母が自慢していたのが癩に触って、分家の自分も大学院くらいは行ってやるぞと大学院にこだわったのです。

 

 ところがインターンの終り頃、有名無実化した臨床系大学院をボイコットしようとのクラス決議がなされ大学院へ行くには非臨床系へ行かなければならなくなってしまいました。

 

大学院にこだわった私は、ある日講談口調で講義の面白かった法医学の三上芳雄教授の所へ教室の様子を伺いに行きました。教授は気さくに「婦人科から研究に来ている先輩もいますよ。まあ、3年くらいあったら仕事は済むから、4年目からは臨床へ変わってよろしい。居心地がよかったら残ってもいいし、まあ兎に角うちへきなさい。奨学金はもらってあげます。アルバイトも世話してあげますから生活には困らないだろう。」といわれた。当時の私にとっては大変ありかたい話で、その場で法医学教室への入室をお願いしました。 法医学の大学院定員2名の所へ、その年は私一人だけ試験を受けたのです。競争率0.5倍の広き門でした。博士号を取ってから法医学を続けるか、遅ればせながら臨床へ変わらせてもらうかの選択を先延ばしにしたともいえます。ところが入った法医学教室は居心地がよく、研究の方もやっている内に段々と面白くなり、臨床へ変わりたいという気が起こらなくなってしまいました。

 

昭和45年3月大学院修了後、4月より法医学講師1年、同助教授として9年間、岡大に席を置くことになりました。この間、昭和49年10月からの1年間、文部省在外研究員として、南カリフォルニア大学にリサーチ・スカラーの身分で在籍し、ロスアンゼルス郡検視局長卜-マス野口博士の下で、米国の法医活動を体験することになりました。 トーマス野口博士といえば変死した女優マリリン・モンローを解剖して、モンローは自殺であると断定して名声をあげており、また、ロスアンゼルス市内のホテルで暗殺されたロバート・ケネディー上院議員を解剖したことでも有名な日系1世の法医学者です。

 

ロスアンゼルス郡検視局に滞在中、期せずして私か法医学への応用のため昭和47年に開発した「Y染色体による血痕の性別判定法」を米国で実地に応用するチャンスにめぐり会いました。当時の米国の法医学方面では、血痕が男女いずれに由来するかを判定する実際的な方法はなかったのです。 FBIの犯罪科学研究所ですら血痕抽出液の男性ホルモンと女性ホルモンの検出比から性別を判定する研究をしていましたが、実用には至っていませんでした。私はトーマス野口博士の鑑定に協力するという形で、全米各地で発生した殺人事件の内、ニューヨークの3件、ニュージャージーの1件、ホノルルの1件、カリフォルニア州内の3件の殺人事件で、いずれも血痕の性別判定がキーポイントになるケースですが、私の方法を用いて検査を行い、事件の解決に寄与したものと思っています。一例をあげれば、サンタモニカ高等裁判所では鑑定結果が採用され有罪評決の重要証拠となりました。

 

ところで、トーマス野口博士は、「日本医科大学の学生の頃、中央大学の第二法学部へ通って夜法律の勉強をしたのです」と言われたのに触発されて、よし私もと米留学から帰国後の昭和51年4月、岡大法文学部第2部(夜間)法学科へ学士入学をしました。法医としては法律とはどんなものかを知っておいた方が良いと思ったからです。三日坊主の私は、独学では法律の勉強は続かないだろうと分っていましたので、医学部助教授でありながら、あえて夜間の法科の一勤労学生になったのです。

 

 憲法の最初の授業のときでした。教官が「今年は年を食った学生がいるなあ」とつぶやいたのが耳に残っています。なんと思われようと、けむたがられようと、3年間晩酌を我慢して法学士になりました。 38歳でした。従って私の最終学歴は岡大法文学部第2部法学科卒です。法律の基礎を学んだことは後程「医事法」や「生命倫理」の講義や教科書の執筆の際に、また医学部倫理委員会委員になった際にも役立ちました。 昭和55年4月から新設高知医科大学の初代法医学教授として10年間勤めました。私が赴任した当時、高知県は殺人発生率が3年連続全国ワーストワンでした。「高知県は法医学の宝庫である」と、どこかで言ったことがありますが、今だったら物議をかもしだしそうです。高知では、皆様に紹介したくてうずうずするような興味深い事例を経験しているのですが、時間の関係で割愛させて頂きます。

 

 平成2年、高知から岡山へ呼び戻され、4月1日付で岡大法医学教授になり、5年後の平成7年7月7日初代2代会長大田原俊輔先生の勧誘を受けて当クラブに入会させて頂き、今日に至っております。入会時の職業分類は「医学教育」でした。

 

 私の主たる研究領域は、法医診断学、個人識別、親子鑑定です。法学士という文系のバックグラウンドを生かして隣接領域の医事法、生命倫理にも手を広げていました。しかし、平成18年3月に、16年間の岡大教授を勤めあげ65歳の定年を迎えました。法医になって執刀した司法解剖等の解剖数は1、305体、死体外表のみの検査、いわゆる検死は約700体、併せて死体取扱数は約2、000体でした。血液型やDNA型による親子鑑定は186件行っています。法医学は、具体的な事件解決のための応用医学です。実務あっての法医学です。

 定年退職直前の平成18年2月には思いもかけない「岡山県文化賞」(学術:法医学)を受賞しました。さらに、平成25年9月には「岡山県三木記念賞」を受賞するという身に余る光栄に浴しました。これらは医学の中でも余り人のやらない法医学の分野を専攻し、研究面、教育面での評価は多少あるものの、司法解剖を通して犯罪捜査、事件解決に役立ったことに対する岡山県警の温かく義理堅い推薦によるものが大きいと理解しています。

 

 「定年後はどうしよう。潰しの効かない医者になってしまった。まだ家の口-ンがのこっている。」これは心の中のつぶやきです。岡大の定年が近くなると先行きが不安でした。ところが、有難いことに、私の定年を待ちかねていたようにかなり早い段階で、川崎明徳川崎学園理事長から直接お電話があり「70歳までは川崎医療福祉大学教授として勤務可能ですから来てください。そして医科大学の法医学の講義を担当して下さい」とお声をかけて頂き、お世話になることにしました。また70歳の福祉大学定年の折に、特任教授となり、2年後には川崎医科大学学長付特任教授への異動がありました。特任教授、これは非常勤扱いで当然のことながら給料はガタンと下がるのですが、タイミングよく同級生の内科の友人の紹介により、平成23年4月より岡山市内の老健施設の医師としても勤務することになりました。

 

岡大の私の後任の教授が、川崎医大の法医学の講義を非常勤講師として、引き受けてくれることになり、平成27年3月末日をもって、9年間お世話になった川崎学園での職を辞しました。この時法医としての生涯に終止符をうったのです。74歳11か月でした。 2015年度からはロータリーの職業分類も「老人保健施設」に変えてもらいましたが、いまだにすっきりしません。

 

人生は1度しかないのですが、現在78歳、人生のおわりに差し掛かった今、若気の至りとはいえ、無謀にも自分から突然飛び込み、自分なりに手探りで歩いてきた法医学の道を振り返ってみて、多分これで良かったのだろうと思わなければ、今更どう仕様もありません。それにしても、その時その時いろいろな方に導かれ、お世話になり、今日までなんとかやってこられたのだと、このたび改めて思い起こし、これまで関わってくださった多くの方々に感謝の念を新たにしております。本日このような機会を与えて頂いたプログラム担当副委員長中田会員始め、昔話を辛抱して聞いていただいた会員の皆様に厚く御社申しあげます。

 

ご清聴ありがとうございました。