「表現の不自由展」をめぐる議論が興味深いと思います。
河村市長や吉村知事は、公金で開催すべきではないと主張。それに対して大村知事は、表現の自由は憲法で保証されている公金が投じられていても問題ないと主張。
昨日読んだ記事では橋下徹さんが発言。表現の自由が保証されているからといって何をやってもいいわけではない。ヘイトスピーチ、女性蔑視、障害者差別にあたる場合は行政が規制しているのだから、表現の自由があるからといって何を表現してもいいわけではない。従軍慰安婦の少女像は、日本国民の心が傷つけられるものだから、表現していいわけではない、といった主張をしています。
これを読んで私は疑問に思いました。はじめに傷つけられたのは従軍慰安婦にされた方々なのに、この問題を突きつける行為の方が、日本国民の心を傷つけている、ということになってややこしくなっているからです。これは、外交上は1965年の日韓基本条約ですべての戦後補償は終了していることになっていますが、人道上の問題があるので、日韓両政府間で基金創設をしたにもかかわらず、韓国側が一方的に反故にしていまったという経緯があります。このように、原則は自由に表現していいにしても、これまでの経緯から政治性を帯びてくると、「人の心が傷つく」という理由で規制すべきだという意見が多く出てきたわけです。規制すべきほどの政治性を帯びているか?どの時点から規制すべきなのか?よくわかりません。その困難さをまず共有しておく必要があると思います。
そして、助成金などの公金が投じられて開催されているから、「国民の心が傷つけられる」内容の展示は規制されるということですね。公金でなければ、表現の自由は許されて問題ないと主張されています。一方、ヘイトスピーチは、公金が投じられてなくてもダメ、とも主張されています。
在日韓国・朝鮮人は1910年の日韓併合後、仕事を求めていわゆる本土で生活基盤を築いてきたので、戦後も日本に居住し続けているという経緯があります。そのため、自治体に就職できるようにするなどの制度改正がされてきました。ところが、それに対してヘイトスピーチが登場してしまいました。つまり、ヘイトスピーチは今日までの歴史的経緯を踏まえずに、安易な思い込みに走って組織的行動にまで発展してしまった残念な出来事だと言えます。
では、慰安婦少女像を日本で展示することは、公金が投じられていればダメで、投じられていなければ問題ないという話に戻りましょう。慰安婦少女像についての歴史的経緯は、まず日韓併合があって後にアジア太平洋戦争が始まって慰安婦が送り込まれるようになりました。国が戦地付近で娼館を設置・運営するのは、当時は日本のみならず多くの国々で行われていました。当時は日本人であった朝鮮半島在住の女性たちも慰安婦として戦地付近の慰安所に送り込まれたはずです。そして、その中で10代の少女が強制的に連れていかれたという事例があったと考えられます。国が娼館を設置するのは当時では普通のことですが、強制的に売春をさせたというのは滅多にないし、あってはならないことです。この問題をどれくらい重要に受け止めるかという度合いに個人差があるようですが、とりあえずは従軍慰安婦問題が起きるまでの歴史的経緯を踏まえているかという条件設定はできると思います。
経緯を踏まえるといえば、先に述べたように政府間合意のこともあります。1965年の日韓基本条約で補償は済んでいることに外交上はなっていますが、人道上の問題があるので基金創設をしましたが、韓国側が一方的に反故にしてしまったという経緯があります。日本政府が従軍慰安婦問題の責任を認めて基金創設に至った際には、日本の左派系メディアも日本政府を評価していました。そのため、韓国政府がそれを反故にしてしまった際には、日本では左派系メディアでさえ韓国政府に対して疑問が投げかけられました。そうした経緯があるので、日本のメディアの報道から知識を得ている日本国民の多くは、従軍慰安婦問題について、韓国側がゴールポストを動かすという反則をしているという認識をしています。したがって、経緯を踏まえているか?という条件の2つ目には、政府間合意が守られていないという問題もあります。
経緯を踏まえているか?という観点から、条件をまとめると
1. 従軍慰安婦問題が起きるまでの経緯
2. 解決としての政府間合意後の経緯
上記2つの条件をきちんと踏まえないままこの問題について論じることはできないでしょう。
すると、みえてくることがあります。
1. 韓国人からみると、日本人は従軍慰安婦問題が起きるまでの経緯をよく知らないのではないか?
2. 日本人からみると、韓国人は政府間合意の重要性をわきまえていないのではないか?
こうなると、日本の中では2の、韓国人は政府間合意の重要性をわきまえていないのではないか?という思いが募ってしまうことになります。
1の件については、日本側の言い分は、昔から行間から読み取れます。お国のために戦った英霊たちの名誉を傷つけてはならない、というものです。実際、戦地付近に娼館を設置するのは他の多くの国々でも行われたことだと右派の論客はよく主張していました。しかし、日本の従軍慰安婦について、韓国側が提起しているのは、10代の少女たちに強制的に売春させたという問題です。
戦地付近の慰安所で多くの兵士たちが慰安婦と売買春をしていました。その中には、強制的に連れてこられた10代の少女たちがいた。私がブログでこう書いても、私は公金で助成してもらってこのブログを運営しているわけではないので、表現の自由は認められるのでしょう。
日本でも、被爆国として核兵器の非人道性を米国で訴えるという活動が地道に行われています。しかし、米国政府としての謝罪や補償はなされたことがありません。日本側が米国に求めているのは、謝罪する意思のない基金創設でしょうか?違うでしょう。米国に対して求めてやまないのは、核兵器を使用することは、戦争犯罪だと認めることです。そして、そのことを踏まえて核兵器の開発と使用を禁止する取り組みを実質的にいっそう進めることです。
このように考えると、韓国側がどうして日本に対してしつこく謝罪を要求するのか、少しは想像力が働かせるかもしれません。
でも、やっぱり日本人としては納得いかない部分があるでしょう。日本海の名称を東海に変更しようという運動が起きたり、日本のお寺から盗まれた仏像について韓国の裁判所がもともと韓国のものだと歴史史料に書いてあるから韓国の物だと判決したり、韓国の迷走ぶりが目立ちます。たしかに、韓国での反日運動をみると、従軍慰安婦問題を真剣に解決しようとするのではなく、お祭騒ぎや集票に利用しているだけなのではないか?とさえ思えてきます。真剣味が感じられません。
しかし、みんな違ってみんないい、という標語にあるとおり、国民性の違いというのも受け入れる必要があります。今はその過程なのでしょう。韓国人はたしかにやり過ぎていると思いますが、政治的問題でデモが起きないという日本人の方が世界的にみれば珍しいと言えます。やりすぎてしまう韓国人とおとなしくて隣人に合わせすぎる日本人、という対照性があるのです。ですから、お互いにその分を割り引いてみつめることをお互いに学んでいく必要があります。
長文になってしまいましたが、従軍慰安婦問題が起きた経緯と政府間合意後の展開があってずいぶんこじれてしまった日韓関係は、上記のとおり複雑に入り組んでいます。少なくとも、吉村知事が大村知事に向かって「辞めるべき」というのは言い過ぎだと、これだけははっきり言うことができます。
そして、日本における表現の自由について、公金が投じられている場合とそうでない場合それぞれについて、どのような場合に認められないのか?という議論は、まだこれから始まることになります。