何においても引き際は大切
そのタイミングは本当に難しい
でも、時には簡単
尊敬してやまない藤沢武夫さんの
経営に終わりはない
を
久々に読み返した
やっぱりその中にはさまざまな印象的な
ドラマが存在する
当時技術者の中では誰もが知る
本田宗一郎氏
「自力でエンジンをつくるための設備も欲しいが、
資金も欲しいが、浜松では見込みがないから
東京に出たい」
そういう本田宗一郎に対して
「おれは金を持ってないけれど、金はつくるよ。
金のほうを受け持って、一緒にやってみたい」
その想いで引かれ合った2人は
阿佐ヶ谷の竹島弘(後に通産省に入省)宅において初めて出会う
そこで、初めての2人の対面
そして交わした言葉・・・・
「私は商売人だから、これからいっしょにやるけれども、
別れるときに損はしないよ。ただし、その損というのは、
お金ということではない。何が得られるかわからないけれども、
何か得るものを持ってお別れするよ。
だから、得るものを与えて欲しいと思うし、
また、得るものを自分でもつくりたいと思う」
と武沢氏
それに対して「うん、結構だね」
ここで本田技研工業の産声が上がった。
それから25年。
2人はどんな苦しい状況も一緒に歩み
武沢さんはこんな言葉を当時の専務にいった
「かねてから、考えていたとおり、今年の創立記念日には
やめたいと思う。社長は今社会的な活動をされているし、
どうされるかわからないが、私からはいわないほうがいいんだろうから、
専務から私の意向を伝えてもらいたい」
それを、専務から聞いた社長(本田宗一郎)は
「2人一緒だよ、おれもだよ」
と一言専務につたえ
その後、本田宗一郎氏、武沢和夫氏が顔を合わせたときに、
「ここらでいいということにしようとするか」
「そうしましょう」
「本当に幸福でした、心からお礼をいいます」
「おれも礼をいうよ、良い人生だったな」
この会話で引退がきまった・・・・・・・。
創める時は2人一緒
去るときも同様
昭和48年10月をもって正式引退
歴史に残る企業の創業者の引き際
もしかすると創める時から引き際を見据えてたのかもしれない
だからこそ、一瞬一秒を無限のものと錯覚せずに
有限なものとしてとらえ
誰よりも強い信念と情熱を持ち続けた結果なのかもしれない
そんな人間になりたい
そんな集団でありたい
引き際・・・・・
難しいが想像しよう
必ず最高の引き際を創造できるはず