ピアノを弾くなかで、高次の意識と交信することがたまにある。
それは、私の集中が深まれば、向こうの方から一方的にやって来るので、私には拒否できないのだ。
常に受け身で、流されてきたから、私は、これからも受け身で、押されるがまま、起こることに流されて生きるのだろう。
力強く、主体性があるのは、完全に自分がなく、神に対して受け身であり、従順であるからだ。
高次の意識は言われた。
人類は、来年からの10年間、大変な試練を受ける。
それは厳しい試練となり、多くの人の心から愛と誠が消え去ると。
これから始まる大淘汰の時代を生き抜ける人は極わずかになるだろう。
まあ、もうどうでもよい。
どうせ狂気と詐欺、巨大な悪が世界と日本を支配しているのであり、
日本は叩き潰されている最中であるのだから。
このままグローバリズムが進めば、日本はファシズム、共産主義社会となり、
日本は乗っ取られ、滅ぼされてしまうことは阻止できなくなるのだからね。
日本が独立できねば、日本は滅ぼされてしまうのだから、
日本を介して、世界を、あいつらの支配から救うことはできなくなる。
わたしはと言えば、人間に絶望して久しい。
人間の世に希望を見いだすことは難しい上、
なぜか私の心の底は、巨大な悲しみで満ちている。
ただただすべてが虚しいだけだ。
この世で、私の使命を果たしたら、
なんの未練もない、人間の集団がつくるこの世界から早く解放されて、
人間の世界と永遠におさらばしたい。
そこにしか希望を見いだせないのも悲しいのだが、
突き詰めたら、人間の世界には本当に希望などないことがわかる。
人間と神との絆が切れており、ゆえに、この人間の集団がつくる世界には、神が居ないからだ。
私はもう十分に人間の世界を見てきた。
私含めた人間の内面、存在、人間の核の部分も見つめてきた。
かなり濃厚に生きてきた。
そして、その結果、激しく絶望した。
二度と人間に生まれたくないし、この世にも帰ってきたくない。
それが、わたしが到達した唯一の希望である。
だから、そのためにも、神に託されたことだけをやるために、
この40歳以降の人生で成し遂げる。
そのためにだけ、私は生きる。
それが終われば、もうこの世にいなくても構わないだろう。
なぜか私の心の底は、巨大な悲しみで満ちている。
ただただすべてが虚しいだけだ。
この世で、私の使命を果たしたら、
神の元に帰りたい。
★芸術家としての本望を遂げたいという欲
自殺願望は常にあり、私を苦しめるのだが、
そんな私に最近、ひとつだけ欲が出てきた。
この欲は、私の魂から来るものなので、本願とも言えるだろう。
それは、また芸術家に戻ったので、歴史に残る大作を何曲か創作してから、
それを私が生きた証として、この悲しい人間の世界に残していきたいと願うようになったことだ。
私の作品は命を宿すことになる。
それは後世に永遠に生き続けるだろう。
後世に永遠に生きる音楽作品を造り上げてから、
私は死にたい。
ひとつだけ芸術家としての欲が出たので、
神の元に帰る前に、神から託された使命を果たすのだが、
それだけではなく、芸術家としての本願を叶えるためにもついでに生きたい。
★生命を造り出せるのは神だけだが、芸術家も命を造り出すことができる!
私が、愛した人へのその時の想いや、
私が感じた想いや、愛、悲しみ、喜び、涙を、
すべてその時のままで、瞬間冷凍して、真空パックにして、
音楽に閉じ込めることができる。
生きた音楽作品は、まるで、タイムカブセルのようだ。
いつでも、その時の場面や時代、その思い出や出来事、そこにいた人に瞬時に、未来からタイムトリップすることができるのだから。
もう存在していない過去に生きていた特定の人や、
そのひとと作曲家の紡いだ物語が鮮やかな感情とともに、瞬時によみがえるのである。
さらには、音楽に込められた、その人への作曲家の溢れる情熱や切ない想いとともに、
作曲家の想いや愛が蘇り、
その今は存在さえ思い出されることはない過去に生きた人さえも、その音楽の中で、命を得て、
作曲家とともに、永久に生き続けることができるのだ!
これは、凄いことではないか?
始皇帝は永遠の命を得たかったが、いかなる権力や金を積んでも、それは叶わないのだ。
しかし、天才クラスの芸術家にだけは、それができる。
みんないつかは死ぬ。
そして、なにも変わらない。彼、彼女を思い出す人も死ねば、彼の存在は完全に消え去り、
無きも同然となる。
歴史の中で登場した権力者も、ただ消え行き、存在は意味を持たない運命からは逃れられない。
あなたや私の存在は、生きた証はなく、
みんな、すべて忘れ去られ、無に帰していくだけの存在だ。
そう、私や、あなたの人間の人生など、本の少し時間がたてば、消えてなくなる、儚いものでしかない。
ただ風が吹いただけなのだ。
しかし、芸術家だけは違う。
特に、作曲家は違う。命を生み出し、それを音楽にして、永遠に生きる作品を創造することができる。
その音楽の中で、作曲家のおもいや魂は、永遠に生きて、この世に感動を続けることができるのである。
無から、命を生み出せるのは神だけだと思っていたが、
天才の選ばれた芸術家だけは、神のように、作品の中に命を生み出し、宿すことができるのだ。
私は人間に絶望しているし、生きることに執着がないのだが、
芸術家として思いを遂げてから死にたいと願うようになった。
人類の生み出したものの中で、芸術がもっとも崇高であるが、
その芸術の中でも、音楽は一番神に近いがゆえに、神を表し、巨大な感動を生み出す最高峰である。
その才能を神から与えれたことは、大きな苦しみでもあるが、
やはり、神の愛に他ならない。
私の才能が神から与えれたレベルのものならば、
やはり、この虚しいだけの人間の世界にいる間に、
神と共同で、素晴らしい歴史に残る大作を私は生み出したい。
その中に、永遠に生きる命を創造したい。
それができるのは、神から与えれた才能がある一部の天才芸術家だけだが、
私も、それを成し遂げたい。
その為になら、生きる意味があるし、
命を宿した音楽作品、神と造る芸術を創作するためなら、自殺しないで、生きていたいと思えるようになった。
相変わらず、私は自分を含む、闇深き人間に絶望したままだが、
神と共同で創作する作品を生み出すためなら、こんな人間の世界にでも生きていたい。
偉大な音楽作品を生み出すには、
運命の恋をしないとね。
もう一度、これを最後に、人を愛してみたい。
かたく閉じた心を、その人にだけは開いてみよう。
18年前の婚約者をいまだに忘れられずに来た。
他の男と付き合い、結婚もしたのだが、それでも、私は女々しい男脳が強いせいか、
一度わたしが真剣に愛した人を、私は愛さなくなることはないようだ。
私は人生で二人の男を愛した。
彼らのために作曲した。
自然と想いが、音楽になって溢れでてくる。
しかし、二人しかいないが、彼らのことは今でも忘れられずにいる。
特に、かつての婚約者のアメリカ人を忘れられずにきた。
彼との愛や想い出が、私を苦しめ続けてきた。
ただ意図して恋に落ちることは不可能だ。
それは出会うべき人に出会わなければ、何も起こらない類いのものだ。
恋する行為に恋する訳にはいかないのだから、
愛したいから、人を愛することはできない。
だから、神が出会わせる運命の人との恋でなければならないし、それしか恋には落ちない。
しかし、それが起こるときには、起こる。
誰でも、運命の人に出会い、恋に落ちる時には、嫌でも、有無を言わさず落ちてしまうものだ。
運命の人との恋には、圧倒的な抗いがたい力がある。
その人への私の想いが、生きた音楽作品となり、私や、愛す人の死後に、永遠の生命を得て、
偉大な、美しい音楽芸術へと生まれ変わる。
★人生の価値は、何を、誰を、どれだけの想いで、どこまで愛したのか、それだけた。
人が生まれて生きることに何かの意味があるとするならば、
何を、なんの目的で打ち込んできたのか、
及び、
誰を、どれだけの想いで愛したのか、
それだけしかないように私には思える。
芸術家には、愛は、創作には欠かせない要素である。
人を純真に愛するからこそ、芸術作品を生み出すのだから。
ある貴族の女とベートーベンが出逢い、激しい恋に落ちなければ、ピアノソナタ、月光をはじめ、数々の名作は生まれなかった。
ショパンが、ジュルジュサンドと愛し合い、病弱であったため、ジュルジュに介抱されながら、まちを転々とし、彼女と孤独に放浪していなければ、
ピアノの詩人と言われることになる数々のショパンの夜想曲や傑作は生み出されなかったのだ。
あの曲の中に、ショパンがいかにジュルジュサンドを愛していたか、その想いが生きて、真空パックにして閉じ込められている。
あの曲は、人間を芯から感動させる力があり、どこまでも悲しく、切なく、美しい。
あの曲の中に、ショパンは、愛する人への想いともに、ジュルジュサンドとともに永遠に生きている。
ショパンも、ジュルジュサンドも、もう存在していない。
しかし、彼らは、ショパンが作曲した夜想曲のピアノの調べの中で、永久の命を得て、今も、あのときの愛し合った二人のままで、生きているのである。
だから、永久に生き続け、永遠に人間を感動させる力をもち続けるのだ。
生命をつくる。
そんな偉大なことは、神の特権であるが、神からの才能をうけた天才クラスの選ばれた作曲家には、そんな神業ができてしまうのである。
そして、そういう偉大な才能を神から与えられた作曲家は、普通の幸せはなく、
孤独と、苦しみ、苦難の道をいくが、
しかし、自らを破滅に追いやりながらも、
命を宿す作品を創作することで、すべてが報われるのである。
そんな人生を私も生きるのだろう。
それも悪くないと思う。