only once in the life



この治療記録を残すにあたってつけたタイトル名です

私の大好きな言葉でもある『一期一会』からつけました



2000年の夏、主人との出会いも一期一会でした


私は、当時TV局のヘアメイクの仕事をしていましたが

たまたま外注で入ってきた映画のヘアメイクに携わることになりました

主人は、人伝えで映画の仕事を紹介してもらい制作のスタッフでした


数カ月にわたる撮影期間を主人を含め、スタッフみんなと過ごし

一つの作品が出来上がった喜びはとても大きなものでした


現場から離れ、私は日常のTVの世界に戻り、2年ほどたったころ

なんとなく当時が懐かしくなり

今の主人と連絡を取りはじめたのがお付き合いするきっかけでした


そして再会から3カ月で入籍

その5ヵ月後に私は事故で大怪我をおって入退院を繰り返しました

2005年2年遅れで挙式をした後、12月末に妊娠が発覚

翌年9月にrayを無事に出産しました


そして2008年3月再び自然妊娠するも、赤ちゃんは育つことが出来ず

4月15日再びお空に帰ってしまいました

私の卵巣嚢腫を教える為だけにお腹にきてくれた子でしたが

4週間という短い間、私をママに選んでくれたことに一期一会です

2008年6月、11cmほどになった左卵巣を摘出しました

それから外部からの情報となるブログもやめ

長い私の不妊治療がはじまりました


そして昨秋のこと…

兼ねてから水子供養はしていたのですが、

改めて鎌倉にある長谷寺の水子供養に行ってみました


一通り供養が終わり、敷地内にあった食事処に入りました

帰り際なんとなく店内のお手洗いに寄ったところ

壁に『一期一会』という小さな掛け軸をみて、ハッとしました


この数年、流産した子を取り戻したくて我武者羅でした

卵巣を手術したことにより不妊になり

妊婦さんを見れば目を反らし、望んでない人が簡単に妊娠する現実


友人の妊娠報告は、心から嬉しく祝福の気持ちだったけど

自分がダメ人間なのを突きつけられるようで影で泣きました

私は女として失格なんだ・・・

心穏やかになれず悲観的な毎日でした

でも、『一期一会』の掛け軸をみて

自分に対して優しくなれてなかったと気が付いた瞬間でした


そうだ!私、一期一会って言葉が大好きだったよね


『一人子供がいればいいじゃない』

数年たつころには、周りからそんな声も聞こえました

一人いながら二人目だなんて贅沢な悩みだよね

でも、どうしてもrayをお姉ちゃんにしてあげたかったんです


不妊でありながら心が荒んでしまって最低な人間でした

すっかり忘れてた大事なことを思い出させてもらった気がします


それからは、人は人、自分は自分・・・

不妊症という現実にも前向きになれました


私の人生のターニングポイントに

いつも『一期一会』がありました



このブログを始めたきっかけも

同じように卵巣嚢腫で手術をした人が高度治療に進む時に

何か役に立つのではないかな

KLCに転院を決めかねている人がいるなら

少しでも参考になればと、一方的に記録として書き始めました


こんな不定期なブログだけど

検索して見に来てくれた人も顔は見えなくても『一期一会』ですね



日々病状が悪化する父の為に、明るい希望をもたせたくて

1年間で5回の採卵と体外受精に挑みました


現実は厳しかった

ほぼ右の卵巣しか機能してない私は

普通の人の半分以下の採卵数2~3個

酷いときには、1個や空胞なんてこともありました

D3は、常に高値のFSH13~17

FSH30以上の閉経に近い値もあった

AMHは14.6で実年齢より5歳も上の40代

基礎体温はガタガタで綺麗な二層にならず

それに加えて高プロぎみ

DHEAを飲んだ時もあった

薬の副作用で吐きまくった時もあった

カウフマンでひたすら耐えた数カ月もありました


卵の質が悪く5回の体外受精をするも

胚盤胞までいったものは0個というのが現実でした


卵巣が両方あれば・・・

毎回採卵からなんてことにはならず

金銭的にももう少し楽だったかと思う


そんな5回目の体外受精が失敗に終わった矢先

父が4月15日に他界しました


その後、通夜、葬儀でたてこみ

3年間で初めて治療を2周期だけ休むことにしました


5月28日無事に四十九日法要を終えて

6月上旬、KLCから精子凍結の延長に関する手紙が届いた

今月末には治療再開する予定があった為に

何のためらいもなく延長申請し、延長料金も振り込んだ


その中旬に入ったころ

そろそろ生理の予定だったけど高温期が続いてた


まさか・・・ね。


以前ネットで購入した中国製妊娠検査薬が残っていたから

半信半疑で試してみることにした


尿をしみ込ませ1分・・・終了線のみで何も出てこない

なんだ、やっぱり陰性なんだ

この数年もよく見た光景で、何の感情もない


でも、なんか未練がましく、すぐには捨てず

トイレに置いておいた


しばらくして・・・

再びトイレに入った時にさっきの妊娠検査薬に目が入った

陽性反応が出ていた


でも、時間がたったものは無効だときいてたし

半分冗談だろうと誰にも言わないで数日がたった


その後も体温が下がらなかった

基礎体温がガタガタの私には珍しい

ずっと高温のままだから、再び検査薬をしてみる

今度は1分ほどで陽性反応がでた


6週目あたりまで待って産婦人科に行くことにした

胎嚢と胎芽が見えて、なんと本当に妊娠していた


でも3年前の流産がチラつき

心拍が確認できるまでは喜べなかった

翌7週目にして、やっと心拍が確認できた


医師に、日本一のKLCで高度治療をしていたことを話したら

『すごい奇跡だね』と驚かれた


今まで3年治療をし、二人目の赤ちゃんを望んだ時からは

3年半がたっていた

それが、久しぶりに治療をお休みした2周期で

まさかの妊娠になってしまった


本格的に不妊治療を始める前に1年半自己流で頑張ったが

全くかすりもせず

人工授精、体外受精とステップアップするも駄目だったのに

どうして、このタイミングだったのかと自分でもわからない



ただ、この2周期は確かに治療から解放されて

ストレスがなかったのは事実だったかも


そして今回排卵したのは、たぶん父の四十九日を終えたあたり


生前、治療を応援してくれてた父が

お空に返した子と同じ日に息を引きとり

再び生まれ変わって私のお腹の中に来てくれたのだと信じたい


父が他界してから常日頃『お空で私の赤ちゃんに逢えたら

早くお腹に戻ってくれるように伝えてね』と確かに心では唱えていた

でも、こんなに早く父が叶えてくれるとは思っていなかった


不思議だけど、自力で妊娠出来ない私が全く説明のつかない妊娠で

父がおこしてくれた奇跡としか思いようがないのです


流産し掻爬手術で心もろとも削がれ

その後の卵巣摘出から基礎体温はめちゃくちゃ

卵胞があっても卵巣の力が弱すぎて、良質の卵子ができず

無排卵が続いたり空胞ばかり


この2周期だって、この3年の状態をみても

決して良い状況では無かったと思う


1年で体外受精に数百万以上継ぎこんでいた

使わないはずだった、父から貰ったお金にまで

支払いが食い込んだ


父が生きていた時に頑張っても全く駄目だったのに

皮肉にも父が他界して2周期で授かるなんて・・・ね

ごめんね、お父さん


父が生きていた時に直接伝えたかったな



過去の記事にも書いたように

父の遺影に一番に妊娠の報告をしました


今現在10週目に入り、経過が順調なので

この記事をもってブログを終了したいと思います


短い間、不定期なブログではありましたが

私のブログを見てくださってた方々、ありがとうございました


恥ずかしながら私は

卵巣嚢腫という病気から、はじめて不妊の辛さを経験し

妊娠の難しさと不妊の苦しみを知りました


それと同時に、支えてくれた家族に気付かされ

そして一番力になってくれた主人に心から感謝しています


不妊はとてもデリケートなもので

軽々しく意見を言えるものでは無いと思っているので

あえてこのブログではコメント欄を設けていませんでした


『妊娠は諦めた時にできる』とよく聞きますが

この3年(赤ちゃんを望んで3年半)私と主人は

1日たりとも諦めた日はありませんでした


ただ、この2周期は肩の力が少し抜けたのは事実です


もし不妊で行き詰っているご夫婦がいらしたら

諦めなくても良いと思います

少し肩の力を抜いてみたら、きっと赤ちゃんは来てくれると思います


妊娠は、医学で説明がつかないこともおこるってことを

お伝えしたくて、最後の記事にしました

ここで出会えた皆様も一期一会です


いつまでも皆様が幸せで、一人でも多くの方に

赤ちゃんが授かりますように心からお祈りしています


短い間ですが、ありがとうございました


随分たって、今日やっと書くことができるようになりました

少し前のことになりますが、記録に残しておきます



前回5回目のIVFも不発に終わり

この1年まともに採卵出来てない現実を受け止めつつある時・・・



先日も書きましたが、父の様態が悪くなりました


2009年の秋に胸膜悪性中皮腫、余命1年足らずと宣告されていたが

昨秋には無事に発病1年を迎え、未知なる領域に差し掛かってた矢先

今年に入って少しずつ食が細くなり、目に見えて痩せてしまいました


息苦しさと闘いながらも『歩けなくなるのが怖いから・・・』と毎日散歩に出かけ

『ハアハア・・・』乱れた息で帰ってくる姿は、見るのも辛かった



そんな4月11日・・・

母からの電話で再び父が入院することになったことを聞く


数日前からほとんど食べられなくなり息苦しさも増したので

レントゲンを撮ったところ

無事だったはずの右の肺にまで影が出てきたとのこと


急いで姉と病院にむかうと、ベットに座ってる父がいた

横になると余計息苦しく寝ることも出来ないようだ


熱は無いのに冷や汗が止まらず、息苦しさも増して肩で大きく息をしていた

素人の私が見ても、数日前とは更に悪化してる様子だった


母から肺炎を併発したようだと聞かされた

恐れていたことだった・・・これが致命的な引き鉄にならないこと祈らねば

数日入院して様子を診ていくことになった


しかし、母も姉もそして私も、数日で良くなるようには見えなかった




4月14日 夕方母から電話があった

父は、入院してからほとんど眠れてないうえ

あまりの息苦しさに、パニックになってしまっているとこと

明日主治医から説明があるから家族そろって来てほしいとの内容だった


その日の19時頃

再び電話が鳴った。母からだった・・・

父が辛い状態だから、いますぐに病院に来てほしいとのこと


rayを義母に預け、kotaと急いで病院にむかった

数日前より更にやつれた父が、鼻に酸素のチューブをつけて

数日前と同じ格好でベットに座っていた


夜もずっと眠れず恐怖と不安におびえながら、ただひたすら一人で耐え

ベットに座り続けていたであろう姿が目に浮かび直視できなかった


夜中に姉夫婦と私達夫婦が病院に来たのを見て

父は状況を感じ取ったらしく

顔を強張らせ『なんで呼んだんだ』と途切れ途切れの声で母に言った

子供を抱えてる私達に心配をかけたくなかったようで

この期に及んでも、まだ家族の心配ばかりをしている


その後、私達は別室に呼ばれ当直医師から説明があった


この数日、息苦しさでほとんど眠れてないということ

数時間前に撮ったレントゲンには、右肺の影が無くなるどころか

急激に酷くなっているということ

それを踏まえ症状が日ごと悪化してきている状態だった

肺炎ではなく、完全に右肺に転移が広がっているということだった


嫌な予感が的中した

やはり肺炎なんかでは無かったのだ


苦痛に顔を歪める姿に、早く痛みをとってあげたかった

医師の提案に従い、点滴のモルヒネを使って痛みを取ることに同意した


病室に戻ると強張っていた父の顔が穏やかになっていた

モルヒネを使って痛みをとる説明を医師から聞いて安心したようだ


父は途切れ途切れの息で苦しそうに『お母さんを頼む』と言った

『お母さんをいろいろと手伝ってやってくれ』私達は泣いていた

私と姉には『幸せになってね』と言った


父は胸で手を合わせ『ありがとう』と覚悟をきめた

ずっと痛みと苦しさで眠れてなかった父が点滴をはじめてすぐに横になった

モルヒネが効いて痛みがとれた証拠だ


もう二度と動いてる父を見れないかもしれない

でも、私達家族の意思で最後は決断できて良かったのだと後悔はない


安定して眠れているようなので、一時帰宅することにした


帰宅して食事をした後、眠ろうとしてた矢先・・・

真夜中、日にちが変わり15日1時前だっただろうか

再び母から電話がきて、血圧が低下したから急いで病院に来てほしいと


慌てて病院にむかったが、父は変わらず眠っていた

今日、明日かもしれない

母が親せきに電話をかけ、夜が明ける頃みんなが集まった


兄弟付き合いを犬猿していた父のお陰で、私と姉も疎遠だったが

小さい頃に数回合っただけの叔母や叔父でも顔は覚えていた


意識は昏睡していても『耳だけは最後まで聞こえている』と聞いたことがある

ベットを囲み、父のたわいもない話をして時間が過ぎた


親せきが帰ったあと、kotaは預けてたrayをみるため一度帰宅

姉夫婦も子供を学校に送り出す為帰宅した

私と母が今夜も付き添うことになった


大きな特別室を空けてもらい、広い個室に移動できた

簡易ベットも用意してくれた


父は肩で大きく息をしながら、ぐっすり眠っていた

酸素が回っていない手足は冷たくチアノーゼがでていた

私と母は、ひたすらさすって温めた


夕方、糖尿とうつ病を患っている母を少し休ませ

私もウトウトしていた時、kotaとrayが着替えを持って来てくれた

すっかり変わり果てた姿のじいじに、rayも驚いていた


18時20分を過ぎたころ・・・

看護師が血圧を測りにきたが、低すぎて測れない

酸素濃度も低下してきている

再び違う血圧計を持ってきたが、測定できず


看護師が二人ががりで体位を変えながら、大きな声で『Yさん!!』父を呼んだ

ずっと昏睡していた父が大きな声で『はい!!』と言って目を覚ましたのだ


私も母も驚いた

やはり、最後の瞬間まで耳は聞こえているのだと確信した


目を見開き、うわごとのように何かを伝えている父

聞き取れないけど、母を心配していたのであろう

呼吸もほとんどしていない


もう駄目かもしれない、姉に電話をした

父の耳元に近づけ受話器越しに姪の声を聞かせた


私と母、kota、ray、4人で最後を看取った

父はその時まで母をずっと見つめていた


ありがとう・・・

皆が父の懸命に病と闘った姿につぶやいた


2011年4月15日 18時52分 

満開のさくらが風に舞う日に、父62歳にして永眠しました


奇しくも3年前の4月15日、私が二人目をお空に返した日でもありました

不妊治療を応援してくれていた父が、敢えてこの日を選んでくれたのだと思います



私は、最後の最後まで、父に聞くことが出来なかった

一人辛く病と闘っている姿に、これ以上責められなかった


厳しく育てられ父の子として生まれた事を憎んだ時もあったが

本当に愛されてたいたのであろうか・・・。




でも、きっと・・・

愛されていたからこそ厳しかったのだと信じています




4月17日

父に見せたかったrayのバレエの発表会

帰って来てから寝ている父の枕元で、ビデオをみせてあげました


4月18日 お通夜 父をしのんで沢山の方が来てくれました


4月19日 告別式 お花とたくさんの家族の写真でおくりました


5月28日 四十九日法要 雨男の由来どおり雨の一日でした


7月10日 百か日 父の還暦祝いに姉妹で贈ったお食事券

     本当は両親に行って欲しかったけど、皆で食事します



父に少しでも元気になって欲しくて、体外受精を頑張っていたけど

間に合わなくて、ごめんね


あんなに嫌いだった父の手を握ったのが最初で最後になった


こんなに時間がたってから、やっと書くことができた私は

実は思ってた以上に父に依存してたのかもしれない

最近気が付いた




ありがとう お父さん

お空の子と同じ日を選んでくれて ありがとう

空の上で迷っている赤ちゃんがいたら

『ママ達は待っているよ』と教えてあげてね


お父さんがいなかったら 私は生まれてこなかった


もう痛みも苦しみもなく ゆっくり休めるね

病気と懸命に闘っている姿は、とても立派にみえました


大好きだった釣りしてますか?

病気で飲めなくなったお酒も飲んでるかな?


今度はお空から家族みんなを見守っていてください

お疲れさまでした

随分とまたブログを放置していました

この数カ月いろいろありました



やっと落ち着いたので私なりに思い出しながら書きたいと思います



前回2月19日から3月16日までマーべロンを服用してKLCお休み周期でした


3月17日D1 KLCに転院して5周期目(採卵通算して5回目)


3月19日D3 胚盤胞まで育ててみようとのこと

      

ホルモン値 FSH 17.2 

        E2  85


ピルで調整した次の月は、残胞がなくなるから卵巣が過剰に反応するのか

FSHが異常に高く出た


以前のクリニックだったら、即体外却下!!になる数値だが、KLCはあまり重要視しない


3月19日 D3より10日間セロフェン服用

   24日 D8 フォリスチム150単位注射 \6793

   26日 D10 フォリスチム150単位注射

   28日 D12 フォリスチム150単位注射

   29日 D13 24:00スプレキュア

   31日 D15,採卵3個 (変性1・正常2) \40000


 4月1日 受精確認 2個ともふりかけで正常受精

    2日 分割確認 2分割と4分割

    7日 胚盤胞凍結確認 0個 (4分割と融合手前で分割STOP)


KLCに転院して5周期目(採卵5回目)も凍結ならず終了しました 

数日して魔の請求書が届く  \222169


5周期目合計 \268962


卵巣嚢腫で2008年に手術して早3年

それから二人目の治療を今日まで続けていますが、質の良い卵が取れないのが原因です

私の右の卵巣に良い卵がはたして残っているのだろうか・・・


体外受精5回 毎回採卵からやり直しの私

費用の工面も大変だし、そろそろ治療に疲れてきました