「藤生」と、呼んだ。

 何気なくただ、私に話しかけただけだ。ふじおはさー。

この声だ、と、思う。耳に当てた小さな鉄の塊から、柔らかな心地の声がする。例えるなら、幼い頃ずっと握って話さなかったブランケットのような。あるいはまた、記憶を呼び覚ます深い飴色の瓶に入った香水のような。

 あぁ、そうだ。と、思う。愛おしいのだ。

 その声が、いくつもの言葉を紡ぐ。だからそれに合わせて、時折、相槌を打ったり一緒に笑ったりしていればいい。そうすることでずっと――極端でなく、何時間でもずっと、飽きずにこの声を聴いていられる。

 彼と出会ってからそんなに長くはないのに、どうしてか話しを聞いて欲しくなるのは、きっとあの夜、緩く笑った口元が優しかったから。それまでコンプレックスにしか感じていなかった私の名前を、彼はしっかりとまっすぐに呼んでくれたのだ。

 だからこうして話していると、欲はもっと出てきて、会いたくなる。無理なのを承知で、冗談めかして笑いながら言ってみる。

「これからコンビニ行くんだけど、出てこない? 一杯飲もうよ」

「これから?」

「とりあえず、駅まで来てくれればいいんだけど」

「いいよ」

 本来なら、はっきりと断られて、少しばかり傷ついた心を庇いながら、だよねー、ごめん! と笑い飛ばすはずだった。どんなふうに言うか、言葉までしっかりと考えていたのに、予想もしていなかった答えがきたので、一瞬、妙な間があいた。

「あ、うん」

 間抜けな声を出しながら、三十分後に待ち合わせの約束を取り付けて、電話を切る。くたびれたジャージからジーンズに履き替え、消えかかった眉毛を書き足して、唇にグロスを盛る。

 大判のストールをマントのように巻いて家を出た。秋風がふわりと流れていく。柔らかく乾いた大気。


  公共料金の支払いのついで、というのは照れ隠しの理由にすぎない。もっというと、この道の途中にコンビニがあるので、通りがかりに支払うだけだ。

 午前零時。

 こんな時間に出歩く方がおかしい、とよく言われるのだけど、駅前の浮いたように明るい通りを歩くのは好きだ。

 寒く感じるくらいエアコンの効いた店内に入ると、缶チューハイの新味を二本持ってレジに向かう。背の低いおじさんが慣れた手つきで振込用紙にスタンプするのを眺めながら、会ったところで何を話したいのだろうと思う。ほとんど衝動的に誘ってしまって、嫌われないかと思いながら、同時に、それでも来てくれることが、単純に嬉しかった。

 

金木犀の植垣が連なる道を越えると、駅の反対側に出られる。植垣の下に小さな花が所々、散らばっている。びっしりと橙色の花を咲かせている樹は、街灯の元でうっすらと色付いて見える。

 

 駅の階段の真下に、彼はいた。初めて会ったときと同じように携帯の画面をむっつりと見入っている。

「ごめん、待った?」

「いいや」

 ゆっくりと顔を上げる彼の目の前に、買ってきたばかりのチューハイを差し出す。

「一杯って、こういうこと?」

「うん」

 口を大きく横に引き延ばして、得意げに笑って見せる。面食らって笑う彼の歪んだ口元に思わず見入ってしまう。この唇で、私の嫌いな私の名前をしごく当然のように発するのだ。

 示し合わせたわけでもなく、駅前の広場のベンチに腰掛ける。向かいのベンチで酔っ払いが大の字に寝転がっている。脱力している腕が地面すれすれのところで不自然な形に曲がっている。

「最近、崇と会ったんだっけ?」

 缶のプルタブを勢いよく起こしながら彼が言った。崇とは中学からの付き合いになる。彼は崇が大学で知り合った友達で、二年前に居酒屋でばったり居合わせたときに紹介してもらったのだった。

「ううん。元気にしてる?」

「うん」

 感心のなさそうな抑揚で話すのは、はじめて会話したときと変わっていない。でもなぜか、電話では少し饒舌になる。表情が見えない分、間があかないように気でも使っているのだろうか。はっきりと尋ねたことはないけれど、きっと笑って答えてくれるだろう。

 名前を知った時も、そうだった。

「女みたいな名前ってよく言われる」

 と、口角を上げた。自嘲気味というよりは、冗談めかした表情をしていた。

 今しがた交換したばかりの携帯番号の画面で名前を確認しながら、私はそんな風に笑えないと思った。何度も男の子と間違われ、からかわれてきた名前は、私には厄介でしかなかった。

「綺麗な名前だな」

 それまで言われたことのない不意打ちな言葉に、思わず顔を上げた。目が合った瞬間、彼が名前を呼んだ。

「藤生」

 ぼんやりと酔いの回った私には、それで十分だった。

 

ぽつりぽつりと続けていた会話も、気がつけば一時間近く経っていた。両手で握った缶チューハイはとっくに空になっている。

 突然、彼が向かいのベンチ脇に設置されたゴミ箱に向けて缶を放った。缶は見事な放物線を描いてガラン、とカゴの中に落ちていく。酔っ払いの腕がピクリ、と小さく反応した。

「俺の特技」

 悪戯っぽく笑って、右腕にはめたGショックを見る。

「そろそろ帰ろうか」

 私のほうには目もくれないで立ち上がる。夜中でもこうして付き合ってくれるのに、家まで送るとか、そういうことは一切しない。 きっと今日もこのまま、振り向かないで行ってしまうのだろう。

 本当は、腕を掴んで引き止めたい。でもそれは、叶わないこと。触れられない、距離感。


「好きなんだ、」

 彼の声が記憶の中で響く。

「崇のこと。友達として、じゃなくてね」

 私の名前を口にするより、何倍も優しい声音だった。

「藤生は」

 まったく違った響きで呼ばれて、ほんの一瞬だけ心臓が跳ねる。私の鼓動とは反比例な、緩やかなスピードで彼は続けた。

「軽蔑する?」

「ううん」

「そっかぁ」

 嬉しそうに照れ笑いした目の端に、きゅ、と寄ったシワを今でもくっきりと思い出せる。


 手に入れたいもの。失いたくないもの。


――「好きだよ」


 喉の奥に出かかった言葉を静かに飲み下す。


「ありがとう」


 慌てて声に出したのは、陳腐な言葉。一瞬だけ、彼は振り向いて小さく手を振る。私は何食わぬ顔で、笑顔を繕う。

 そうして一度も振り返らないで帰っていく彼の背中を見送ってから、私も彼に背を向ける。


 午前一時。

 ひとりぼっちの道で、むせかえるほどに香る、金木犀の甘い匂いを深く吸い込む。なんの変哲のない今日が、なんだかとても幸せだったように思えてくる。