こんにちは。
ご無沙汰しておりました。
前回のブログは富山帰省中の5月5日でしたね。

ここからは悲しい備忘録となりますので、スルーされたい方はしてくださいね。



5月4日に家族全員揃って母方のお墓参りに行ったのですが、その時に私の父が転んでしまい膝に軽い擦り傷ができました。
普通なら簡単に手当てをしたら治ってしまうような傷だったのですが、父は癌の治療中だったので念のため、翌日の5月5日に病院で手当てしてもらうことにしました。
大したことはないと思っていたので、父のことは母と金沢から帰省中だった弟Mに任せ、私は学生時代の友人たちに会いに金沢に行きました。

久しぶりに友人たちと会って楽しく過ごし、夜の7時過ぎに実家に帰ってきたのですが、父が緊急入院していました。

抗癌剤治療による副作用で肺炎になってしまったらしく、検査入院ということでした。

翌6日にまだ富山にいた長男と共にお見舞いに行くと、鼻に酸素マスクを付け病室のベッドに横たわる父。

『膝の擦り傷の手当てをしてもらうだけだったのに、何でこんなことになったの~』

酸素マスクをしているので、話をしたいけど、なかなか話しにくい様子の父。
にっこり笑ったり手で合図をしたり、意識もしっかりしていたので、『肺炎さえ治ればすぐに退院できるから、またみんなで美味しいもの食べに行こうね』と励ましました。

5月7日、大阪に戻っていたパパと次男、それとゴールデンウィーク中は合宿に行っていて帰省できなかった三男が父を心配して車で病院に駆けつけてくれました。
父は酸素マスクを付けながらも冗談を言ったりとても嬉しそうでした。
翌日は子どもたちは学校だったので、2時間ほど滞在して長男と共に大阪に戻りました。

この日を境に父の体調が少しずつ悪くなっていきました。
しかも家族の顔が見えないとすごく不安になり、それが数値にも影響を及ぼしてしまうので、病院から付き添いをお願いされました。
そこから母と私、弟二人で順番に24時間体制の病室泊まり込み生活が始まりました。

パパは『大阪に嫁に来て以来、今までなかなか両親とゆっくり過ごすことができなかったんだから、こっちのこと(家のこと、子どものこと、仕事のこと)は俺に任せて親孝行しておいで。』と言ってくれました。

意識が朦朧として反応が少なくなっていく父。
薄れていく意識の中でも、いろいろなことを思っているようで、父の頬に涙がこぼれていました。
父の前では泣きたくないのに私も自然と涙が溢れ、拭いても拭いても涙が止まりませんでした。
一生懸命に毎日、毎日、話しかけ励まし続けました。

そして、2017年5月21日の夕方、
母と私、弟二人に見守られながら、父は安らかに旅立ちました。

76歳1ヶ月でした。

日本人の平均寿命更新、男性80.75歳とニュースでやってました。

平均寿命までまだまだあったのに。
オリンピック楽しみにしてたのに。
孫の成長を楽しみにしてたのに。
残念です。

お父さん、お父さんの娘で本当に良かった。
たくさんの愛をありがとう。
本当にありがとう。



おかげ様で通夜・葬儀も滞りなく済ませることができました。

そして、今日は初七日法要も終わりました。

葬儀後に母が体調を崩したので心配していましたが、今は少し体調も良くなったようなので、一度、大阪に帰ることにしました。


この4年の間に大切な義父母、父と次々に失いました。
私たち家族の悲しみはとても大きいです。
残ったのは私の母のみ。
母には三人の分まで長生きして幸せに過ごして欲しいと思います。



本当にパパや子どもたちには、迷惑をかけてしまいました。

高校に入学したばかりの三男。
きっと、不安もあったでしょう。
『大丈夫だから、おーちゃんの側にいてあげて』と言ってくれました。

次男も大学受験が迫っているので、不安もあったでしょう。
『おーちゃんが元気になったら、早くお母さんのお弁当が食べたいなあ』とLINEをくれていました。

長男は病室に泊まり込んでいる私の体を心配して、毎日のように労いのLINEをくれていました。
家の掃除・洗濯、料理はほとんど長男がやってくれていたそうです。

パパは私に代わって、学校のいろいろな書類提出や忌引きの為の連絡、学校の行事出席、家事、そして私の仕事まで、本当にいろいろ頑張ってやってくれました。

家族のおかげで私は父の側にいて最後の親孝行ができたのです。
家族には本当に感謝です。

家に帰ったら、まずはたくさん手料理を作ってあげたいと思います。